§06 12/06 善なる意志を以って、善なる義務を為せ(2)

文字数 4,491文字

 平木は自習棟に向かい(茉央と瀬尾がいるはずだ)、校門を出たあと同じ階段を下りた紀平と俺は、向かい合うホームに立った。線路二本分をあいだに挟む向こう側で、紀平は不気味に(俺にその理由がわからなかっただけだろう)、嫌なニヤニヤ感のない、穏やかで小さな笑みを浮かべていた。そのまま俺は一人で何事もなく帰宅した。俺を待ち構えている人間も、俺を追い駆けてくる人間も、どうやら何事かを諦めてくれたのだろう。――と、信じたい。
 姉の扉には「受講中」と貼り紙がしてあった。昨年、母がテレワーク、姉と俺がオンライン授業となり、三人とも自宅にいた際に始めた習慣を、母のテレワークと俺のオンライン授業が終わった現在もなお、姉はひとりで継続している。俺が今日のように試験で早く帰ってくるような日を除けば、この貼り紙を目にする人間は決して現れない。が、これをすることで、姉は受講中のマインドを維持できるのだそうだ。「勉強中」と貼り紙をすることでヤル気を醸成し、そいつを維持しようとする企みに似ている。
 そういうわけだから、先週の木曜に現れたクソ野郎が今週も引き続きこの辺りをうろついているのか、ちょっとわからない。期末試験は今日から四日間なので、金曜の朝になれば俺もパトロール(あわよくば威嚇まで持っていきたい)が可能になる。姉は今週はもう登校しないと言っていて(正確には登校したくてもできないのだが)、試験に臨みながらも、俺は忸怩たる思いを燻ぶらせていた。
 今日の世界史のデキはかなり良かった。平木が澱みなく読み上げていく正解に、俺はほぼほぼ頷いて応じることができた。紀平はじっと耳を傾けて微動だにせず、僅かに目だけを動かしていた。あの場の前提条件は平木が百点を取っていることであり、紀平の問題はミスが一つか二つかゼロか、俺の問題は平均点からどれくらい離れられるかだった。途中、紀平の表情が険しくなった瞬間があり、案の定、一箇所ミスがあったらしい。俺は久しぶりに八十点を超えた。ほぼすべて平木の的確な導きの成果である。
 明日は数学があって、平木は神経質になっていた。文転を決意した(この週末に両親と話しているはずである)平木にとって、これは実際的に最後の試験になる。この先、数学はあくまでも受験科目のひとつに格下げされる。平木は恐らくそうしないだろうが、受験科目から除外することだって可能なのだ。なんとも思いがけないことに。
 俺は冷凍庫にあったオムライスとわかめうどんで腹を満たすと、数学をさらっと眺めてから、日が暮れるまで(またぞろ)生物のテキストを頭から読み返していた。ベッドの上に仰向けに寝転がって。生物の最大の問題は、それが時間を背負っていることである。そこをおもしろいと思えない人間(俺のような)にとっては、創造説が真実であった時代が羨ましい。それに生物には未解明の分野が多過ぎる。なにひとつまともに説明できることがないと言ってもいいくらいではないか?
「悟朗、帰ってるん?」
 姉がノックもなく扉を開けた。「勉強中」と貼り紙をしていなかったし、「マスターベーション中」とも貼り出していなかった。今日は(いまのところ)客もいない。俺はただ寝転がって生物のテキストを眺めていた。だから姉は俺の足元でベッドの端に腰を下ろした。
「お父さんな、またタクシー使うてもええよ、て言うてくれはったわ」
「そりゃそう言うさ」
「演習はどうしても行かなあかんねん。――でな、こないだの人、榎木さんな、まだあそこにおったんよ」
「へえ、そりゃよかった」
「明日行こ思うて、さっき予約したわ」
 今週はもう行かない(行けない)みたいに言っていたが、やはり行きたくなって、午前中にでも父と話したのだろう。母に話しても、「お父さんと話して」と言われるのがオチで、しかし姉は、容易には父と話せない。だから週末に相談しておけばいいものを、月曜まで引っ張ってしまったわけだ。まことに面倒くさい家族である。
「悟朗はいっつも生物眺めてるなあ」
「なんか生物ってさ、原理を押さえとけば応用が利くって話でもないだろう? まだぜんぜん確立されてない感じがして、そこが気持ち悪いんだよね」
「宇宙と生命にはわからんこといっぱい残っとるんよ」
「姉ちゃんとこって生物あったっけ?」
「うち女子大やよ?」
「そういう話じゃない」
「トランスしたら入れるんかなあ……」
「おいおい」
「でもチンチン残しとったらダメやろうね」
「なに言ってんの。――あ、こら! ここで寝るな!」
 この姉はいったん寝てしまうと滅多なことでは起きないので、放置すれば後々難渋するのは俺のほうだ。仕方なくリビングのロングソファーで夜を明かしたのも、いちいち数えていられないほど経験している。姉が俺のベッドで寝てしまったからと言って、俺が姉のベッドに潜り込むのはさすがに腰が引ける。俺はチビなのでソファーでも寝られるが、茶山や大迫はどうするのだろう? あいつらはこんな姉を持たないから、そんな心配をする必要もないのか。
 姉が寝てしまったので、俺はベッドを――

