§03 12/01 「よお、袴田!」(2)

文字数 5,348文字

 放課後、平木が茶山を引き連れてやってきた。平木の目当ては明快だ。これを機に紀平との距離を縮めようとする姿勢に、邪まな曇りが一点もない。しかしなんで茶山を…?と首を捻ったが、どうやら紀平への手土産のつもりであることがすぐに判明した。ついさっき自ら口にしたように、紀平はがっつり筋肉がついている男が好きなのである。実在する直喩として「茶山みたいな感じ」と形容してみせたばかりだ。
 平木はすでにそれを知っていて、願ってもないチャンスと考えたのだろう。
「紀平さんさ、試験が明けたらお茶しない? 悟朗と茶山と四人で」
「茶山くんも付けてくれるの? 平木さん、さすがだわあ」
「いいのかよ? 茶山は」
「も、もう部活も辞めたからな、そ、それくらいのことはな……」
「でもおまえ、ジャージとスウェットしか持ってねえだろ?」
「ジーンズとTシャツくらいは、ある」
「え、十二月よ?」
「パーカーくらいは、ある」
「あははっ!」
 平木の目当ては紀平で、紀平の目当ては茶山で、茶山の目当ては平木なので(…かどうか知らないが茶山は幸せそうだからいいだろう)、この三角形は幸運にも永久運動機関的に自己充足する。だが、恐らく放っておけばすぐに熱力学的平衡が実現されてしまい、あるいはベクトルの和とモーメントの和がゼロとなってしまい、不幸な永久停止機関へと収束し兼ねないもので、この俺さまの適時・適切な介入が求められるわけだ。……ったく、面倒くせえなあ。
 試験前週の教室は、前々週とは打って変わり、速やかに人が捌ける。隣りの机を(茶山が片手でひょいと)引き寄せて、平木と俺が並び、紀平と茶山が並んだ。そうは言っても現時点での平木は俺を当てにしてやってくるのだから、俺の隣りに座るのは当たり前である。紀平と茶山のほうはどうするのだろう…と思ったのだが、要らぬ心配で、紀平があれこれとうまいこと世話を焼いている。そう、茶山は世話の焼ける男なのだ。そして紀平は、世話が焼けるところはひとまず置いておくとして、筋肉質な男が生理的に好きなのである。……らしい。どうでもいい話だけど。
「そう言えばさ」と紀平。「茶山くんて、なんで陸上辞めたんだっけ?」
「現役で会計士試験に合格するためだよ」と茶山。
「へえ、今から準備始めるんだ」と紀平。「凄いね。じゃあ文転するんだね」
「いや、英国数で私大の商学部を受ける」と茶山。「授業は理系のほうがおもしろい」
「それよ、それ」と平木。「地歴公民て、大人になってから勉強したほうが絶対おもしろいと思うの。だから私も今のうちに理系やっときたいんだけど……」
「そういえばどっかで聞いたな」と紀平。「実は世界史のトップは平木さんだって」
「トップは私ひとりじゃないよ」と平木。
「つまりたいてい百点なわけね」と紀平。「私世界史は百点逃してるなあ」
「でも紀平さん、理系はほぼ満点だったんでしょ?」と平木。「これってきっと生まれついたものでさ、今更どうしようもないのかもね……」
「どうしようもないことはないと思うけど」と紀平。「て言うか平木さん、いつもと人格入れ替わってない? なんか全然しゃべりかた違うんだけどさ。――あ、もしかして袴田のせい?」
「悪いことみたいな言い方するな」と俺。
「そっか」と紀平。「平木さんて袴田がいるとふつうの女の子なのか。凄い発見!」
「紀平、吹聴して回るなよ?」と俺。
「そうね」と紀平。「女帝の冠が傾いちゃうよね」
「だから、平木のそこをいじるな」
 ふたたびそれぞれのパートナーとの勉強に戻ると、平木が目配せをしてきた。例の話は口にしないでほしい、というのだろう。どうやら紀平の物言いに強いショックを受けたらしい。当てが外れた? まあそうなんだろうけど、紀平ってのは概ねこういう女だぜ。おまえとそっくりじゃないか。臆病で、いつも虚勢を張っていて、紀平はずば抜けた成績に、おまえはずば抜けた美貌に、どうにか縋りついてようやっと立っている。俺にはよく似て見えるよ。だから平木、「女帝」の冠が傾くのは、決して「どうでもいいこと」じゃない。それに、やっぱり紀平とは話したほうがいいと、俺は思うぞ。
 この日は数学の試験範囲に出てくる「(すう)のお話し」を一通り終え、最後に取り敢えず解けるようにしておくべき問題を挙げた。そのような順序でやってほしいと最初に求めてきたのは平木のほうであり、要するに平木は正しく「(すう)」について理解しておきたいわけである。平木の脳ミソであれば丸暗記した解法を適切に使って試験の点数を稼ぐことは、恐らく造作もないだろう。しかしそれでは己をただの演算装置にするだけだ。演算能力は持っていて便利なものかもしれないが、演算装置になることには将来性が見込めない。少なくとも二十一世紀に生きる俺たちにとっては間違いなく無価値だ。演算装置なら、俺たちの脳ミソを遥かに凌駕する高性能なやつが、電気屋にいくらでも並んでいる。
 そうだ。せっかくだからソートイの表現を借用して、平木のこれを補完しておこう。――周知の結果を、それがどのようにして発見されたかも説明されず教え込まれ、できあがった記念碑を旅人のように見物するのは嫌なのだ!
 しかし、俺が平木から授かる世界史のほうは「傾向と対策」で構わない。間違いなく試験に出てきそうな問題群と、そこに記すべき解答群とのあいだに、全単射の関係が成立していればいい。俺はそいつを取り出しやすいように整理整頓して、頭の中に詰め込むのだ。全単射になっていれば、問題と解答が入れ替わっても対応できる。少なくとも平均点がとれればいいのだから、全単射の関係をつくりにくいようなお話しは切り捨てる。正史に於ける主役間の関係性を致命的に掛け違えてさえいなければ、ひとまず歴史の教師というのは、配点が十点の問題に六、七点くらいはつけてくれるものだ。

