§01 11/24 今日は厄日だ……(2)

文字数 3,844文字

 この日から部活が自主練に切り替わることをすっかり忘れていた。確かに再来週から期末考査が始まる。つまり今日は前々週の水曜日である。昨日が祝日だったもので、月曜みたいな気がしてしまったのだ。――ところが、閑散とした体育館のど真ん中で、大迫が独りスパイクを打っていた、気の毒な一年を相棒にひっ捕らえて。
 静かな体育館に響き渡る、大迫のド迫力なスパイクが床を打つ音は、いかにも爽快(壮快?)だった。俺は壁に背を凭れ、188㎝の大男が宙に躍る様を、なんとなくぼんやりと眺めた。三年が引退し、瀬尾が退部したあとの秋の公式戦で、新たに大迫が率いることになった男子バレーボールチームは、初戦でみっともないくらいの大敗を喫していた。
 確かに大迫のスパイクには、大敗を喫した男の、ぶつける先が見つからない音がする。
「お、悟朗じゃんか。そんなとこでなにやってる?」
「デカい男がブチ切れてるのを眺めてる」
「ぶっ殺すぞ」
「向かい側に瀬尾を立たせりゃいいのに」
「俺にもプライドってやつがあるんだわ」
「さっさと捨てたほうがいいなあ、それ」
 気の毒な一年に、悪いが片付けて帰ってくれ、明日はまっすぐ帰って勉強しろ、などと如何にもキャプテンらしいことを言いつけて、大迫がタオルで汗を拭いながら歩み寄ってくる。一歩一歩がデカいから、あっという間に目の前までやってくる。鬱陶しくも腹立たしい背丈の差を解消すべく、俺は床に腰を下ろした。大迫も隣りに座った。が、座っても大迫のデカさは度し難く、鬱陶しさも腹立たしさも解消しなかった。
「茶山の話、聞いてる?」
「目標の高さは、届かないという現実を甘やかしてはくれない」
「目標の低さは、届いたという事実を嘲うものではない」
「そっちは程度に寄りけりだぜ」
「だよなあ……」
「瀬尾を引き留めなかったせいでこじれたんだろ?」
「まあな」
「アホみたいな宴まで催しちまって」
「返す言葉がないわ」
「でも茉央は楽しかったみたいだよ」
「へえ、そうなの? 悟朗もたまにはいい話を持ってくるんだなあ」
 大迫が思いのほか凹んでいるようで、ちょっと驚いていた。それだけ酷い試合をしたということなのだろう。しかし、ここで大迫と二人きりで話ができるのは、なんと言おうか、毎度のことながら茉央の引きの強さを実感させられる僥倖である。
「なあ、シロタってどんなやつだっけ?」
「城田はねえ、あれはちょっと天才的なリベロだな。あいつが機能しないと、うちはこないだみたく悲惨なことになる。城田を嫌った先に瀬尾が待ち構えてたんだよ。わかる?」
「そんなのはどうでもいいんだけど」
「え、なんかやらかしたの?」
「茉央を付け回してるっぽい」
「おいおい、マジかよ!」
「騒ぎになる前にやめさせたほうがいい」
「当たり前だ。吹雪なんかにのめり込んだら、ロクなことにならない」
 そういう評判もどうかと思うけど――なあ、茉央、ちょっとおまえ、考えたほうがいいぜ。いや真面目にさ。明らかにここんとこ歪みが大きくなってきてるぞ。
「しかし意外だな。城田がそんなアホだとは思わなかったよ」
「宴に呼んだやつの責任を問うべきだな」
「呼んだのは瀬尾だぜ?」
「歓んだのは大迫だろ?」
「厳密には、呼んだのは桃井だな。――あ、桃井って言えばさ、佐藤由惟がなんか知らんけど桃井の家から通ってるとかいう――」
 おまえまでその話すんの? みんな頭おかしんじゃね?
「――でもって日浦がさ、あ、悟朗って、日浦知ってる?」
「茉央から聞いてる範囲でしか知らん」
「テコンドー使うんだわ、あいつ。栗林がまともに蹴り喰らってぶっ飛んだらしい」
 栗林まで出てくんのかよ。もうなんの話かわかんねえよ。
「悟朗も気をつけろ。俺たちは武道家には勝てない」
「日浦と揉めることなんてねえよ。俺は佐藤とは無関係だ」
「吹雪が動いてるのに?」
「そいつもひっくるめて、もう佐藤の話はやめろ」
 体育館には大迫と気の毒な一年と俺だけしかやってこなかった。施錠して鍵を返しに行くという大迫と別れ、自習棟で時間を潰すことにした。この時期は図書室のほうが空いているだろうとも考えたが、茉央からちらりと聞いた話を思い返すと、佐藤由惟ご本人さまとご対面しないとも限らない。そいつは明らかに悪手だろう。

