§04 12/02 頼られたら断れない性分(2)

文字数 4,653文字

 文理選択というやつは、その成立の歴史的経緯、あるいは設定者の意図に鑑みると、恐らく社会にとって有用な人材を輩出・供給するための仕掛け、であったのだろう。しかし、高校に入ってから試験のたびにこうして平木と情報交換を重ねてくると、どうやら人類には文/理それぞれに対応した脳のタイプがあるらしい…と考えざるを得なくなった。
 平木が文で、俺が理である。お互い、平木であれば文系科目では、俺であれば理系科目では、ほとんど試験対策の必要がない。むろん見ないわけではないのだが、試験前になってから「これってなんだったっけ?」などと首を捻る必要がない。さらっとテキストを読み返せば、すうっと中身がその全貌を現す。テキストにそのような作用があるのだから、試験問題にないわけがない。試験問題もテキスト同様に、読めばどこからか答えが立ち上がってくる。まあ東大に受かるような連中は、文理を問わずそうなのだろう。
 俺に平木を紹介したのは茉央だ。二人は同じ進学塾に通っていた。そして二人とも意図的に中学受験に落ちた。そのような心情について、とやかく言うつもりは毛頭ない。小学生なりに考えがあってしたことだ。小学生の考えなど取るに足らないと言う奴がいたら、ではどうして中学受験をさせるのか?と問い返したい。考えの及ばない人間になにごとかを強制するのは、道徳的に大いに問題ある行為だ。
 中学二年の夏休みだったと記憶している。茉央に付き合わされ(そっちの用件は忘れた)、クッソ暑い中を池袋の高層ビルのひとつに入ったところで(ああ、そう言えば英検だな、あれ)、エレベーターを待つ平木に初めて会った。当時の平木は今ほどゴージャスな女ではなく(間もなくそのように変貌したわけだが)、どこにでもいる(いや、どこにでもいたら驚くけど)線の細い典型的な美少女だった。試験時間を適当に潰し(確か一度家に帰ったのだっけ)、エレベーターの下でふたたび茉央を迎えたところ(迎えに来いと言われていたからだ)、三人でそのまま近くのカフェ(それも安くないところ)に入った。その場でさっそく答え合わせを始めた二人に、俺も巻き込まれたわけである。
 やがて茉央と出かけると必ず平木が現れて、いつからか桃井も姿を見せるようになり、いつのまにやら俺は使い勝手のいい使い走りのポジションに、否応もなく据えられた。とは言え、俺を好き勝手に使ってきたのは茉央だけで、平木も桃井もあいつほど非道なことはしてこなかった。先日のカフェテリア(と呼ばれている食堂)で、ちょっと平木がやって見せた程度のこと(野口を追い払ったやつね)くらいである。
 中三の夏前に志望校を見物に行こうと集まったとき(しつこいようだが茉央に連れ出されて行ったらいつものように平木と桃井もいたのだ)、俺たちの偏差値がほぼ横並びであることが判明する。いや、三人のほうはとっくに承知しており、知らなかったのは俺だけだった。正直、こいつらと同じ学校に行くのか…とは思った。高校まで茉央と同じなのか…とは思った。なにを思ったかと言えば、茉央や平木みたいなレベルにある美少女と最初っから知り合いという立ち位置で入学すると、間違いなく俺は損をする(少なくとも得はしない)だろうと察したわけである。
 平木が表裏の顔を使い分けていると知ったのは、だから高校に入ってからのことだ。理由を聞けば、まったく他愛もない。だれもかれも、なにもかも容姿から評価するのが気に食わない――ただそれだけだった。しかし、どうもそんな感じがする…と気づいたのは小学校の三、四年の頃で、そこから先は周囲の取り扱いの嫌味が増していくばかりであり、俺が話を聞いた頃には、すでにもう、平木はおかしな具合に己の世界を捻じ曲げてしまっていた。
「ねえ、悟朗、これ合ってる?」
 俺たちは日浦と佐藤が仲良く座っていた書架の奥の閲覧席から、元いた場所――カウンターに栗林の顔を見る入口に近い大きな机――に戻っていた。
「円周は含むが直線は含まない。――うん、合ってるな」
「私こういうの好きよ」
「対数関数のほうは?」
「終わったけど、なんだか計算手順だけって感じがして、ちょっと気持ち悪い。対数って本当はなんか便利なやつなんでしょ?」
「それ話し始めると長くなるから、また今度にしてくれ。――それよりさ、ローマの分裂のとこなんだけど、これ、ゲルマンの南下に対応って説明だと、さすがにちょっと無理がねえ? なんかほかに如何にもな

があったはずだよな?」
「元々あれはね、それまでもやってた分担統治という意識で始めた、ていう解釈みたいよ。そこにあとからゲルマンが登場してくるわけだけど、あくまでも西ローマの諸王として振る舞ったって話。それがその後も脈々と続いていくわけよ」
「田舎侍も京に上れば公家の真似事をするもんなあ」
「侵略先の高級な文化に馴染んでいく、て展開だね」
 むろん栗林もカウンターに座りながら試験勉強をしているのだろう。書架の奥から戻ってきた平木と俺の姿を見て、絵に描いたようにギョッとした顔を、慌ててカウンターの向こう側に隠した。――こんな男がどうして日浦に蹴り飛ばされるような事件を起こすのか、その状況や経緯がまったく想像できないのだが。

