子どもを幸福の根拠にしていいの?
文字数 1,796文字
前回、「あたしおかあさんだから」という言葉の背景には、「おかあさん」と「おかあさんになるまえ」とのコンフリクト(葛藤)があることを確認しました。そのとき後回しにしたことなんだけど、なぜここで「おかあさん」に一方的に有利な歌詞になっていたのか? ということをここで考えてみましょう。
それは……作者がそういうメッセージを送ろうとしたから、じゃないんですか?
有体に言ってしまえばそうなんだけど、「おかあさんになるまえ」と「おかあさん」の和解を図ることもできたわけよね。でも「おかあさん」が「完全勝利」するようになっている。そこが気になるのよ。
それは……呼び出されている「母親は子に尽くすものである」というルールがすごく強いということでしょうか。
あるいは、これを「すごく強いということにしておきたい」という意志が働いているのかもね。
ルールがルールとして強くなるのは、どんなときかしら?
えっと、国語の教科書に、
「もともと地上には道はない、歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」
と出てきました。
魯迅の「
故郷」に出てくる言葉ね。これは希望について言い現わしたものだけれど、ルールにも近いことが言えると思うわ。人々に共有されてこそルールは力を得る。
もう一つは、ルールに従うのは、メリットがあるからよね。
交通ルールのメリットは、交通事故を避けられることですよね。
じゃあ、「あたしおかあさんだから」の中では、どんなメリットが示されているかしら?
それは……いちばん最後ですね。
「あたし おかあさんになれてよかった
だって あなたにあえたから」
この「あなた」は子どものことでいいんでしょうか?
もしかしたら解釈の幅があるのかもしれないと思ったんだけど、「あたしよりあなたの事ばかり」とあって、子どものことしか書いてないから、あなた=子どもという解釈が最も妥当でしょうね。
だとすると、「おかあさん」のメリットって、子どもがいることそのものだってことになりますよね。
でも、これってすごく怖いことじゃない?
子どもを、ものすごく価値の高いものとして位置付けているわけでしょう。すべてを投げ打って尽くすほどに。
それは、子宝って言いますし、そういう面はあるんじゃないでしょうか。
でも、子どもって、ままならないものよ。
壊すし、汚すし、すぐ熱を出すし……それに、どんな子どもも、いずれは親から離れることになるわ。その時期や理由に違いはあっても。
そういうものに幸福の根拠を求めるのは、敗北を約束された人生よ。
いずれは必ず失うんだからね。
だから、もし幸福の根拠を子どもに求め続けるのなら、自分を騙し続けなければならなくなるわ。「子どもが自分から離れることはない」とか、「母親が子に尽くすのは『正しい』ことなんだ」とかね。「あたしおかあさんだから」は、そういう自分を騙し続けるための言葉にも読めるのよ。
破滅的なことになるでしょうね。あの歌詞は、そういう想像をさせるようにできている。
親から幸福の根拠であることを求められると、それを裏切ったときは破滅が待っている……あの歌詞が「子どもにも負担を強いるものだ」と評した人が多かったのは、そのためなんでしょうか。
そういう面もあるでしょうね。あと、人間の仕組みとしての「贈与」が重要だと私は考えてる。
ええ。何かを送られたら、お返しすることを考えずにはいられないわけ。
それは、母と子の関係であっても例外ではないはずよ。
あの歌を子どもとして聞いたときに、「お返しする必要」を感じてしまうんですね。
しかも、「おかあさん」は自分のすべてを贈り物にしてしまっているわけで、それに釣り合うだけのお返しをしなければならない、と感じられる。これが「子どもに負担を強いる」と感じることの背景でしょうね。
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