§05 12/03 サボタージュ(4)

文字数 4,221文字

「悟朗はつくづく肖り物やよなあ。瑠衣ちゃんとか茉央ちゃんとか、可愛い女の子がいっつもそばにおって。こんなん、そうあるもんやないよ」
 滅多に耳にすることのない「肖り者」なんて怪しげな言葉を持ち出して、いつものいい加減な関西弁――なぜ「いい加減」にしろ「適当」にしろ、これらの形容動詞は善し悪しの両義性を持つのだろう?――を操る姉は、まだとろりと眠そうな眼つきのまま部屋に入ってくると、俺のベッドにごろりと横になった。
 そのベッドには先に、カーペットに座った平木が背中を凭せ掛けている。俺は類い稀なる(という形容をしておこう)女を二人――「座る女」と「寝そべる女」を向かい側に並べ、やや奥行きのある造形的な映像として眺めることになったわけだ。そうして見れば、確かに平木も「そっち側」にいるように思えなくもない。
 西洋絵画に現れる、郊外の森の樹陰で午餐を終えた二人の女(もちろん彼女らは人ではなく神なのであり、だからカンバス上で裸体を露わにすることが許されるのだが、しかしこの二人は言うまでもなく人なので、すなわち着衣のままそこにいる)――そんなモチーフに向き合う画家の立ち位置をイメージしてみると、俺の視覚が受け取っているこの場の映像を理解する助けになるだろう。
 平木は長い脚を二本とも前に(俺のほうに)投げ出しており、俺は片膝を抱える格好で向かい側の壁に寄りかかっている。あいだには平木が途中のコンビニで買ってきた飲み物と醬油煎餅の袋(だから俺の部屋には焦げた醤油の香ばしい匂いが充満している)があり、特段の趣味を持たない俺の部屋にはベッドと机と本棚と、あとは造りつけのクローゼットがあるきりだ。並んでいる本に時代からズレた偏向はないし、壁には画鋲を刺した痕ひとつすらも見つからない。まさに、類い稀なる女を二人お迎えするに相応しい情景だろう。
「あんたら試験勉強せんでええの?」
「するよ。今夜は現社・政経かな。そんで土日に理数系ちらっと眺めれば、まあ大丈夫じゃねえかな」
「私はちらっとじゃダメだなあ。今夜もがっつり数学と物理やらないと。――あ、美緒さん、私、文転することにしたので」
「え、そうなん? 瑠衣ちゃん私の後輩になるんや!て言うてはったやないの~」
「そこは、ごめんなさいです」
「まあ、ええよ。瑠衣ちゃんもともと文系のほうが得意やったしな。でも文系でも後輩にはなれるか。でも女ばっかやから瑠衣ちゃん物足りないかも知らんね」
「マジで女ばっかなの?」
「そら女子大なんやから、当たり前やろ」
「う~ん……。表にステディなカレシいたら、女子大でもいいと思うけど」
「ほんまに? せやったら悟朗、あんたなんとかせえよ」
「俺はね、高校終わったら、それぜんぶ卒業すんの」
「それ、て?」
「だから、茉央や平木の虫除けみたいなやつだよ」
「今またそんな相談してたん?」
「今は違うよ」
「美緒さん、今日は珍しく悟朗のほうが――」
「おい、こら!」
「なに、なに? 悟朗にもやっと春が来よるんか?」
「来ねえよ。そういう春は来ねえ。卒業するまで絶対にない」
「ねえ――それってもしかして、茉央と私のせいだと思ってる?」
「いや。純粋に俺がチビでブサイクなせいだと思うぞ。自分で言うのも腹立たしいが」
「確かにチビだけど、悟朗はブサイクじゃないと思うよ。なんだかおっかないだけで」
「招き寄せる事象は同じだろうよ」
「別に、女の子たちは悟朗のこと怖がってないじゃない。細田もそうだったでしょ?」
「細田は充分ビビってたけどな、俺が暗闇からぬっと顔を出して――」
「あ、細田さん言うはるねんな、その話題の少女。――ちょっとお姉ちゃんにも聞かせてほしいわあ。まだお腹減ってないでしょう?」
「あれ? 今日も遅くなるって?」
「うん。お母さん忙しいみたいやね」
「じゃ、今夜は出前がいいな。平木も食ってく?」
「どうしよっかなあ。――終電までここで勉強したら、悟朗、送ってくれる?」
「俺はどうやって帰ってくればいい?」
「タクシー代くらい渡すよ」
「だったら自分がタクシー乗ればよくない?」
「運転手が悟朗なら、それでも構わないけど」
「……わかった。俺が送ってくわ」
 確かに、そいつはダメだ。終電に間に合わなかった…みたいな時間帯に、平木をひとりでタクシーに乗せたりしたら、俺のこれまでの長きにわたる振る舞いのすべて、言い直せば、この俺の依って立つ足場が一瞬で灰燼に帰す。こいつはそれくらい造りの脆いやつなので、そいつはできない相談だ。――で、どうする? 平木は今ここで帰すか? しかし最後に平木と勉強できるのは助かるよ。まだ指定校推薦の芽だって消えちゃいないわけだから、稼げるときに稼いでおかないとな。私大でも構わないと母が口にしたそうだから(姉がそう言った)、それに乗っからない手はないだろう? なにしろ生まれつき俺の視野はとことん狭くできている。だから受験科目は少ないほうがいい。一発勝負には決して弱くない体質ではあるが、推薦がもらえるならむろんそのほうが心は安らかだ。
 ついさっきまで自分の部屋で寝ていたはずの姉は、俺たちが勉強を始めたもので、まもなくそのまま俺のベッドで寝息を立て始めた。俺はダイニングから椅子を持ってきて、平木と狭い机を挟み、試験前週の金曜の夜に訪れたこの好機を活かすべく、テキストとノートを拡げたわけである。この日は俺が現社・政経で、平木は引き続き数学・物理だ。シャーペンの芯がこする紙の音に、姉の微かな寝息が紛れ込んでくる。寝たら滅多なことでは起きない姉なので――ほぼ自律的にしか起きられない姉なので――要するに地震や雷や人の話し声では目を覚まさない姉なので――俺たちは声をひそめたりはせず、お互いに決して得意とは言い難い科目の試験対策を、いつものように交換した。これまでも平木とはずっとこれをやってきたのである。
 だから――すっかり日も暮れて、そろそろ腹が減ってきた時分に、インターフォンが鳴ってからの出来事には、正直かなり面食らった。俺のベッドで寝入っている姉と、俺の机で勉強している平木と、二人の姿を目にした茉央のヒステリックなほどの暴れように、である。俺は一瞬、これって初めての景色だったか?と疑ったくらいだ、姉と平木が俺の部屋にいる景色を。しかしそんなはずはなかった。平木はちょくちょくここに勉強をしに来ているし、茉央が加わっていたのだって数えきれないほどにある。そこに姉が顔を出すのは毎度のことだ。従って――そう、恐らく茉央は平木が俺の机に向かっていることではなく、姉が俺のベッドで眠っていることでもなく、細田をめぐる一件に、なんらかの感情線が束になってブチ切れたものと考えるべきだろう。
 あろうことか、正直まったく意味がわからなかったのだが、俺の部屋に入ってくると、しばらく黙ったまま平木を見据えていた茉央が、いきなりつかみかかったのだ。俺はなんとか二人を――いや茉央を平木から――引き離した。が、立ち上がった二人は真剣を抜き合って対峙する武士(もののふ)のように、黙って睨み合ったまま動かない。
 やがて、茉央が先に口を開いた。
「瑠衣ちゃん、なんでずっと黙ってるの?」
「悟朗が自分で説明したほうがいいと思って」
「彩ちゃんなんですぐに瑠衣ちゃんには言ったのに、私には今頃になって忘れてたみたいな感じで言ってきたの?」
「目の前で茉央が今みたいにキレると面倒くさいからじゃない?」
「やめろ!」
 ふたたび茉央が平木につかみかかろうとするのを、後ろから両腕を捕らえて押さえ込んだ。
「なんで平木を襲うんだよ! 相手が間違ってねえか?」
「間違ってないよ! ここに彩ちゃんいたら二人まとめてブチのめすよ!」
「だから、桃井も平木も関係ねえだろうが」
「私に隠した。私に黙ってた。私を後回しにした。……許せない!」
「やめろって!」
 どうして平木は逃れようとしないのかと訝しみつつ、俺はまたもつかみかかろうとする茉央を力尽くで引き剥がす。これだけの騒動ともなれば、地震や雷では目を覚まさない姉も、さすがにむっくりと上体を起こした。姉の眠そうな眼にじっと見られた茉央は、そこでようやく毛を逆立てて威嚇する猫のような気配を、不承不承に収めたのだった。
「茉央ちゃん、なに騒いでんねん?」
「だって、私、コケにされた……」
「瑠衣ちゃんがコケにしたんか?」
「してませんよ」
「したでしょ!」
「ああ、あれやな、細田っちゅう女の話やな。せやろ?」
「な、なんで美緒さんまで――」
「あのな、茉央ちゃん。今日な、私ちょっと酷いことあってな、家から出られんようなってしもたんよ。悟朗には黙っとこ思うたんやけど、バレてもうてな、学校サボって帰って来よったんやわ。そしたらな、細田いう女も学校おられへん言うから、一緒に抜け出してきたんやて。でも悟朗は知らんかったんよ、その細田いうんが桃井と対峙しとったなんて話。――悟朗はアホやけど、茉央ちゃんはずっと悟朗の一番やから、誰もコケにしたりせえへんよ。悟朗のことで茉央ちゃんすっぽかすなんて、みんなそんなんせえへんよ」
「ちょっと

