§04 12/02 頼られたら断れない性分(3)

文字数 3,973文字

 ぞろぞろと七人もの高校生が連れ立って道を歩いていれば、通行人にはさぞかし迷惑な景色に映ったことだろう。当事者である俺もそう感じるのだから、きっと間違いない。せめてもの救いは、俺たちがすぐに地下鉄の階段を降りたところか。
 地上で佐藤由惟と茶山と別れ(彼らは違う路線で東に向かう)、地下道で紀平と日浦が反対側のプラットホームに渡り(こちらは南だ)、同じ電車に乗った平木がすぐの途中駅で西に乗り換えた。なんだかうまい具合に四方に塩梅されているようだが、地下鉄はまっすぐには走らない。東西南北で地下鉄を説明してはいけない。
「今日も変なことあった?」
「いや、今日はなんもないよ。紀平と平木がべったりくっついてたからかな?」
「ハーレムじゃん!」
「ハーレムは四人からだ」
「そうなの?」
「ああ、そして四人を超えてはならない」
「それってただの四だよ」
 確かに、ハーレムの構成員は自然数だからな。茉央もたまには賢いところを見せる。
「でも

まだ二人しか集められてないじゃん」
「いや三人だろ?」
「それ私のこと数えちゃってない?」
「むろんだ」
「勝手にそんなことされたら困るにゃあ」
 だったら、もう二度とあんな面倒くさい案件を持ち込むな! おまえのせいで俺の周りがなんだか薄気味悪いことになってるんだぞ? おい、聞いてるか?
 エレベーターを待つ人間が俺たちしかいなければ、そこでマスクを外してもいい。と言い切れるのか? 俺たちの細胞から空気中に飛び出したウィルスの生存時間がどの程度のものか、あいにく調べてみたことがない。しかし茉央が俺にうつしても、俺が茉央にうつしても、お互い腹を立てたりはしないだろう。それは姉が俺にうつしても腹が立たないのと同じである。家庭内に持ち込んではいけないもののリストに、もはやコロナウイルスは含まれていない。当初は違った。しかし今は仕事や性病とは違う。努力義務は残っているが、それも程度の問題であり、家庭内不和を生じさせることはない。(家庭事情によりけりかあ……)
 いつものように廊下の先で茉央の姿が玄関ドアの向こうに消えるのを見届けた。この日は珍しく母が早くに帰宅していた。姉もいる。今日に限らず我が家の晩餐は穏やかだ。いがみ合い、忌避し合う特段の事情もない。食事中ずっとスマホをいじっている人間もいない。食事後に皿や箸や茶碗やをダイニングテーブルに放置して去る人間もいない。もちろん日中におもしろくないことのあった人間から愚痴がこぼれるくらいの揺らぎはある。あって当然だし、ないほうが異常だ。それでも本能に刷り込まれたかのように、誰にともなくぶつぶつと呟きながら、食器の後片付けだけはするのだ。
 夜更けて姉の訪問を受けた。俺がテキストを眺めているのを見て取って、急ぐ話ではないから出直すと言って引き取ろうとしたところを、慌てて引き留めた。なにやら様子がおかしい。そこで引き返そうとする挙動からしておかしい。これには記憶がある。言うまでもないことかと思うが、嫌な記憶とつながっている。
「なにか、あった?」
「うん。家までつけられたみたいやな」
「初めて見る奴?」
「そんなん、わからへんよ」
「今度、学校いつ?」
「明日」
「わかった。迎えに行くから待ってて」
「ごめんね」
「別にいい」
 さほど遠回りでもない。
 これが初めてという話でもない。
 だけど好きでやっているわけじゃない。――日浦、そうじゃないんだ。平木も茉央も俺にとっちゃ「ついで」みたいなもんなんだよ。でもな、大袈裟に言えば、思いっ切り大袈裟に言ってしまえば、こうした日々の選択の積み重ねの上に、今の俺が立っているわけだよ。……いや、勘違いしないでくれ。これはジェフ・ベゾスがプリンストン大学でやったスピーチの決めゼリフとは違うぜ。あれは成功者によるわかりやすい能力主義の表明に過ぎない。俺が言ってるのはね、もっと小さな、古めかしい言い方を借りれば「市井の輩」の日々の選択が、つまるところ、この地球の将来を左右するって話だ。ベゾスやプリンストンの連中が決めてるんじゃない。俺たちが決めてるんだよ。
 ……なんでこんな話になったんだっけ? ああ、そうそう――だから明日は姉を大学まで迎えに行くというひとつの選択を、今夜の俺は下したわけさ。どんな野郎が出てくるかね? 百合系同人誌マニアで赤門をくぐった和道流空手黒帯……なんて男かもしれないな。いそうもない男だけど、ありそうな話ではあるだろう? 百合系同人誌はいい。赤門も問題ない。空手だって黒帯なら大丈夫だ。黒帯ってのはそういうもんだろう? そういえば日浦も黒帯か? テコンドーに黒帯とかあるのかね? とにかく明日は姉を大学まで迎えに行く。校門前で姉とアイコンタクトを交わし、関係者だと悟られない程度の距離をとって歩きながら、問題の男の前にぬっと顔を出す。
 見てくれの問題じゃないんだ。今はマスクもしてるからな。もちろん見てくれは悪くないよ。当たり前じゃないか。ただね、茉央や平木のようではない。桃井や佐藤由惟のようでもない。俺は今そいつがなんなのか説明しようとしてるのか? やめておけ。それはもうとっくの昔に諦めたじゃないか。諦めて受け入れて、こうして積み重ねてきたわけじゃないか。だから平木も茉央も俺にとっちゃ「ついで」みたいなもんなんだよ。ぜんぜん大したことないんだ。あいつらなんて、ほんと、大したことないんだ。迷ったことなんてないよ。あいつらには「自分でやれ!」とか言うけどね。でも迷ったことはない。本心から「自分でやれ!」なんて言ったことはない、一度も。
 もう零時になった。睡眠不足はいい仕事の敵だ。

