§03 12/01 「よお、袴田!」(1)

文字数 4,899文字

 世界が突然ぐんにゃりと折れ曲がって見えるようになったとき、俺たちは普通、世界のほうではなく自分のほうを、中でも視覚を――それも脳の視覚野からいちばん遠いところにある物理的な光学受容体の不具合を――まずは疑うものだ。次に受容した信号の伝達の不具合を、次に受信した信号の処理の不具合を、最後に初めて信号そのものの歪みに、恐る恐る疑いの目を向ける。
 トイレとの往復、教室の移動、体育館や自習棟との往来、そして言うまでもなく登下校の最中に、複数の男たちに声をかけられた。意味もない言葉、単なる挨拶に過ぎない。しかしそいつは明らかに異様な景色だった。
 もちろん帰宅後にはそいつの意味するところを――あるいはそいつの意味を創造した起源を――俺は理解した。理解し得た。そう思った。そして、人がこうした際によくやるように、大したことではないと考えた。けれども丸一日、いきなりそんなものに曝されて迎えた翌朝に、前日と同じ光景を受容した俺の視覚野は、ぐらりと脳を揺らしたわけだ。
 丸三日つづいたそんな異常事態のあと、四日目の朝には、神経を張り詰めながら周囲を警戒して過ごすことに(なにしろ慣れない状況なもので)、早くもくたくたになっていた。
「おっはよ!」
 エレベーターを待つ背中から声をかけられて、それは紛れようもない女の声――それも十七年間ほとんど欠かさず耳にしてきた女の子の声――だったにもかかわらず、俺はすぐ後ろで予告もなくクラッカーを鳴らされたみたいに、滑稽なほど大袈裟に飛び退いた。
「どうしたの?」
「……驚かすなよ」
「茉央は『おはよ!』て言っただけだよ?」
 そうだ、こいつは間違いなく使えるはずである。
「なあ、茉央、久しぶりに一緒に行こうぜ」
「ん? いいけど…?」
「ただの気紛れだよ」
 俺のそんな言葉を、茉央が真に受けるはずはない。けれどもこの場ですぐに追及を始めることもしない。まるでいつもそうしているかのように、「気紛れ」に付き合ってくれる。なぜなら(と敢えて言うまでもないことだろうけれど)、この女は保育園の時に婚約した俺のフィアンセだからである。(ここ、笑うところだぞ)
 同じ建物を出て、同じ階段を下り、同じ車両に乗り、並んで道を歩き、校門をくぐり、校舎に入り、靴を履き替え、階段を上る。――やはりなにも起こらない。が、クラスの違う茉央とは、文系と理系に別れて入室する際に、教室をふたつ分ばかり離れることになる。階段を上ったあと、茉央のほうが先に教室に消える。
「よお、袴田!」
 やはりそういう話になっているらしい。しかし今のは誰の声だ? 城田でも野口でもない。大迫や瀬尾なら「悟朗」と名のほうを呼ぶ。卓球部の連中も、同級生は「悟朗」だ。いま俺が辿っているルートを三年が歩くこともない。声に振り返った俺は、しかし、始業前の生徒たちが錯綜する人込みの中に、擦れ違いざまに姓のほうで呼びかけた男を、はっきり特定することができなかった。――これが、丸三日つづき、四日目の朝を迎えた異常事態の正体である。
 幻聴だったのか…などという考えは、もう浮かばない。俺はなにかしくじったのだ。いや、そうか? 俺がやったのはいつもとさして違わないことだった。どこかでミスるような話でもない。ただ、世界のほうでいつものように受け取ってくれなかった。――恐らくこれが、いま俺の周りで起きていることだ。世界はずっと俺の味方をしてきてくれた。それが急にそっぽを向いた。牙を剥いてはいない。知らんぷりを決め込んだのだ。