     *

 俺との相互補完的なタスクを終えた平木は、茶山を引き連れて教室を出た。十一月も終わろうとする日の暮れは涼しいを通り越し、はっきり言って寒い。まだ学校で勉強を続けるのであれば、俺たちも二人を追って自習棟に移るべきところである。そこには茉央と瀬尾がいるはずで、俺は当然のことながら、今日は茉央と一緒に帰宅するのだ。またどこかで薄気味の悪い挨拶を寄越されちゃあかなわない。
 が、紀平が俺を引き留めた。まだ話が終わっていないと言う。なんのことだろうと思ったら、昼休みに俺が明かした問題に決着がついていないはずだと、いつになく真面目な顔をする。いや決着はついたはずだぜ? 朝、階段を上がった先で茉央と別れたら、その先は紀平が牽制役を担ってくれるんだろう?
「俺が茉央と平木から男どもを追い払ってるから、て話で合ってんじゃね?」
「だから、どうして袴田がそんなことしてるわけ?」
「言っとくけど、品定めをしてるのは俺じゃないぞ。俺はただ仕事を請け負ってるだけだ。いつからかそんなことになってね。時期も経緯もよくわからん。まあ記憶を丹念にめくってみれば特定はできるだろうけど、今さらそれをしても…て話だろう?」
 向かい側で紀平が溜め息をつく。学校の机を挟んだ向かい側だ。この女は新入生を代表して舞台に上がった。つまりは主席合格だった。それはまあ当然のことで、偏差値が72と69の受験をしくじって、已む無くここに来たと聞いている。
 キリッとした顔つきのいい女だ。こうして匂うほど間近にしてもあそこが疼くようなタイプじゃないが、そいつはたぶん俺たちがまだ十七のひよっこだからで、鼻もひっかけられないチビでブサイクな俺からして見れば、十二分に眩しい。
「なにが気に入らない? 嫌なら降りてくれて構わないぞ」
「代わりの当てがあるの?」
「当ては、ないけどな」
「じゃあどうするの?」
「ほとぼりが冷めるまで首をすくめておとなしくしてる、とか?」
「その間にまた厄介事が持ち込まれてきたら?」
「それもあと一年もすれば終わる話だよ」
「こんなくだらないことで終えるわけ?」
「世の中もっとずっと退屈してる連中ばっかだと思うけどなあ」
 そうだよ、俺はまだ茉央がいるお陰で――礼を言うつもりは毛頭ないが――、これといって取り上げるべき見どころもない日常を回避できている。大半の人間がそう上手くはいかないわけさね。俺だって茉央がご近所さんでなけりゃ、うっかりあんな女に惹かれて不毛な毎日を送ったかもしれない。可愛い女を可愛いと感じるのはどうしようもないことだからな、ありそうな話だろう?
 しかし、なんだろうね、これ? 紀平はなんで俺にしつこく絡んでくる? これまでも少なからず交錯はあったけど、今回のはどこかおかしい。まるで俺のことが好きみたいじゃないか――あ、そうか、日浦がいるんだった。
 佐藤由惟をサポートしてるのが桃井で、桃井をサポートしてるのが茉央で、茉央をサポートしてるのが俺で、紀平としては佐藤由惟が目障りなもんだから、巡り巡って俺んとこに辿り着く。まずは俺を剝して、茉央を剝して、桃井を剝して、最終的に佐藤由惟を丸裸にする――てな具合にね。堅牢な玉の囲いを外側から一枚一枚ね。いやあ、面倒くせえな、おい。
「日浦って、同中?」
「袴田と一緒。袴田と吹雪さんと、私と奎ちゃんも」
「同じマンションの同じフロア?」
「そこまで近くないけど。――え、そんなご近所さんなの?」
