§02 11/25 今日も厄日かよ?(3)

文字数 3,824文字

 カフェテリアは(ただの学食だけど)えらく混みあっていた。みんな勉強をしているのではない。大半がくっちゃべっている。二年の顔ぶれをざっと見回しても、余裕があってのことではなさそうだ。とは言え平木が、やはりここがいいと言うので、自販機で飲み物を買い、適当に空いているテーブルに並んだ。
 平木とは毎度こんなふうにして、数学と世界史の交換をする。前々週の後半――まさに今日はそのタイミングだ。お互い理系クラスであるにもかかわらず。しかし、なまじっか平木の家庭事情を知っている(聞かされてきた)ものだから、さっさと文系に切り替えろとは、俺には言えない。
 それでも平木が、いわゆる地歴・公民を得意にしているのは間違いなく、中でも世界史にめっぽう強いものだから、俺は要するにそれを当て込んでいるわけだ。地歴で世界史なら、公民は政治経済となる。この二つを合わせれば物語風に憶えられると、それこそ平木に指摘されたのだが。
 三十分ばかり経った頃、並んで座っていた俺たちの向かい側に、人影が立った。先に顔を上げたのは平木のほうだった。階差数列を使って一般項を求めるやり方をノートに書いてやっていたところ、肘を突かれた。俺は平木の横顔を見て、その視線の先を追い、向かいに立つ野口を確認した。
「なんか用かい?」
「平木さん、俺ちょっと話したいことあって――」
「あ、私なの?」
「うん、そう」
「じゃ、俺はラウンジにでも――」
 と腰を浮かせかけた腕を、平木にぐいっと引き戻された。
「話ってなに?」
「いや、できればどこか、人目がないところって言うか……」
「ああ、ごめん。いま私そういうやつ募集してないんだわ」
「いや、違くて。あ、えっと――」
「いいから、潔く引き下がりなって。私まで注目されて恥ずかしいよ。どうしても…て言うなら、試験終わってからにすべきじゃないの?」
 まったく平木の言う通りだな。そういうのは試験前にする話じゃ――て、おい、なんで俺を睨みつける? 俺ぜんぜん邪魔してないじゃんよ? むしろ気を利かせて腰上げようとしたの、野口も見たろ? それ引き戻したの平木だぜ? いや、おい、待て! そのまま黙って行くな!
「悟朗いてくれて助かったあ……」
「今あいつ、俺が邪魔したって顔したよな?」
「そう?」
「したよ! あ、なんだよ、クソ! こんなの自分の失策だろうに」
「彼も男バレ? 悟朗知ってる感じ?」
「あれは野口ってやつで――いやでもクッソ腹立つなあ。なんで睨みつけんだよ」
「ねえねえ、城田もそうだけどさ、男バレどうかしちゃったの?」
「おまえらが瀬尾の送別会なんか行くからだろう」
「ああ、あれのせいか。そうかもね」
「しっかし、なんだよ。胸くそ(わり)いなあ」
 どうにもくさくさした気分が後退せず、それでも平木が解放してくれるまで漸化式の説明をゆるい感じで――ゆるい感じを維持するのも一苦労だったが――なんとか終えてみると、もう自習棟に戻る気分でもなく、先に帰ることを茉央に伝えてくれるよう平木に頼み、カフェテリアからまっすぐに学校を出た。今日もまた厄日だ。やれやれだな。