 もとよりこの世界が俺の目に煌びやかに映っていたわけではない。日常はこれといって劇的な要素もないままに過ぎてきた。――ああ、まあ、近くにずっと茉央がいたからな、面倒くさいことが次から次へと降りかかってはきたよ。しかし他人から羨まれるような話じゃない。こいつは当事者でなければ理解できない事柄かもしれないが、「面倒くさいこと」てやつはね、とにかく徹頭徹尾「面倒くさい」だけなんだよ。
 始業を待つ朝の教室で、自席に座った俺は腕を組み、目をつむった。目をつむると、それまで聴こえていなかったものが聴こえるようになる。感覚受容の話だけじゃない。本当に聴こえるようになるんだよ、周りの連中がなにを考えてるか、てことがね。
「コンコン?」
 机を叩くときに、合わせて擬音を口にするやつがいる。実際の音だけでは誰が訪ねてきたのかわからないからそうするのかもしれないし、その音が訪問を意味することを強調するためにそうするのかもしれない。が、いま紀平がそうしたのは、休み時間中もずっと俺が席を立たず、腕を組み、目をつむっていたからだった。
「なに?」
「お昼休み――」
「ああ、そうか……」
「御一緒しない?」
「どこで?」
「生徒会室」
「部外者でも?」
「ゲストは許されてるの、常識的な範囲で」
 席を離れた紀平の手が弁当を持っているのを見て、俺は仕方なく仰せの通り生徒会室に招かれてやることにした。どういうルートから紀平が登場してきたのか、少なくともこの女が、いま俺が置かれている状況に関与しているはずはない。
 俺の周りにバリヤーを張れるのは、茉央と平木、それに茶山と大迫くらいだろうと思っていたのだが、どうやら紀平にもそれができるらしい。俺は何者からも介入を受けることなく、生徒会室に身体を滑り込ませた。まだしばらくは、世界のほうでは俺を完全に無視する考えがないということか? それともちょっと愉しんでいるつもりか? 勘弁してほしいなあ……。
 初めて足を踏み入れた生徒会室は、二部屋に分かれていた。入ってすぐに広いテーブルを中央に据えた会議スペース、右手のドアを開けると書架と四人が座れるほどの作業机。特段殺風景というわけでもなく、むろん華やいでもいない。まあ、都立高校の生徒会室だからな。不遜にも「天才」を標榜するどこぞの怪しげな連中が屯する部屋とは違うわな。
「袴田、今日なんか変だよ?」
 奥の部屋に連れ込まれ、向かい合わせに座った。
「これは紀平の意思か?」
「なにが?」
「だから、昼休みに俺をここに連れ込もうと、紀平が自分でそう考えたのか?」
「ふ~ん。そういう発想が出てくるってことは、見た目以上に追い詰められてる感じなんだねえ」
「……ごめん。悪かった」
 そうか、紀平は誰かに頼まれたわけじゃないのか。意外だな。
「袴田はなにがあっても泰然自若としてるやつだと思ってたけど、そうでもないんだ。まあ、私たちまだ高校生だしね、ちょっとしたことで簡単に動揺させられるよね。でも試験前に袴田が調子悪いとさ、私困るのよ。袴田と答え合わせするのがいちばん――え、ちょっと、なに!?
 飯が胸につまった。生憎なことに飲み物を買い忘れている。俺が泡を食ったように胸を叩き出したもので、その様子から事態を察したのだろう、向かいで紀平が細長い水筒の口を外し、すっと差し出してきた。一瞬ギョッとしたが、背に腹は代えられない。
「……サンキュー。助かった。マジ死ぬかと思った」
「お口に合いまして?」
「なに入ってるんだ、これ?」
「レッド・ルイボス・ティー」
「不老長寿系のやつか」
「あ、そうなの?」
「いや、今のは出まかせ」
 とは言うものの、紀平に対し、このようにデリケートな負債をつくるのは、あるいは酷い悪手だったのではないか? なにしろマイボトルである。ステンレス製のしゃれっ気の欠片もないやつだが。――しかしさ、もうちょっと、こう、なんていうの? 可愛いのにしたらどうかね? え、紀平よ?
