§07 12/07 狂犬病を疑われた女の子の話(1)

文字数 3,158文字

 俺が机の前に立つと、上目遣いにじっとりと見られた。
「今日はどうだった?」
「昨日のことは訊かないの?」
「ああ、昨日と今日とまとめて聞こう」
「嘘つき」
 ……やはり、そうくるか。
「すまない」
 俺は机の両端に手を置き、誠実に見えるよう期待しつつ頭を下げた。
「期待する私がバカだ、てこと?」
「そういう意味じゃない。俺がバカで、こうなった」
「てっきり今日は吹雪さんがくるのかと思ってたよ」
「茉央が来ることは絶対にないよ」
「緊張して数学ちょっとミスった」
「マジで?」
「嘘だよ」
 よかった……。細田のほうで折れてくれた。こいつ、やはり腹が座っている。それでも教室から逃げ出したくなるのだから、学校という場の閉塞感がいかに酷いものか、推して知るべしという話だろう。そもそも現生人類が集団生活を開始したところまで遡るべきかもしれない。腰痛の遠因が二足歩行の開始にまで遡れるように。
「数学はできたよ」
「そいつはよかった」
「漢文もまずまず」
「ひえっ、こっちには漢文があったか」
「現文は戻ってくるまでわからないな」
「細田って現文どうやって勉強してる?」
「最初に分節を割って印をつけてから、あとは繰り返し読む。――かな?」
「なるほどねえ……」
 このクラスって文系だよな? 細田って何位くらいなのかね?
「悟朗――」
 呼びかけられたほうに目を向けると、桃井と瀬尾が――無表情の桃井と笑顔の瀬尾が――呆れた様子の桃井とバカみたいに破顔する瀬尾が――俺を待っていた。
「割り込んで悪いんだけど、廊下から茉央が覗いてるの。あれ、気持ち悪いから、なんとかしてくれない?」
 慌てて顔を上げ、前後に素早く目を走らせる。――なるほど、後ろの扉から茉央の顔が半分ばかり覗いている。城田が茉央を見ていた(と茉央が主張していた)のと同じ塩梅である。確かに気持ちが悪い。俺と目が合って、慌てて身を隠した。世の男どもはあれを見て、可愛らしさに悶絶するのだろうけれど、俺は(立場上、経緯上)ただただガッカリした。
「ごめん、細田。ちょっと待っててくれ」
「今日はもういいよ。吹雪さんのとこ行ってあげて」
「……ああ、じゃあ、また」
「うん、じゃあね」
 細田の席を離れる際、俺は重要なタスクを思い出し、やおら背中を振り返った。
「足立――調子はどうだい?」
「へっ!? う、うん、まあまあだよ」
「そいつはなにより」
 すでに興味を失いあらぬ方を向いている桃井と、なにが愉しいのか相変わらずバカのように笑っている瀬尾の脇を通り、後ろ扉から教室を出ると、驚いたことに、茉央ばかりか平木もそこに立っていた。大柄な平木の胸に、茉央が顔を埋めるようにして、こちらに背を向けている。俺に見つかったことを恥じている、というわけだろう。
「茉央、どうした?」
「……やっぱ彩ちゃん、ブチ殺す」
「やめとけ。おまえには無理だ」
 うまいこと出し抜かれて、また泣くことになるのは目に見えている。
「平木は今日も参加する?」
「ううん。私は茉央と瀬尾と自習室行くわ」
「じゃあ瀬尾にさ、だらしなく笑ってるとアホに見えるからやめろ、て言っといて」
「もとからアホだけど。――悟朗も紀平さんによろしくね」
「あいよ」
 案ずるより産むが易し――という評価をしていいのだろうか? 少なくとも今日のこの場はそう言えるにしても、細田をめぐる問題が解消されるかまではわからない。問題がそもそも細田をめぐっているものなのか、桃井や佐藤や、茉央や平木のほうこそ中心になっているのではないかと、いくらか怪しむべき気配が漂っている。
 この日の俺は少々大胆に、廊下のど真ん中を歩いて生徒会室に向かってみた。姿なき影に呼びかけられる不可解な出来事はもう起こらなかった。従って生徒会室の奥座敷に身を隠す必要もないのだが、せっかくお招きいただいていることでもあり、ここ数日そうしてきたように、黴臭い部屋のガタついた椅子に腰を下ろした。