、もう暴れないから。腕痛いよ」
 俺は拘束していた茉央の腕から手を離した。
「……じゃあ、どうして後回しにされたの?」
 そいつはさっきから俺も疑問に思っていた。茉央は俺の隣りにぺたんと座っている。平木は俺と姉と三人からの視線を集められ、焦点となってしまい、苦々しげな顔でひとつ小さく溜め息をついた。
「学校でそれ聞いたら、茉央、あんたどうする?」
「細田を探す。見つけ次第、ブチのめす」
「でしょ? だから茉央が家に帰る時間まで彩香は待ったの。家に帰ってから聞けば絶対に悟朗のとこ来るはずだし、そうすれば細田を探しに行くなんてしないはずだから。そもそも夜になるしね。まあ細田はとっくに帰ってたけど」

……」
「ん?」
「細田と変な約束なんかしてないよね?」
「いや、そいつはな、茉央――」

は美緒さんと瑠衣ちゃんと私だけ。ほかはダメ!」
 そんなことはわかってる。どうしようもなくわかってるよ。今日、それこそ細田も教えてくれたことだ。みんなは俺にビビるんじゃない、吹雪茉央と平木瑠衣にビビるんだ。俺の後ろに吹雪茉央と平木瑠衣が見えるからさ。俺が口にする「ノー」は、吹雪茉央の「ノー」であり、平木瑠衣の「ノー」であって、俺の「ノー」じゃないってことだろう?
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