§05 12/03 サボタージュ(3)

文字数 3,718文字

 俺が帰宅したのが三時過ぎで、平木がやってきたのが四時過ぎだった。姉はベッドにもぐり込んで熟睡していた。さすがに四十一階の部屋まで特定されることはないだろうと思いつつも、いつインターフォンが鳴るか? そのときカメラがどんな顔を映すか? 数時間を緊張の中で過ごし、くたびれ果ててしまったのかもしれない。
 なにがあったの?と平木が俺の部屋に入るなりそう尋ねるから(まあ当然だな)、俺は姉を襲った毎度お馴染みの事件を話して聞かせたわけである。
「いや、違うって」
「なにが?」
「美緒さんまたそんなことになってて気の毒だけど、私が来たのは違うから」
「あれ? そうなの?」
「うん。――悟朗が五限サボってそのまま帰った理由はわかったよ。美緒さん心配で帰ったのね。それはわかった。でも私が聞きたいのは細田のこと」
 なんだよ、そんなくだらない話でわざわざうち来るなよ……。
「ああ、その顔。面倒くせえなあ…て、いま思ったでしょ?」
「思ったねえ」
「知らないみたいだから教えてあげるけど、まず細田が佐藤をハブにしたんだからね」
 はい…?
「それで彩香が茉央を引っ張ってきたわけ。茉央そこのとこ省略してるみたいだけど」
 はあ…?
「悟朗は女に甘いからなあ。これあなたが首突っ込む話じゃないよ」
「いやちょっと待て! 細田にそんなことできるはずがない」
「そうね。私も聞いたときそう思ったけど、細田が先導したのは事実。紛れのない事実。あれこれ証拠が挙がってるの」
「いや、でも――」
「細田と友達だ、とか言ったんだって? それ意味ないから。悟朗が顔出してもなにひとつ解決しない。茉央につきまとうバカな男たちを追い払うのとはわけが違う。それくらい悟朗にもわかるでしょ? わかるよね?」
「わかるけど。――でもさ、細田がなんで佐藤をハブるわけ?」
「もともと細田と仲良かったみたいよ。細田と向井だったかな? それがほら、ちょっと事情があって、佐藤いま彩香の家にいるじゃない? 急に彩香にべったりになって、細田は気に入らなかったわけよ」
「確かにそんなこと言ってたような気がしないでもない。――でも佐藤由惟だろ? 細田と向井なんかでハブれるもの?」
「そこは、たぶんだけど、相手が彩香だったから成立しちゃった、のかもね」
「なんで桃井だと成立するんだ?」
 俺はほんと子供みたいなこと訊いてるな……。
「だから、彩香って女子とつるまないでしょ? いっつも白けた顔しててさ。それに瀬尾とくっついたじゃない? 瀬尾ってああ見えてモテるんだよね。まあ見た目はいいからね。それで周りの女もさ、なんて言うか、感応しちゃったみたいね」
「どっかの中学生の話をしていますか?」
「んふふ。そんな感じだよねえ」
 そんな面倒くさい話に乗っかっちまったのかよ……。
「あ、なんか細田と約束した?」
「したねえ。しちゃったねえ」
「どんなの?」
「試験中、友達ぶって声かける、とか」
「呆れた……。悟朗がそれやったら、この先もう男が寄りつかなくなるだけじゃない」
 確かに、そいつは大いに懸念されてしかるべき重大な事態だぞ。
「……平木、ここは、ひとつ」
「自分でやれ。――て悟朗なら返すとこだよねえ」
「イジワルしないでくれ……」
「まさか私が悟朗の尻拭いすることになるとはねえ」
「長生きはしてみるもんだろ?」
「まだ十七です」
 それから俺は日中に細田とどんな話をしたのか、平木から根掘り葉掘り尋問されたわけである。例の「そっち側」とか「こっち側」とかいう話だ。平木も自分の名前が出てきたものだから、ちょっと驚いたように眉を顰めて見せた。
「それってスクールカーストみたいなこと言ってる?」
「たぶんね」
「あのさ、うち進学校だよ? だから今いちばん偉いのは内藤で、次が紀平さん。モノサシはそれしかないでしょ」
「茉央もずいぶん偉いみたいだぞ?」
「モテる女が偉いわけないじゃない」
「足の速い男も?」
「だから茶山はさっさと引退したでしょ」
「背が高い男も?」
「大迫は初戦で惨敗して灰になった、て噂よね」
 誰が言っているのか知らないが、灰になった…とは言い得て妙である。しかし大迫は偉いぞ。茶山はもっと偉いけど。だが平木の言い分こそ正しいのだろう。内藤がいちばんで、次は紀平だ。あいつらほとんどの科目で百点だからな。
「あのさ、ちょっと後学のためにお聞きしておきたいのですけどね、うちでいちばんモテる男って誰ですか?」
「男? 男ねえ……。まあ、よく聞くのは瀬尾と有賀かなあ」
「有賀! テニプリの有賀か! なるほどなあ。でも有賀と瀬尾じゃダンチじゃね?」
「それ悟朗が瀬尾のことよく知ってるからでしょ」
「まあ、確かに有賀とは話したことねえな。――あ、そうそう! 今日さ、帰りに細田のクラス寄ったら足立がいてさ、ついに尻尾をつかんだんだよ。足立もテニスだよな。これで俺も今夜から枕を高くして眠れるってわけだ」
「なんの話?」
「ようやく影をつかんだんだよ」
 しかし、平木に対しては個別具体的な出来事を正面からぶつけてやる必要がある。そうしないとこの女は本当には理解しない。あれこれ先回りして、いつも正確に勘を働かせてくる割りには、その辺り、平木にもちょっと抜けているところがある。
「ああ、例の意味なく煽られる、て話のこと」
「そう、そう。これまで声はすれども姿は見えず…てな具合だったんだけど、足立はバカだからさ、バカだったと今日判明したんだけどさ、あんな状況下でうっかり声をかけちまうバカのお陰で、ついに一件落着の運びとなったわけさ」
「ほんとに落着するの?」
「する、する。だって足立のやつ、しょんべんチビりそうな顔してたぜ」
「ふ~ん……。まあ、それで落ち着くならいいけど。いつまでも紀平さんが悟朗の相手してくれるとも思えないし。――そもそもなんで紀平さんさ、そんな割の合わない仕事引き受けたのかな? そこなんて言ってる?」
「ああ、そこはね、俺から茉央、桃井、佐藤、日浦ってな具合に接続してるんだよ」
「前にも日浦がどうしたとか言ってたけど、あの二人なんなの?」
「あいつら幼馴染みで、ややこしくもつれてるっぽい。そこは俺と茉央とは違うんだ」
「悟朗だって茉央にキープされてるじゃない?」
「されてねえよ!」
「最悪