「なあ、紀平。茉央みたいな超絶に可愛い女がそこまでご近所さんにいるとな、チビでブサイクな男の日常をそれなりに彩り豊かにしてくれるわけさ。そのうえ茉央は見た目ゴージャスな平木なんかまで連れてきた。お陰で俺は気分がいい。さっきも言ったけど、むろんこいつは高校までの話だよ。しかしこんな贅沢な十代を送れる人間なんて、そうはいるもんじゃない。だから俺にはこいつを手放す考えはない。従って紀平がこうして俺にアプローチするのは時間の無駄だ。日浦を佐藤から奪い返したいなら、このルートは捨てろ」
「袴田はどうしてそんなふうに自分を低く見積もるかな?」
「見積じゃなくて実測だよ」
「でもそういう話ってさ、結局最後は吹雪さんと袴田がくっついたりするじゃない?」
「そいつは紀平と日浦にも同じように適用されなければおかしい話だと思うけどね」
「私が佐藤由惟とまともに争えるとでも?」
「見てくれの話をしてるなら、俺は紀平より遥かに低レベルだぜ」
「男と女じゃ置かれてる環境が違うじゃない」
「そんな、昭和のフェミニストみたいなことを……。女のほうがあからさまに値踏みするだろうよ」
「生物学的には選択権は雌にあるって説、知ってる?」
「生殖の準備に時間がかかるほうが選ぶ、て話な」
「だけどヒトはそうじゃない」
「だからお互い様だって」
「ヒト科の雄は文明を支配することで生物学的な選択権を引っくり返した」
「紀平もたいがい面倒くさい奴だね」
「……袴田は、吹雪さん、欲しくないの?」
「実はさ、俺たち婚約してるんだわ」
「へっ…?」
「保育園のときに」
「保育……。んふふっ」
 そうだよ、紀平、そうやって笑ってしまえばいい。ほかに手立てはないんだから、笑ってしまうしかない。鋭利な切っ先をね、少しばかり逸らすんだよ。ほんの少しでいいんだ。俺たちはすでに充分に傷んでるだろう? 互いに加減なく傷めつけ合ってきたわけだろう? バカみたいな話だよな。ほんと、バカな話だよ。
「表もう真っ暗」
「だなあ」
「吹雪さんは自習棟?」
「たぶん」
「じゃ、ちゃんと引継ぎまで終えるか」
 なるほど紀平という女は、それでも自分から言い出した役割を、そいつがつまらないという理由だけで、放り出したりはしないらしい。
 校舎から自習棟に向かう回廊で、帰宅する生徒たちと擦れ違った。擦れ違いざまにちらりと見れば、幾人か、明らかに俺に反応するやつらがいる。しかし隣りで紀平が俺にしゃべりかけているものだから――おしゃべりな女である――みんなさっと表情を収める。切れ味鋭い女から蔑まされるように見られることを、男は恐れるのだ。
 茉央はいつものように瀬尾と並んで座っていた。平木はどうやらあのまま帰宅したらしい。茶山と一緒にか? まあどうでもいいけど。
「――紀平さん、今なんて?」
「だから、登下校時は吹雪さん、校内では私」
「ボディーガード? 

の?」
「まあ、そんなやつかな」
「ちょっと

、なんでそんな面倒くさいことになってるの?」
「さあねえ。俺にもよくわかんねんだわ、これが」
「ま、いいけどさ。同じとこ帰るんだしね。でも試験終わったらどうするの? 部活始まったら一緒に帰れないよ?」
「だなあ……。まあ、それまでに収束することを願うしかない」
「茉央はほんとにそれだけでいいの? なんかほかにできることない?」
「別に、おまえはいつも通りでいいよ」
 瀬尾が怪訝な様子で首を傾げて見せた。しかしここで、おまえが部活辞めたところから巡り巡っておかしな具合になっているんだとか、そんなことを叫んでもしょうがない。きっかけは間違いなく瀬尾の送別会なのだとしても、それでは余りに話がくだらな過ぎる。こいつはきっとこれまでの俺の在り様が問い直されている事態なのだ。そう考えるよりほかに説明がつかないじゃないか。
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