     *

「姉ちゃん暇そうだなあ」
 今日も姉はリビングのカーペットの上に寝ころんでいる。
「ほんと暇やわあ。悟朗、なんかおもしろい話ない?」
「おもしろい話ねえ……。実はさ、昨日今日と立て続けに男を追い払ったんだけどね」
「実は…とか言って、どうせ茉央ちゃんと瑠衣ちゃんなんやろ?」
「アタリ」
「いつものやつやんか。そんなんつまらん、つまらん」
「でもそいつがさ――」
「ねえねえ、悟朗にはまだ気になってる子とか出てこんの?」
 気になってる子? 気になってる子か……。気になっているやつなら、いないでもない。が、あの佐藤由惟について、姉にどう説明すればいいものか……。なにしろ俺には断片的な情報の持ち合わせしかない。それもすべて茉央や平木からの伝聞だ。ちらちら見え隠れする、そんな佐藤由惟の姿を描いて見せるのは――
「黙りはったね。いるんやな?」
「あのさ、姉ちゃん――高校生の女の子がある日突然、親戚の家から学校通うようになる理由って、なんか思いつく? もちろん公にはできない理由だよ」
「悟朗その子のこと好きでもなんでもないやん」
「あれ? なんでわかるの?」
「気になる、ていうのはね、そういうんじゃないんよ」
 まあ、そりゃそうだろうな。俺にもそれくらいはわかるよ。
「ご飯なに食べたい? 今日は勝手にやってくれ言われてんねんけど」
「予算は?」
「けっこうもろうたよ」
「じゃ、焼肉」
「単細胞やな」
 この姉は勉強ができる。昔っからいつもこんなふうにカーペットの上に寝転がり、くだらないYouTubeの動画をテレビに流しっ放しにして、ポテロングなんかを齧りつつケタケタ笑っていたはずなのに、某有名女子大の理学部にあっさり合格した。要するに遺伝的に勉強ができるわけだ。サンデル先生によると、勉強ができるというのはほぼほぼ遺伝的かつ時代背景的な出来事だと考えてよく、だから偉くもなんともないという話である。
 姉がなぜ女子大かと言えば、これも昔っからそうなのだけれど、とにかく男にモテるからだ。ひとまず女子大に通っていれば、自分から行動を起こさない限り、日常生活が煩わしくなるほどの事態に陥ることはない。しかしこの姉がなぜそんなにモテるのかは謎だ。茉央や平木のように、まあ見ればわかるよ…というやつではない。見てもなんだかよくわからない。しかしちらりとでも見られた男どもは、指の先すら動かせなくなってしまう。
 確かにスタイルはいい。髪も艶やかで綺麗だ。しかし二十歳の女なのだから、ある程度は進化生物学的に(自然淘汰ではなく性淘汰のほうの働きの結果として)、当然そうした要素を獲得していくものだろう。敢えて弟である俺が挙げるとすれば、やはり目だろうか。眼差しと表現すべきかもしれない。どこか、それもかなり、いや遥かに遠いところを見ている。思わずその先を追ってみたくなる。ましてや、この眼差しにちらりとでも見られようものなら、射竦められて息をするのも難しい。――いや、俺は平気だよ。だって「姉ちゃん」だからな。
「ちょっともうカルビはやめにして。最後は、ロースやな」
「今日って現金?」
「どっちでもええよ。でもなんで?」
「会計は俺がするわ」
「あ、さっきの男か?」
「あれは完全にロックオンされてる顔だな」
「ふう……。悟朗に任せるわ」
 そう、その通り。――俺のいつもの役回りは、生まれ持った性質などではなく、この姉によって醸成されたものと考えていい。姉と出かけると、けっこうな頻度でこれに出くわす。「うるさい」に「五月蠅い」と漢字をあてるように、俺はハエどもを追い払わなければならない。同い年くらいのアホ男子から、けっこう身なりのいいクソオヤジまでいる。口より先に手が出てしまうタイプの脊髄反射系の男もいれば、もごもごと意味不明の言葉を呟き続ける薄気味の悪い男もいる。幸か不幸か、俺には彼らを姉の視界から追い払うことができるのだ。きっと神様が、受精した俺の誕生後の行く末を案じ、そのような能力をこっそり授けてくれたのに違いない。茉央や平木に言い寄ってくるくらいの男なら、小指一本でお引き取り願える。そんな能力だ。役には立つ、なにしろ一方から感謝されるわけだから。だが恨みも買う、なにしろ――
「高校生?」
 釣銭を出すのにずいぶん手間取っている様子を見て、引き算もまともに出来ないのか?と考えるほどの木偶の坊ではないつもりだ。
「高校生ですよ」
「あの人は、えっと、お姉さん?」
「姉に、なにか用件でも?」
「え? あ、いや、いいんだ……」
「お釣り、百円多いですね。――ごちそうさまでした」
 まさか本当に釣銭を間違えるとは思ってもみなかった。店を出ると駐車場の端、裏通りに出る手前に姉が立っていた。歩み寄った俺に首を傾げて見せるので、黙って釣銭を渡そうとしたら、そのまま握らせてくれたので、有り難く頂戴することにした。
「夜になると冷えるねえ」
 このまま大学も仕事も在宅のままの世界に移行してしまえばいいと思うことがある。もし結婚したいのなら見合いでもすればいいのだ。出自を問うことは決して差別的行為ではない。むしろ高確率でアタリを引くだろう。少なくとも恋愛より確かなのは間違いない。
「そう言えば悟朗、そろそろ期末やろ?」
「うん、再来週」
「お母さんこないだな、悟朗は私大でええんちゃう?とか言うてはったよ」
「あ、そうなの?」
「だって共通テスト心配やない?」
 なんだよ、だったら平木に世界史なんか教わる必要ないじゃんか。いやでもそれだと平木の側に差し出すものがなくなるのか。あいつ困るかな? まあ困るよなあ、きっと。……う~む、どうすっかなあ。別に交換条件はなくてもいいんだけど、それだと平木が納得しないだろうしなあ。いい加減さくっと文転しろ、て言うか? いやそれだけじゃダメだよな。なにか具体的な到達点を示さないと。
 ――たとえば、そう、古代史だとかね。遺跡や遺構の発掘調査とか、どっかの蔵から出てきた古文書の解読鑑定とか、そんなのどうかね? 平木は土や埃を嫌うかな? とにかく法律・政治・経済から遠いほうがいいわけだろう? それも、なるたけ遠いところを見ていたいわけだろう? だったら、古代史をやればいい。明日や来年や十年先のことなんて、きっとどうでもよくなるぜ。
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