§01 11/24 今日は厄日だ……(1)

文字数 4,163文字

「あ~! 待ってえ~!」
 おまえ、そこから呼び止めるか? いま玄関のドア開けたところだろ? まだ靴ちゃんと履けてねえよな? そのあと鍵かけんだろ? そんでここまで走ってくるあいだに、いったいどれだけの人間の時間を空費させることになるか、茉央、一度ちゃんと計算してみろ。――いや、待て。俺がいま計算してやる。おまえが靴履いてドアに鍵かけてここまで走ってくるあいだに、俺が計算して教えてやろう。

さあ、バレー部の城田くんて、仲良しだったりする?」
「シロタ? どんなやつ?」
「背え高い人だよ」
 ……ん? おい、そこで黙るな! そこで黙って俺の顔見てどうする? 男バレで背が高いだけじゃどうしようもねえだろうが。それとまだ扉の前には立つな。まだ三十二階まで降りてないんだから、乗ってくる人間いるぞ。さっき教えてやったの忘れたのか?
「またぞろつきまとわれてるとかいう話?」
「うん。でも校内限定みたい」
「廊下や階段で振り返ると、さっと身を隠すやつがいる」
「それがもっと大胆でさ、教室のドアから顔半分くらい出して、じっとこっち見てるの。休み時間とか、教室移動するときとか、体育のときとか。柱とか、樹とか、渡り廊下の壁とか。半分くらい顔出して見てるんだよ、茉央のこと」
 それのどこが大胆なんだよ。小心者も大概にしとけ!てレベルじゃねえか。
「見えるのはマスクしてる半分なんだけど、あの人ちょっとヤバい感じする」
「男バレなら大迫に文句言えばいい」
「大迫くんておっきいから近寄るの怖いんだよ」
「じゃあ瀬尾になんとかさせろ」
「瀬尾くんはバレー部辞めちゃってるからさ、そんなのお願いするの悪くない?」
 俺なら迷惑が掛からない――掛けても迷惑のうちに入らない――そういう結論に行きつこうとしているな、こいつ。茉央の十八番だ。超絶に可愛らしい顔を寄せてくるやつだ。それが通じないとなれば、俺の小・中の黒歴史を持ち出してくるんだろう。
「ああ、わかったよ。――シロタな。なんとかする」
「う~、やっぱ

はやさしいなあ。早く茉央をお嫁さんにお迎えしてほしいなあ」
「しねえし」
 やはりテレワークだとか、大学もオンライン授業をやっているせいなのか、去年の春以降、エレベーターにほかの住人が乗り込んでくる機会が、めっきり少なくなった。四十一階で乗り込んで、そのまま三十二階を通り越してしまうことなんて、以前は考えられなかった。四十一階から三十二階までのあいだに、少なくとも二回はドアが開いた。タイミングによっては五回以上開いたこともあったはずだ。ところが昨春以降、今日のようにするりと地上階に辿り着いてしまうことが、けっこうふつうにある。
 無駄に贅沢なエントランスホールから道に出たところで、俺は右手に、茉央は左手に別れた。同じ駅を使うのだが、下りる階段が違う。理由はない。いや理由はある。理由もなくそんなことはしない。なにしろ同じ電車に乗って同じ高校に通っている。入学当時、茉央には男がいた。違う高校に通う上級生だった。やつらは示し合わせて途中まで同じ電車に乗る。必然的に俺はお邪魔虫になる。そういう話だ。
 梅雨入り前にはその男との縁が切れた。だから明日から一緒に登校しようと或る日の昼休みに言われたのだが、それまで俺たちがまさか「一緒に登校する」可能性を秘めた仲であるとは夢にも思っていなかった周囲の壮大なざわめきに、俺の野生の勘てやつが警戒信号を発した。こいつと一緒に登校するのはリスキーじゃないか? 頭のおかしくなった男にホームから突き落とされないか? 己の至らぬところを捻じ曲げて、被害妄想の矛先を向けられちゃあかなわない。
 茉央は不満そうな顔をした。しかしすぐにまた新しい男ができて(それも旧盆前には破談になったのだが)、俺の野生の勘は、経験に裏打ちされた確かな先見性に基づく、極めて蓋然性の高い、謂わば合理的な判断であったことが判明する。この女と仲良く同じマンションから同じ電車に乗って登校していると、命がいくつあっても足りない。実際、その後も茉央は男をとっかえひっかえし続けており、背後には遥かに数の上回る胸に傷心を抱えた男たちと、さらに遥かに数の上回る臆病で小心な男たちの行列が、死屍累々と連なっているというわけだ。……ん? そういえば最近しばらく男の話を聞かなかったな。
 吹雪茉央は「天使」であり「魔女」である。恋をしたすべての男の前半生においては紛うかたなき「天使」の姿をしている。そして恋をしたすべての男の後半生においては疑いようもない「魔女」へとその姿を変じてしまう。むろん言うまでもなく、「天使」も「魔女」も男の中で生まれ、男の中にしか存在しない。俺は「天使」でも「魔女」でもないときの吹雪茉央だけを知る、世界でも数少ない稀なる男である。――つまり、大概の男が一度は(一瞬でも)茉央に恋をするわけだ。
 蛇足ながら言い添えておくけれど、茉央の中では「まだ誰とも付き合った経験がない」ことになっている。これまで例外なく数週間から二ヶ月足らずで破断してきたからだ。いささか乱暴な解釈ではないかという思いは拭い切れないものの、言われてみれば確かに「まだ誰とも付き合った経験がない」と言って言えないこともないような気がしないでもない。お試し無料期間が終わると同時に退会手続きを繰り返す行動に通ずるところがある。あれは会員になったとは言わない。すなわち吹雪茉央は「無垢なる天使」なのだ。……いや、それ本当かよ?