ベッドを抜け出し、机に向かった。ほとんど寝息を感じさせない姉の生死をたまに確かめつつ(それでも胸が上下するので呼吸は確かめられる)、日が暮れる時分には生物の準備を終えた。――というか、キリがないので時間切れにした。さすがに平均点は取れるだろう。
 残る明日の試験科目は、なにを準備すればいいのか皆目見当もつかない――そもそも準備すべきことなどあるかすら疑わしい――現代文である。外は真っ暗だろうけれど時刻はまだ夕方なので、幸い時間はある。俺は文章を読むのは早い。いつものように、二学期→一学期→二学期の順で教科書を読み直すことにした。
 実際、それくらいしか為すべきことが思いつかない。しかも恐ろしいことに、そこには中島敦や萩原朔太郎もいれば、村上春樹や岩井克人なんかもいる。が、綾辻行人や東野圭吾や、東浩紀や落合陽一なんかはいない。俺の乏しい知識では、そこに並んでいる詩や小説や評論のあいだに、歴史的・文化的・象徴的(あるいは政治的?)な、なんらかの関係性を明確化できるとは思えない。が、とにかく読む。それだけだ。
「手短に頼むよ」
 ところが、そんなときに限って邪魔が入る。平木と瀬尾と一緒に自習棟に残っていた茉央が、八時前に帰宅した。リュックをしょったままだったので、自分の部屋には立ち寄っていない。同じマンションの同じフロアに住んでいると、どこまできたら「帰宅」と呼んでいいものか、ちょっと迷わされる。エレベーターを降りてまっすぐ俺の部屋にやってきても、恐らく茉央にとっては「帰宅」の範疇に入っているのだろう。
「美緒さんまた寝てる……」
「オンラインで講義聴くのはしんどい…ていつも言ってるよ」
「あのさ、瑠衣ちゃんから聞いたんだけど、なかなか口割らなくて苦労したけど、明日