     *

 大迫のバカみたいなスパイクを眺めていたせいで出遅れたが、なんとか座席を確保した。が、生憎なことに、二列前に瀬尾を挟んで茉央と平木の後ろ姿が見える。衝立から顔を出さなければ見つかる心配はなかろう。――しかしこれ、帰りは茉央と一緒になるパターンだな。シロタとかいうバカに出くわさないよう背後に気をつけて帰らないと……。
 ちょっと苦手な生物の教科書を頭から読み返し(とは言え人類はもう少し「生き物=自分たち」の世界を理解すべく努力したほうがいいと思い選択したのだが)、それが三周目に入ったところで隣りに誰か女が座った。女であることは匂いでわかる。フェロモン的なやつの話ではなく(そんなものを検知できた記憶はない)、純粋にシャンプーだかなんだか知らない人工的な香り付けのせいだ。
 ――が、俺のほうに明らかな油断があった。ついうっかり教科書にのめり込んでしまっていた。隣りに座られてしまうような隙があったという意味だ。しかし顔を見れば、隣りに座られて迷惑な女でもない。不運が続く本日の出来事の中では、(幸運とは言えないながらも)気分が荒くれも塞ぎもしない、平穏な人選である。
「なんだ、平木か」
「もうちょっと嬉しそうな顔してよ」
「いやあ、今日は災厄が続いててさあ」
「おもしろそう。聞かせて」
「まず朝のエレベーターで茉央に捕まって――」
「それ毎朝のことじゃない」
「階段で行く手を茶山と瀬尾に遮られて――」
「捕まった宇宙人みたいなやつね」
「間違って体育館行ったら凹んでる大迫に出くわした」
「酷い……。確かに最悪だわ」
「今こうして平木に捕まって、帰りは間違いなく茉央に捕まる」
「終わり良ければ総て良し、てオチ?」
「あ、もうひとつあったぞ。紀平の嫉妬に塗れた顔を見せられた」
「へ? 紀平って悟朗に気があるの?」
「俺じゃねえ。日浦って男だ」
「ああ、佐藤由惟。――メスとしては紀平の完敗だねえ」
 さすがに話を続けるのは憚られる。ここは自習棟の中でも衝立で仕切られた集中用のスペースだ。平木がまだ話したそうだったので、おしゃべりOKのラウンジに移動した。茉央より平木のほうが圧倒的に人目を惹くとは言え(なにしろこの女はゴージャスだ!)、茉央とは違って平木に熱を上げる男は極めて稀である。互角に渡り合える気がしないからだろう。ふつうに話せば、ふうつの女と変わらないのだが。
「なあ、茉央はなにを始めたんだ?」
「彩香の頼まれごとを淡々とこなしてるだけ」
「なんで桃井?」
「だって佐藤と従姉妹じゃない」
「従姉妹は理由になんねえだろ」
「悟朗って紀平と仲良しだったよね?」
「それがなにか?」
「日浦と佐藤は続かないんじゃないかなあ。佐藤ってアサッテのほう向いてるし」
「今日はもう佐藤の話は聞きたくない」
「悟朗が振ってきたんでしょ」
「そうだった。悪い。――で、いよいよ文転するって話か?」
「女の理系ってさ、言っても食品や医薬とかに偏ってる感じしない?」
「ああ、バリバリにジェンダーバイアスがかかってる世界だな」
「でも私、生理学系って嫌なの。なんか気持ち悪いでしょ?」
「無機的なほうがいい、と」
「そう。――でもさ、工学部ってほとんど男だよね?」
「掃き溜めに極楽鳥、てな具合になるねえ」
「極楽感出してるのって、あれぜんぶオスだけど」
 平木の両親はそろって弁護士である(社長令嬢という噂もあるそうだが、伝聞の途中で情報が置き換わってしまうのはよくある話だ)。だから、ちらりとでも文系の可能性を匂わせようものなら、一瞬で捕って喰われる。……と、平木はそう信じている。さすがに弁護士になれとまでは言われないものの、たとえばパラリーガルであるとか、あるいは検察事務官であるとか、その周辺に進むことを強要される。そうした親の行動パターンは実際あちこちで確かめられるわけだが、しかし平木の親もそうであるとは限らない。が、「とは限らない」なんて不確かなサイコロみたいなやつに賭ける真似は、平木にはできないのだ。男どもが平木と互角に渡り合える気がしないのと同じように、平木には両親と互角に渡り合えるとはとても想像できないので。……というのが、茉央の分析である。茉央の分析ほど当てにならない代物は世の中にない。
「あ、紀平を探してたって、そのこと?」
「別に探してはいないけど。――茉央から聞いたの?」
「いや、階段で茶山と瀬尾にブチ当たったときに――」
「紀平がなに考えてるか聞いてみたいんだよね。ああいう才女が理系でなにするつもりなのか。ちょっと真面目に話してみたいの。ちらっとそんなこと茉央と瀬尾に言ったんだけど。――あ、ねえねえ、悟朗が取り持ってくれない? 紀平と仲良しなんでしょ? お礼にデートしてあげてもいいよ」
「俺の童貞もらってくれる?」
「う~ん、それは要らないかな」
 少しばかり考えるふりをしてくれるのだから、平木という女はほんとうにいい奴だ。ふだん、どうしてあのように虚勢を張り、周囲を遠ざけようとするのか、どうにも理解に苦しむ。思春期の女が正しく屈折しているのだと考えれば、それでいいのかもしれないが。まあ、平木のしたいようにすれば、俺はいっこうに構わないのだけど。
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