     *

 昼休みが始まるのと同時に姉からメッセージが届いた。今日は迎えに行かなくてもいい、と。――そう、姉は「迎えに行かなくても……」と送ってきた。「迎えに来なくても……」ではなく。つまり、姉のメッセージは大学から発信されていない。
 教室を飛び出した俺は、周りの人間の迷惑など考えもせず、校内を猛然と走った。何人かの腕や肩にぶつかったように思う――いや俺はチビだから肩には当たらなかったか。そして向かった体育館の倉庫の扉は幸いにも開いていた――授業時間中は試験前でも開いているのだから幸いでもないか。体育倉庫に飛び込むと闇雲に奥へと掻き分け、壁に背を凭せかけしゃがみ込んだあとは、薄暗く埃っぽい空気を睨みつけた――埃っぽいのは俺が騒々しく分け入ってきたせいでもあるだろう。
 なぜこんなことをしたか? こうでもしないことには、誰彼かまわず――この日もきっと紀平か平木が昼飯に誘ってくれるだろう――その紀平や平木をつかまえて――口汚い呪詛の言葉を吐きだしてしまいそうだと思ったからだ。言うまでもないことだが、それはあいつらが受け取るべき言葉ではない。
 姉は出かけられなかった。恐らく出かけようとしてマンションから通りに出たとたん、視界にその男の影を見てしまった。間違いない。これまで幾度となくあったことだ。昨夜、姉はそう言ったはずである――「家までつけられた」と。どこのどいつか知らないが、その男は我が家を特定した。少なくとも建物を特定した。幸いにも我が家は四十一階の高層にあるから、ドローンでも飛ばさない限り内部を覗き見ることはできない。とは言え、姉が表に出られなくなった事態は、看過されてはならない。
 ……クソがっ! クソ野郎がっ!
 倉庫には小さいながらも高い位置に明り取りの格子窓がある。だから時間の経過とともに目が薄暗がりに慣れてくる。舞い上がった――俺が舞い上げた埃も落ち着いてくる。瞬間的に沸騰した激情に駆られ、そいつに振り回されないよう逃れてきた俺の魂も、ゆっくりと落ち着きを取り戻す。壁を殴りつけて拳を痛めるような真似はしない。現実にあれをするバカは実在しない。あれは効果的な演出――修辞的な表現技法に過ぎない。
 あなたは俺に尋ねるだろう――城田が茉央を付け回したときには平然としていたくせに、なぜ当事者が姉になった途端そこまで狼狽えるのか?と。それに対しては、あなたが俺の姉を知らないからだ、としか答えようがない。姉の悲しそうな、いや寂しそうな、いや諦めてしまったような顔を、その目で見たことのないあなたには理解できない。もちろん、これはあなたが理解する必要のない、俺を取り巻く世界に固有の事象である。
 ……ん? ……弁当の匂い?
「誰かいるのか?」
 短くない静寂のあと、衣擦れの音がして(立ち上がったのだろう)、格子窓から射す弱い明かりの中に、見覚えのある女が姿を現した。去年、同じクラスだった細田愛美――特別に印象深い人間でもなく、かと言って簡単に記憶から零れ落ちてしまうでもない(まあ同じクラスだったわけだから)、そんな俺たち大多数の生徒の一人だ。やはり弁当箱を入れるような手提げを持ち、暗がりから薄明りの下へ、恐る恐る顔を覗かせたのだった。
「……袴田くん、じゃん」
「なんでこんなとこで食ってる?」
「こんなとこ、だからかな」
「ああ、なんか面倒くさいことでも?」
「まあ、うん。――袴田くんも?」
「俺のもクソ面倒くさいことだなあ。が、学校とは関係ないぞ」
「まったく?」
「そう、まったく。インドネシアの蝶の羽ばたきほども関係しない」
「それ知ってる。でもインドネシアだと、いかにも台風を起こしそうじゃない?」
「確かにハリケーンじゃないな。起こすなら先に台風かサイクロンだ」
 こうして細田と俺が、もうじき昼休みが終わろうとしている体育館の倉庫でばったり顔を合わせたことの因果を追及してみれば、数百年前にチベットの信心深いおばさんが触れたマニ車のひと回しにまで辿り着くかもしれない。――そんな感じの酔狂な話が始まった。
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