     *

 あの茶山創太が陸上部を辞める。――いま我が校はこの問題をめぐり、大袈裟に言えば、天地を引っくり返したほどの大混乱に陥っている。なにしろインターハイに出場するほどの男だ。つい先日の東京都秋季大会でもタイムレースでベストテンに入った。むろん日の丸を背負う可能性は皆無である。しかしこの事実を、きちんと「皮膚」で確かめ得る人間など、ほんの僅かしかいない。それは、絶対に越えられない壁を、確かにこいつは絶対に超えられないなあ…と目の当たりにできる人間にしか許されない、贅沢な経験だ。
「期末終わったら茶山くんの送別会するんだよね?」
 だから、茉央、学校で俺を訪ねてくるのはやめろ!と言ったはずだ。
「誰から聞いた?」
「瀬尾くんだよ」
「なんで瀬尾?」
「ほら、瀬尾くんも中間のあとに送別会やったでしょ? だから今度は茶山くんの番でしょ? だから瑠衣ちゃんと一緒にまたお呼ばれされちゃおうかと思って」
「おまえが呼ばれることはないぞ」
「え、なんで?」
「男バレと女バレは仲が悪い。理由は知らないが伝統的にそうらしい。しかし陸上部は違う。男女の仲は頗る良好だ。従って茶山の送別会には女子も当然のことながら参加する。従って文字通りまったくの部外者である茉央が、むろん平木もだが、茶山の送別会にお呼ばれされる可能性は絶無だ」
 いや、おまえさ、そこまで唖然とした顔で驚く話じゃねえだろ?
「酷い……。茉央ちょっと泣きそう。

胸貸して」
「二人って仲いいんだねえ」
 ほら見ろ、面倒くさいやつが寄ってきちまったよ。
「袴田、理科準備室」
「お、そうだった」
 慌てて腰を上げた俺の横で、しかし、声をかけてきた紀平は茉央に向き合った。
「ねえ、あのあと佐藤さんはどうなの?」
「由惟さん? 別にどうともないよ」
「吹雪さんあれ、いつまで付き合うつもり?」
「う~ん、日浦くんがちゃんとするまでかなあ……」
「……承知してると思うけど、吹雪さん降りたらぜんぶ崩壊するからね」
「私? 降りないよ。彩ちゃんがもういいって言うまではね」
 俺を見るなよ、紀平。そんな話は他所でやれ。俺はなんも聴いてないぞ。憶えておく気もないぞ。
「紀平、行こうぜ」
 三人で教室を出た。茉央は隣りのクラスに戻り、俺は紀平と理科準備室に向かう。昼休みの終わり間近で、教室も騒々しかったが、廊下の人間も邪魔くさい。二週間後に期末考査を控えているとは言え、俺たちはまだ二年だった。三年のフロアはどんな空気なのだろう?
 階段の踊り場を曲がろうとしたところ、大きな壁がいきなり目の前に現れて、行く手に立ちはだかった。見上げれば、ついさっき話題に上ったばかりの茶山と瀬尾である。デカい男は端を歩け! 階段の真ん中を上がってくるな! 大型トラックだって高速道路じゃあ――
「お、紀平――なんか瑠衣ちゃんが探してるよ」
「平木さん? 別に用事なんてないけど」
「そりゃ用事は向こうにあるんだからねえ」
「なんの話か聞いた?」
「聞いてないけど、由惟ちゃんの件じゃない?」
「私あれ関係ないんだけどなあ……」
「そんなこと言わないで、紀平も応援してあげてよ」
「応援ねえ……」
「じゃ、伝えたからね!」
 だから、なんで俺たちのほうがおまえらウドの大木のために道を開けなけりゃならんのだ? おかしいだろ? 貴様らには社会常識すらないのか? 貴様らみたいなバカが能天気に振る舞っているせいで、脳筋は偏見だ!差別だ!と声高に訴えられないことがわからないのか? はあ……。仕方がない。いいだろう、俺が教えてやる。あのな、たとえば高速道路で大型トラックが坂道を登るときは――
「瀬尾はわかるよ、桃井のカレシだからね。でも茶山くん要る? 私こそ要る? ちょっと袴田聞いてる? あれって吹雪さんいるんだからさ、それで充分だと思わない?」
「俺に訊くなよ。俺こそ関係ねえだろ」
「そもそもなんで佐藤さんて家に帰れないわけ? 家の建て替えとかそういう事情だったら公にできるじゃない? それができないっておかしいでしょ? 奎ちゃんも絶対に口割らないしさ。そうそう、雨野までいるのって、ちょっとおかしくない? 袴田って吹雪さんと仲良しでしょ? 上手いこと聞き出してよ」
「自分でやれ!」
 どうやら前言を撤回し、立て直さなければならないらしい。――茶山創太が陸上部を辞めることは、実のところさほどの混乱を招いてはいない。問題は佐藤由惟だ。俺はよく知らないが、外貌くらいしか知らないが(なにせ目立つ女だ)、とにかく佐藤由惟が、どうしたわけかあちこち巻き込んで(雨野って例の転校生だろ?)、驚いたことに紀平までをも振り回しているらしい。茉央はいったいなにを始めたんだ?
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