がいるから、て茉央いつも言ってるけど?」
「茉央の最悪って何番目だよ? 俺に回ってくるまで人生百回はやり直してるだろ!」
 いや百回くらいじゃ全然まったく足りてねえだろ!
「悟朗はさ、マジで茉央のことなんとも思ってないの?」
「世界中の男で俺だけは姉ちゃんに欲情しないのと同じだ」
「私にも欲情しないよね?」
「したことないな、申し訳ないけど」
「いやそれでいいんだけど。――じゃあ、えっと、佐藤由惟は?」
「あれはいい女だと思うよ。でも日浦と争ってまでなんとかしたいとは思わないね」
「じゃあ彩香は?」
「あんな面倒くさそうな女、なんで瀬尾のやつ――」
「まさか細田にグッときちゃった感じ?」
 平木がいかにも愉しそうに、こんなくだらない無駄話を口にする女の一人に過ぎなかったのだと知れば、我が校の純朴な男子生徒諸君はぶったまげるに違いない。知ったようなことを言わせてもらえるならば、クソがつくほどの美人に生まれついたとしても、相応の時間をかけ、相応のプロセスを経て成長するのが、生物としてのヒトというものなのである。むろん例外はいくらでもあるだろう。が、平木は「そっち側」にはいない。平木もやはり「こっち側」にいる。そもそも「そっち側」にいる人間など、指折り数えられるほどではあるまいか? 少なくともこの辺の都立高校などに転がってはいない。ましてや俺の部屋なんぞに上がり込んでもいない。俺たちは二学期の期末考査を控えた都立高校の二年生であり、そんなものはその辺にいくらでも転がっているのだ。
「世界史、終わってるの?」
「おかげさまで」
「生物は?」
「そいつも頭に押し込んだよ」
「私さ、やっぱり文転しようかと思って……」
 ――このタイミングでそいつをぶっ込んでくるか?
「明日、両親とお話しする」
「そうか」
「この一週間さ、なんとなく紀平さんと一緒にいたじゃない? 近くで勉強してたでしょ。そばで見てて、なんか、踏ん切りがついた。悟朗のお陰だよね」
「俺はなんもしてない」
「ついでにちょっと思ったんだけど、紀平さんてやっぱり悟朗が好きなんだと思う」
 ――そういう重大な事案を「ついでにちょっと思う」のは如何なものか?
「茉央ちゃん来てるの?」
 タイミングよく、扉の向こうから姉の声が尋ねた。客がいれば、それが良く知っている茉央であったとしても、黙って入ってくるようなことはしない。
「あ、平木です。お邪魔してます」
 なんとはなしに、俺たちは居住まいを正した。
「瑠衣ちゃんか。久しぶりやね」
 扉が開き、寝ぼけ眼の姉が、するりと身体を入れてくる。――もし本当にこの世界に、「そっち側」と「こっち側」があるのだとすれば、姉は間違いなく「そっち側」の人間であることを、俺は――恐らく平木も――否応なく認めざるを得ない。むろんずっと前から知ってはいた。少なくとも俺たちは知っている。俺と、平木と、茉央は。
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