「こいつは、それで、どうすれば……」
「ん? ああ、取り敢えずシェアしていいよ。袴田が嫌でなければ」
「ふつうそういうのって女のほうが嫌がるもんじゃね?」
「感染してないでしょ?」
「たぶんね」
「じゃあ別にいいじゃない」
 そうなのか? そういう実際的なモノサシでいいのか? 本当かよ? まあ俺はいいけど。しかしこれ誰かに見られたら、また「挨拶」してくる男が増えそうな景色だな。いや紀平にそんな感情抱いてる男なんていないか。いやいや、いないことはないだろう。世間一般のカワイ子ちゃんとは違うけど、いかにも才女っぽいキリッとしたいい顔してるぞ、紀平だって。まあ生徒会室の奥座敷だから覗くやつはいないだろうけどさ。――なるほど、そうか。俺にはこういうところでの慎重さが足りてないってことか……。いや違うな。そいつは違う。俺は充分に警戒してる。今だって紀平がすっと押し出してきたところ、俺はマジで死にそうだったのに正しくギョッとしたわけだし――
「で、なにがあったの? なんで朝からずっと変な顔してるの?」
「あ、それか。――いやさ、男どもに挨拶をされるんだよ」
「挨拶?」
「そう、挨拶。挨拶だ」
「とんだご挨拶ね…みたいな感じのやつ?」
「そいつは呆れたときに出すやつだろ? もっと直接的で、暴力に変わるみたいな」
「ああ、意趣返しみたいな意味か」
「それだな」
「遺恨があるわけね、袴田に。思い当たるフシは?」
「ないこともない」
「え、そうなの? あははっ」
 ずいぶんとまあ壮快に笑ってくれるなあ。
「やっぱり吹雪さん?」
「たぶん、平木もだな」
「豪勢ねえ。――でもその二人ってことは男バレか。袴田って大迫とは仲良しじゃないの?」
「やってるのは男バレじゃない」
「じゃあ、誰?」
「それが、よくわからないんだよ……」
 そう、よくわからない。この週明けから俺に「挨拶」をしてきた人間の顔を思い浮かべようとしても、まるで目覚めた直後の夢のように逃げていく。間違いなくそいつらのあいだに存在するはずの、共通する属性を見出すことができないのだ。
 確かに、直接的なきっかけは男バレなのだろう。少なくとも俺がその場に居合わせたケースはいずれも男バレだった。しかしあいつらが――城田と野口が――無作為に抽出したとも思える男たちを扇動し、俺を襲わせているとは到底思えない。「意趣返し」とは言い得て妙だが、実際俺はこうしていささか狼狽しており、効果も如実に現れているわけだが、それで溜飲が下がるか? いやまあ確かにいくらか下がりはするだろうけど、起きている現象を見る限り――そう、こいつは「現象」だ――恐らくやはり扇動者はいない。
 扇動者がいれば、現象にはパターンが現れるものだ。パターンは偏向と言い直してもいい。しかしこいつには一見してそれと読み取れるほどの偏りがない。まったくのデタラメであるように思える。だから俺はそいつらの背中を見失うのだ。
「なるほどね。確かにちょっと気味が悪いね」
「それだ。気味が悪い。誰かが意図してやってるなら、こんな妙な気分にはならない」
「取り敢えず私が付き合ってあげるよ」
「……は?」
「一日ずっと席を離れないつもり? 朝は吹雪さんと一緒でしょ、階段上ったところで交代すればいいよね。トイレの中までは入れないけど。あ、私じゃ機能しない?」
「いや、紀平なら充分に機能すると思うけど……」
「けど?」
「三人目を招き寄せることにならないか?」
「袴田と一緒にいると誰かに言い寄られちゃうの? だったらちょっといい男にしてほしいなあ。茶山みたいにがっちり筋肉ついている感じがいいなあ」
「言っとくけど紀平、俺の能力はクピードーとは逆だぞ?」
「あ、そっか。せっかく私に思いを寄せてくれたのに、袴田がいるせいで遂げられずに終わるのか。それって、ずいぶん気の毒なお話しだわね」
 どうやら俺の警告は無視されるらしい。
 生徒会室から仲良くお手々繋いで――あくまでもイメージだ――教室に戻り、午後の休み時間に俺たちが机を挟んで座っても、試験の前週だから怪しまれる話ではない。そもそも試験の前週でなかったとしても、怪しまれる二人ではない。そもそも紀平でなかったとしても、相手が誰であれ俺が怪しまれる事態など想像に難い。それに茉央と平木が俺に纏わりついてくるのは入学以来のことで、今さら怪しむべき景色でもない。
 だいたい俺は運動神経と理数系科目ではちょっとばかり秀でているかもしれないが、チビでブサイクな取るに足りない男に過ぎないんだよ。
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