§05 12/03 サボタージュ(2)

文字数 3,871文字

 後ろの扉の前で、細田が立ち止まって俺の顔を見た。俺にはにっこり笑うなんて芸当はできないので、黙って頷いた。先に細田が歩み入ると、ゆっくりと潮の干くように、教室内が静まっていく。扉に近いところに座っている人間から順に、自席に向かう細田の歩みに合わせ、周囲が俺の存在に気づいていく。細田の生んだ静寂が、俺の登場で揺らいでいく。――ふむ。ここまでは細田の計算通りというわけだ。
「よお、袴田!」
 ――おや、おや。どこにでも頭の悪い人間てのはいるもんだなあ。
 声のしたほうに顔を振り向けてみれば、窓際の机に足を組んで座る、見知った足立隆司の目とぶつかった。さっと逃れるように視線が泳ぐ。……バカだねえ。こんな静けさの中で、誰一人その場から動かずにいる中で、声をかけるバカがいるんだねえ。
 歩み寄る俺に、足立は逃がした視線を戻そうとしない。だから俺は、間を遮る机をそちら側へと回り込み、俺が歩み寄っていくのを見せてやることにした。足立は見事に反対側へと視線を逃がそうとする。顔の間近で、周りに聴こえるよう囁いてやった。
「俺になにか用かい?」
「……い、い、」
「なんの用もないのに俺を呼んだってか?」
「……あ、い、」
「なんの用もないのに名前を呼ぶのはな、足立、そりゃ恋人ごっこだ」
 どこかで女の子が失笑する。
「まさかおまえ、俺に恋してるのか?」
 またどこかで女の子の失笑。
「足立、悪いが俺は薔薇じゃない」
 振り返ると細田が肩にリュックを背負っていた。今度は俺が先に立って教室を出るべきだろう。――そう思って歩き出したすぐ脇に、驚いたことに、佐藤由惟がまん丸に目を見開いている。……いやいや。驚くのは俺のほうだぜ?
「佐藤もこのクラス?」
「あ、うん」
「じゃあ、どっかに桃井もいるんだな」
「彩ちゃん、すぐ目の前だよ」
 またも驚いた。俺はどうやら桃井の机を回り込んで足立に歩み寄ったらしい。
「久しぶりだなあ」
「なにしにきたの?」
「う~ん、なんだろうねえ。まあ、桃井に会いに来たわけじゃないよ」
「じゃあ、俺?」
「瀬尾に用事なんかあるか!」
 なるほど。ここに桃井も瀬尾も、佐藤由惟もいるわけか。ということは――ああ、いたよ、いた。廊下側に結城が座ってるよ。ということは――すぐそばに涼しげな顔で立ってる頭の良さそうなのが雨野って転校生だな。日浦の言い分を信じるとすれば、ここがこの間の騒動の震源地ってわけだ。……いやまあ、そんなことはどうでもいい。
「ちょっと緊急事態でさ、メタクソ気分悪いんだわ」
「そうなの? でも袴田っていつもそんな顔してない?」
「う~ん、そうかもなあ……」
「でも、なんで細田さん?」
「細田は友達だよ。――あれ? 桃井それ知らなかった?」
「ああ、そんなこと聞いたかもね」
 相変わらず白けた女だが、頭の回転が早くて助かるよ、桃井。――まあ、同じ教室に居るんだから、細田が置かれている状況は知っているはずで、さほど機転を利かすまでもなく、よほどのバカでない限り、俺が細田を「友達」だと言った意図は理解できるだろう。桃井が追認してくれれば、嘘でも効果は高まるというものだ。
 教室を出る前に、足立に念押ししておこうかと考えた。ここで足立を用済みにしてしまうのは、まだ惜しい。足立に類する男どもへのデモンストレーションとして、効果を確かなものにしておきたい。ここへは細田を助けるためにやってきたわけだが(そう頼まれたからね)、ついでに俺のほうの厄介なやつも解消するチャンスが転がり込んできた格好だ。
「足立さ、俺に用事があるんだったら、後ろからじゃなくて、擦れ違い様じゃなくて、まっすぐ正面に現れてくれよ。おまえもそう思うだろう? そうあるべきだろう? みんなにも伝えといてくれないかな? これもなにかの縁だよ、足立。諦めて頼まれてくれ。――おい、聞いてるか?」
 最後まで足立はそっぽを向いていた。俺は細田を伴い、俺が先に立って、教室を出た。ちょうど六限の始まるチャイムが鳴った。――で、俺はマズいことに気がついた。足立だの桃井だのにかかずらってしまったせいで、俺のほうの教室に回る時間がなくなっていた。堂々と授業中に荷物を取りに入るか? そういうわけにもいかないよなあ……。
「細田、先に校舎を出てくれ。後から必ず追いかける」
 俺はそう言って駆け出した。これでも運動部の人間である。都立進学校の弱小卓球部ではあるが。教師がやってくる前に脱兎のごとく教室に駆け込んで、背中にかけられた紀平の声を無視し、ふたたび脱兎のごとく教室を飛び出した。教員室から離れるべく、いったん階段を最上階まで駆け上がると、屋上に出る前の踊り場で息を殺し、充分に時間を計ってから、悠々と校舎を出た。
「ごめん。待たせた」