「上々の首尾だった、て顔つきね」
「ああ、数学は百点だ。生物も悪くない。現文にはちょっと手こずったけど――」
「まず細田の件でしょ」
「そっちはわからん」
「袴田も追い返された、てこと?」
「いやいや、穏やかに話したよ。細田って女は胆が据わってるね。俺を使って上手に軸を動かして見せたっぽい。紀平もこれで佐藤から解放されんじゃねえの」
「吹雪さん、降りるんだ」
 今日は弁当を持ってきた紀平が、蓋を開け(古風な感じの曲げ物である)、箸で小さく摘まみながら(細々と多種多様に入っているようだ)、さらりと口にした。
「おまえほんと頭いいのな。そういう問題なんだって、いつから気づいてた?」
「最初にそう言ったのは雨野。で、ああ桃井さんと吹雪さんの問題なのか、てわかっちゃった。雨野も私もそうは言わなかったけどね。あの二人は時間切れになるまで終わらないゲームを続けてて、私たちを巻き込んだ。被害に遭ったのは細田かもしれないけど――」
「茉央が思いっ切り桃井の頬をひっぱたきゃ終わるんだよ」
「そんなことできるの?」
「面倒くせえなあ……」
 俺が何気なく(ほかに見るものもないので)弁当箱を見ていたせいだろう、煮豆を摘まんだ箸先を俺の目の前に(いやもう口の真ん前に)差し出して、にっこりと笑う。まったくけしからんやつだ。
「紀平、おまえ俺のこと好きなの?」
「好きよ」
「そうか。じゃあ茉央と話をつけて来い」
「自信満々ねえ。吹雪さんがノー!て言わなかったら、どうするつもり?」
「そのときは俺の童貞をくれてやるよ」
 なにを思ったか、差し出していた箸を収めた紀平はふと首をめぐらせ、背中の扉の向こうの気配を確かめると、腕を伸ばし、そっとドアを閉めた。こちらに向き直り、ずいっと身を前に乗り出してくる。もちろん俺は正しく警戒し、上体をやや後ろに引いた。
 紀平が女の顔を――いや、鬼神の面をつけている。俺は戯れにも要らぬことを口にした己の不明を悔いた。手垢に塗れた表現だが、後悔は先に立てない。これは言葉の定義上の問題であり、この世界の成り立ちとは無関係の事柄だ。
「ここだけの話にするから、本当のこと教えて」
 まずいことになった……。
「平木さんて処女じゃないよね?」
「くだらないこと訊くなよ」
「まさか袴田じゃないよね?」
「相手が誰かなんて言えるか」
「てことは知ってるんだ。あなたたちってホント仲良しなんだねえ」
 ヤバいヤバいヤバい……。
「吹雪さんもそれを知らない。でも吹雪さんはああ見えて身持ちが固い。――だよね?」
「俺が知る限りに於いてはな」
「この学校では吹雪さんだけが本物だよ。本物の特別。桁外れのGifted。私あんな人初めて会った。袴田はずっと吹雪さんを守ってきたんでしょ。たぶん平木さんと一緒に。桃井さんはそれが気に食わない。吹雪さんがそうであることが紛れもなくわかるから。袴田と平木さんが身を挺して守ろうとするから。だけど桃井さんは――」
「紀平、その辺にしとこう」
 さすがに俺も、このときは相当に怖い顔をしていたらしい。紀平が鬼神の面を外し(どうせ張りぼてに過ぎなかったのだ)、珍しく恥じ入るように顔を赤らめた。
「……ごめん」
「おまえもたいがい生きにくい類いの人間だね」
「嫌われてるのはよくわかってるよ」
「この場所がよくないな。今日はこれまで通りカフェテリアでやろう」
「そうだね」
 まだほとんど箸をつけていない弁当箱に蓋をし、紀平はリュックを肩に黴臭い部屋のドアを開けた。聞き耳を立てていた人間はいないようだ。中にいるのが紀平であると承知して、関係者(生徒会諸君)は、間違っても話の内容(むろん声も)が届かない場所へ退避していたのだろう。積極的に嫌われているとは思わないが、多分に煙たがられているのは間違いなく、とにかく面倒くさそうな話は避けるべきなのである。
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