§06 12/06 善なる意志を以って、善なる義務を為せ(1)

文字数 3,255文字

 なんともはや、俺にしてみれば如何にもみっともない話し合いが、女たちのあいだで開催・合意されたわけである。週明けの試験初日、昼前にこの日の試験科目が終了すると、俺はこそこそと人目を忍ぶように教室を抜け出し、廊下の端っこを歩いて生徒会室に向かった。幸いにも廊下で俺に呼びかける声は聞いていない。先週末に起こった足立(バカ)の不用意な振る舞いの顛末が早くも喧伝され、奏功しているのかもしれない。それともバカどもは、さすがに試験中だから控えているだけなのか。
 後ろをついてきた紀平に続き、扉二枚の奥にある一室に身を落ち着けて、平木を待った。話し合いをした「女たち」の中には紀平もいた。あれから俺の部屋に呼びつけたわけではない。紀平はオンライン参加というやつである。便利な世の中になった…とか言いたくなるところだが、ベッドに姉が寝そべり、茉央と平木が互いに牽制しつつ睨み合う真ん中で強張った笑みをつくる絵面を、ネットワークに流してしまった。受け取ったのは(俺の知り得る限り)紀平のみだが、安易にインターネットなど信用するものではない。いつどこからそいつが流出し拡散されるかなど、誰にも予想できないのだから。
 さて、平木と細田の会合は簡単に済んだらしい。いやまあもちろんそうだろう。平木が教室に現れて、机のすぐ前に立ち、「袴田悟朗は来ない」と告げられてしまえば、ふつうの人間はその理由を尋ねたりはしない。平木がそんなものに答えてくれるはずがないことを、誰もがその瞬間に理解するからである。
「へえ、生徒会ってこんな隠し部屋持ってるんだあ」
 狭い室内を見回しつつ後ろ手で扉を閉めた平木が、俺の向かい、紀平の隣りに座る。書架と作業机だけの、言ってみれば、ここは倉庫に近い。気味の悪い煽られが始まって以来、なにを思ったか紀平が俺を匿ってくれている、いかにも黴臭いあの空間だ。
「で、首尾よく終わった感じ?」
「それがさあ……。ねえ、細田って元からちょっと厄介な女だった? それとも今回の一件でねじくれちゃってるだけ?」
 実に、嫌な予感しかさせない話し出しである。
「まさか平木さん、追い返されたの!?
「悟朗から直接聞かせろ、だってさ」
「ふえ~! 学校で平木さんにそんな態度とる人間いるんだねえ」
「感心してる場合じゃないでしょ。悟朗が行ったら自滅するの目に見えてるんだから。――でも困ったね。どうしよっか?」
「俺に訊くの?」
 そんなこと訊かれたって、俺に答えがあると思うかい?
「じゃ、明日は私が行ってみよう」
「なんで紀平さん?」
「ダメだったら明後日は吹雪さん」
「茉央でもダメだったら?」
「最終日でしょ? もうバックレておしまいよ」
 ひょっとすると、俺の周囲をうろついているロクでもない人間たちの中で、あるいは紀平こそがいちばんの「人物」なのかもしれない。そこそこの進学校で学年トップの座を競うような人間は、やはり生まれながらにして人品骨柄が違っているのだろう。
 確かに平木は圧倒的に美しく、我々はその美しさに圧倒されてしまうわけだが、言い方は悪いけれど、造形美は汎用性の高い属性に過ぎない。どこに出しても通用するような価値は、逆説的ながら、なにかを決定的に支配することはないのだ。そして平木という女は、その圧倒的な美しさのほかに、これと言って特筆すべき能力を持たない。むろん愉快な人生を送るには充分な属性だろう。けれども、今ココでは役に立たない。
 翻って紀平のほうはと言えば、勉学に関する能力なら、世の中これくらいの人間はいくらでもいる。少なくともこの学校は国家百年の計を立案する人物の排出など期待されてはいない。しかしそんなことはどうでもいいのだ。紀平には今ココを掌握し操作する力がある。当人にそんな自覚がないところが、却って恐ろしい。能力は常に経験を凌駕する。経験はいつまで経っても能力を凌駕できない。俺の穿った世界観かもしれない。
「ぶっちゃけ袴田は細田のことなんかどうだっていいんでしょ?」