が細田に声かけに行くんだって?」
「平木が返り討ちにあった以上、そうするよりほかあるまい?」
「細田はさあ、わかりやす~い感じで立場逆転されちゃったんだよ。あ、由惟さんが細田にやり返したんじゃないよ?」
「それくらいは俺にもわかる。細田と佐藤を結ぶ線で折りたたまれてたやつを、おまえと桃井で引っくり返したんだろ? 平木も紀平もそいつに加担してんだろ? だったら俺みたいなのが出てって掻き混ぜてみるよりほか手がない。そうだろう?」
「そうかなあ……。ちょっと茉央にはわかんないなあ……」
「おまえ今日はやけに冷静だね。昨日の騒ぎはなんだったわけ?」
「昨日は彩ちゃんのやり口に怒ってたんだよ」
「ああ、でも桃井は昔っからそうだぜ。佐藤と細田の件だって、問題なのは桃井なんじゃね? 違うか? だいたい桃井の口からこれまで佐藤の名前なんて聞いたことがない。それが豹変して、茉央や平木を巻き込んで、迷惑してんのは佐藤のほうじゃねえの?」
「そこは違う。悪いのは由惟さん。巻き込んだのは由惟さんのほう。彩ちゃんは放り出せないだけ。みんなそう思ってる。だから細田は勝手に転んだの。ぜんぜん関係ないの」
「なあ、そもそも佐藤はなにしたんだ?」
「……それは、

でも言えない。ごめん」
「いや別にいいけど。――たださ、みんな佐藤の名前口にするからさ、ちょっと変な感じがするだけでね。急に出てきたろ? 佐藤なんて誰も気にしてなかったのに。佐藤ってどの佐藤?みたいだったのに、今じゃ佐藤って言えば佐藤由惟だ」
「由惟さんてそんなに安くなかったと思うけど」
「うん、今のは嘘だな」
 姉が珍しく寝返りを打ったので、いつも生死を疑うほどにピクリともしない姉の寝姿をよく知っている俺たちは、思わずギョッとしてサッと首を向けた。さっきまで横を向いていたのが、今はまっすぐ天井を仰いでいる。が、目は開いていない。胸も穏やかに波打っている。俺たちは意味もなくホッと息を吐いた。
「そう言えば美緒さんてどうなったの?」
「明日からタクシーで通うって」

探してないの?」
「俺が帰ってくる時間にはいないんだよ。姉ちゃんが出かけないから諦めるんだろうな」
「ああ、そっかあ……」
「おまえ細田の話があって寄ったんじゃねえの?」
「細田? 別にもう話なんてないよ。いちおう

に確かめたかっただけ」
「じゃあ昨日の騒ぎは――て、そっか、桃井のせいだって話か」
 堂々巡りを始めている。ついでだから、もう一回ちょっと巡らせてやろう。
「茉央、細田はどうすればいいと思う?」
「試験明けにはみんな忘れてると思うよ」
「紀平と同じこと言いやがって。――でもおまえらが弾き出したんだろう?」
「彩ちゃんが露骨にやるからだよ。紀平さんとか茶山くんとかぜんぜん関係ないのにさ。まあ、雨野くんはちょっと責任あるっぽいけどね」
「なんで雨野?」
「由惟さん、雨野くんのこと好きだったから」
 そうなの…!?
「雨野くんも気を持たせるような態度とってた、ていう話だし」
 そうなの…!?
「それにほら、結城さんてああいう子でしょ? なんか引っ掻き回したっぽい」
 結城まで関係するんかい!!
「結城さんはわざとじゃないと思うよ。そういうのわかんない子だから、もともと。でも由惟さんが変になっちゃったのはね、間違いなく結城さんのせいなんだよ。結城さんがさ……あ、ごめん、これもう言っちゃダメなとこ入ってる」
「結城には、その、今さら触れなくていいん、だよな?」
「あれ? 

って結城さん苦手?」
「あんなの得意なやついるか?」
 そりゃ好きになるやつはいるだろうさ。なにしろ結城って女は見てくれだけは抜群にイケてるわけだからな。もしかすると(いま目の前に寝ているこの)姉も、結城みたいに挙動が奇妙にねじくれていたならば、こんな不自由をしないで済んだのかもしれない。もちろん俺はなにも知らないよ。結城はああ見えて結城なりに嫌な思いを胸に苦しんでいるのかもしれない、とかね。いやまあ仮にそうだとしてもだよ、俺はあいつに寄り添ってやろうなんてこれっぽっちも思わないけどね。
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