 細田は校門を出たちょっと先、葉のすっかり落ちた桜の樹の下に立っていた。
「先に帰っちゃってもよかったんだよね」
「まあそうだな」
「待っててくれとも言われなかったしね」
「言ってないね」
「必ず追いかけるとは言われたけど」
「細田の行動を制約する話じゃない」
「でも、ありがとう。みんなの前で「友達」だって言ってくれて」
「俺は約束は守るよ」
「約束してたっけ?」
「要請を受け入れたからには約束がくっついてくる。そういうもんだろう?」
 ちょっと嬉しそうに笑った。女の子がちょっと嬉しそうに笑うと、男はそれだけでずいぶん幸せな気分になるのだから、生物進化というやつは誠にもって度し難い。
 冬の始まりの陽は、日中やや暖かであったとしても、あっという間に腰砕けになってしまうものだが、この時間の空気はまだいくらかぬくもりを残していた。俺たちは並んで街中の狭い歩道を歩き、地下鉄駅へと降りる大通りに出た。
 すぐに現れる最初の階段の前で、細田がふと足を止めた。
「これってさ、袴田くんにすっごい迷惑かかったりとか、しない?」
「細田の声や笑顔やあられもない姿で頭の中をいっぱいにしてる偏執狂的な男がいると、俺もちょっと気をつけなきゃいけないだろうね」
「そんなのいないでしょ。吹雪さんじゃあるまいし」
 どうやら茉央はそうした事柄のシンボルとして校内では機能しているらしい。
「しかし俺で効果あるのかね? 本当は瀬尾みたいなのじゃないとダメだよな」
「瀬尾くんがそんなことしてくれると思う?」
「……まあ、確かに、瀬尾はそういうやつじゃない」
「それにさ、瀬尾くんじゃ長続きしないでしょ。その場限りでしょ。あと知らんぷりされたら、私困っちゃうよ」
「ふむ。じゃあこうしようか。――来週、細田は試験のあとそのまま座っている。俺が訪ねて行って「今日はどうだった?」てな感じで声をかける。細田は「まあまあ」とかなんとか答えて席を立つ。――いや、一緒には帰らないよ。俺は紀平と答え合わせするからな。そんで平木と試験対策するからな。でも、それでどうよ?」
「袴田くん、なんでそこまでしてくれるの?」
「いやまあ、生来的なお節介体質と言うか、頼られたら断れない性分なんだよ、たぶんね。それに細田、おまえは自分で思ってるほど隅っこにいる人間じゃない。さっき教室に入ったときの反応がその証拠だ。周りから隅っこのやつだと思われてたら、あんな空気にはならない。みんな無茶苦茶におまえを意識してる。おまえが困ったようにしてると、周りもなんだか落ち着かなくなる。早く元通りにならないもんかと期待する。誰だってそうはならない。放置される人間も大勢いる。おまえはそうじゃない」
「それはね――問題の相手が由惟だからだよ」
 おい、おい……。
「……ユイって、佐藤由惟?」
「そう。由惟の隣りには桃井さんがいて、瀬尾くんがいて、それに吹雪さんまでいたんだよ。私そこまで読めなかった。意識もしてなかった。だから塵みたいに吹き飛ばされちゃった。みっともないよね。私ほんと、なにやってるんだろ……」
「仲良かったのか? 佐藤と」
「仲良かった、て言うか――ほら、なんとなく三人くらいでつるむもんじゃない? 同じくらいの連中で。そういう感じ。でも同じじゃなかったんだよ。気づいてよかったはずだよね。だって由惟と桃井さんて従姉妹なんだからさ」
 事情はやはり判然としない。そして相変わらず細田はくだらないことを言っているように、俺には思える。同じとか、同じじゃないとか、どうでもいい話だろう?
「細田はこっから降りるの?」
「ん? ううん、私は向こうだよ」
「じゃ、一緒だ」
 と、俺は立ち止まっていた足を動かした。細田もついてきた。
「とにかくさ、来週はさっき言ったみたいに、「私たちお友達ですから」アピールをやってみよう。俺にはちょっと不思議な力があってね、なんて言えばいいかな、力のモーメントを断ち切るみたいなことができるんだよ。なんでか知らないけど。今はたぶん慣性が働いてるだろうから、躓いて怪我するやつも出る。それでもこいつは止めたほうがよさそうだ。さっきの教室の空気がそう教えてくれた。俺にはそれができるかもしれない。たぶんできるだろう。なんでか知らないけどさ」
 そこでまたすぐに細田が足を止め、俯いて立ち尽くしたわけだ。
「……私、泣いてもいい?」
「ダメだな」
「なんで?」
「そいつは俺の役回りじゃない」
「じゃあ、誰?」
「自分で探せ」
 帰宅して、間もなく平木から電話があった。どっちのルートから伝わったのか――桃井か紀平か――わからない。平木は学校帰りに俺の家に寄ると言う。茉央も一緒なのか?と尋ねると、そんなわけないでしょ!と呆れられた。……なんで、そんなわけないんだ?
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