「いや、まあ……」
「あれ? そうでもないの?」
「人生には「行きがかり」というものがある」
「行きがかり?」
「無視できない要素のひとつだ」
「無視して構わない場合のほうが多いでしょ」
 果たして胆が据わっているのか、はたまた能天気な女に過ぎないなのか、平木の様子は明らかに、紀平を値踏みしておく必要があると疑い、訴えている。――いや、もはやそれこそどうでもいい話だろう。平木が失敗したからには、すなわち、俺が細田を裏切った事実も確定したわけだ。平木がうまいことやっていれば、俺の裏切りは未確定のまま消失したはずである。期限内に返済された借金は、金を借りた事実まで消し去ってくれる。俺と細田のあいだには特筆されるべき交錯など最初からなかった、と。
 しかしそいつはあくまでも量子力学的世界に於ける二十世紀の約束事であり、二十一世紀のブロックチェーン的世界に於いては金を借りた事実を消すことは不可能だ。量子力学的世界では間に合う話なのに、ブロックチェーン的世界では間に合わない。今ここにコペルニクス的転回の実例を見ることができる。貨幣の価値は、誰かがそれを貨幣として受け取ってくれるという、将来への期待によって支えられてきた。ところがブロックチェーン的世界における貨幣は出自を尋ねるのであり、少しでも怪しげな経歴が混ざり込んでいるとBANされてしまう。俺たちは今そのような世界の入り口に立っている。
 本日(西暦二〇二一年十二月六日)、平木瑠衣がしくじった。その後ろに、紀平里美のしくじりが接続されるリスクを引き受けるか否か? 明日(西暦二〇二一年十二月七日)のリスクを引き受ければ、ほぼ自動的に、明後日のリスク(西暦二〇二一年十二月八日の吹雪茉央のしくじりの接続)まで引き受けることになる。試験最終日になって、三つものしくじりが連なった先に、それらをなかったことにできない俺が立つ事態となるわけだ。そのような三日後を引き受ける覚悟が、この俺にあるか?
「……明日は、俺が行く」
「行ってどうするの?」
「今日俺が行かなかったことを謝る」
「それから?」
「俺の耳で事実を確かめたい」
「なんの?」
「本当に細田が佐藤をハブにした張本人で、茉央が桃井に頼まれて佐藤を救おうとしているという話であれば、俺はやはり細田の力にはなれない。これは昨夜初めて平木から聴かされた話で、俺は経緯の肝心なところを知らなかった。新たな事実が提出された以上、審理は当然のことながら差し戻される。少なくともあの時点ではまだ、細田は茉央と繋がっていなかったんだからな」
「ああ、吹雪さんねえ……」
 そうだよ、紀平。――平木でやめとけば茉央は絶対に出てこない。しかし紀平にやらせれば茉央が続かざるを得ない。それでは俺の依って立つところが崩れ去る。誰もそんなことなど期待していないのかもしれない。茉央、当人ですらね。だけどそういう話じゃない。こいつはそういう話じゃないんだ。こいつはこの俺の――
「じゃ、今日の答え合わせ始めよ」
 ……へ? いやまだ話は終わってねえぞ!
「あ、平木さんも一緒にやる?」
「う~ん、どうしようかなあ……。明日数学あるからなあ……」
「その場で振り返ったほうがいいよ。一時間もあれば終わるし」
「物理はちょっと聴いときたいけど」
「世界史なんてバーッと正解言っちゃえば五分で終わるじゃん」
「世界史はしなくていいよ」
「いや私が平木さんから聴きたいんだって」
 やはり、こっちが真実なのだ。細田は勘違いをしている。この学校に君臨するのは紀平と内藤であって、茉央や平木ではない。瀬尾や茶山や大迫でもない。従って俺の言動など大勢に影響するはずがない。――見ろ、ここに漂う他人事感の濃密で軽快な様子を。――細田、おまえは間違っている。こいつらは特別幸せでも不幸せでもない。この学校に「向こう側」だとか「そっち側」だとか「あっち側」だとかに立っている人間などいない。全員がそろって「こっち側」だ。
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