、お待たせ!」
「待ってねえよ。いや待ってたけど、ちょっと早過ぎるだろ?」
「なんか興に乗らなくてさあ……」
 あと三日で期末試験を迎える高校生が口にするセリフじゃない!などと言ってみたところで、この女は蓋を開けてみるとなぜか真ん中くらいにいる。どこを拾ってもほぼ平均点はクリアーする。しかしヒトの能力というやつは概ねそんなものなのであり、もっと頑張れば…と気安く口にすべきではない。――そうした反能力主義的な言説が多くなっていると最近どこかで読んだ。この胡散臭い感じは、君はオンリーワンだ!という慰めに通底する匂いのせいだろうか? 本当にどうしようもなくて「そこ」にいる人間がいるのだという主張を否定するつもりはないけれど、しかし、本当にどうしようもないのか?を見極めるのは容易なことではないはずだ。実際、茉央がその典型的なサンプルである。試験前になると、毎日のように「今日はなんだか興が乗らない」と口にする。「勉強していないふう」を装っているわけではない。そうした駆け引きめいた面倒くさいコミュニケーションにはまったく関心のない女である。茉央が「興に乗らない」と口にするからには、本当に「なんにも興に乗ってこない」のだと考えていい。

ってさあ、理系なのにいっつも文系の勉強してるよね?」
「理系

文系の勉強してんだよ」
「でも瑠衣ちゃんはいつも理系の勉強してるよ?」
「平木は根が文系なんだからしょうがねえだろう」
「じゃあ瑠衣ちゃん文系に変えたほうがよくない?」
「そいつは本人に言ってやれ、ここにいるんだから」
 俺たちのあいだに立つ茉央が、じっと睨みつけるように見上げる平木の眼にぶつかって硬直したのが、隣りからはっきりと見て取れる。平木はむろん聴いていた。まあ、聴こえるところで話したのだし。茉央がぐっと言葉を呑み込んだのは俺にもわかった。
「……袴田」
 右手の女二人の切迫した様子に気を取られていたところ、左手から声をかけられた。また例の意味不明な煽りが来たのか…?と内心ギクリッとし、悟られぬよう気持ちを落ち着かせ、逃がさぬようゆっくり首を回してみれば……なんだよ、栗林かよ。そんな引き攣った顔で人を驚かせるんじゃねえ!
「どうした?」
「袴田って、日浦と仲いいのか?」
「いや、別に」
「でも、さっきはずいぶん長く一緒に話してたろう?」
 ……ほお、おもしろいね。
「おまえ、なにを期待している?」
「わかってて言わせるのか?」
「栗林が自分の口で言ってこそ意味があるやつだぜ」
 おい、頑張れ。ここで黙り込むようじゃ、その先へは行けないぞ。
「……日浦に、いや佐藤さんに、二人に、ちゃんと謝りたい」
「とっとと行けばいい」
「俺は、日浦が怖い」
「ああ、蹴り入れられてぶっ飛んだらしいな」
「知ってるなら、頼むよ」
「自分でやれ」
 おまえが本当にそう思ってるなら、それくらいできないはずなかろう。……いや、だからさ、俺を見るなよ。なんで見るんだよ。俺たち友達じゃねえだろ? たまたま茉央とおまえが二年続けて同じクラスってだけで、たまたま茉央とおまえがくじ引きで隣の席になっただけで、たまたま俺たちが同中っていうだけで。……ああ、クソッ! わかったよ。一緒に行ってやるよ。でも俺は口利かねえからな。ぜんぶ自分で話せよ? ぜったい俺の顔見るなよ? いいな?
「今度は栗林か。さらに物騒なこった」
 栗林を閲覧席の右端に立たせると、もちろん俺はさっさと左端に移動した。背中も向けた。武士の情けというやつだ。従って、栗林がどんな顔をしていたか、俺は知らない。佐藤と日浦がどんな顔をしていたのかも、やはり知らない。恐らくガチガチに強張った顔で、栗林が直立不動のまま頭を下げたのだろう。佐藤も日浦も呆気に取られてしまい、どう応じればいいのか迷ったろう。恐らく佐藤が黙って恩赦の身振りを示し(なにに対してか知らねえけど)、それを見た日浦が肩をすくめる。まあ、そんなところか。
「袴田――」
 日浦の声に振り返ると、栗林の姿は消えていた。手招きされて、俺は日浦の隣りに腰掛けた。佐藤のほうはまだビックリしたところから抜けきっていない。が、日浦のほうはどうやら落ち着いているようだ。いきなり殴られはしない。そもそもテコンドーは足技しかないんだっけ? まあ、俺が責められる謂われはこれっぽっちもないんだが。
「日常的にこういうの生業(なりわい)にしてるの?」
「してねえよ!」
「でも頼られたら断れない。正面から対峙するとおっかないけど、隣りや後ろからだと実はアプローチしやすかったりする。そんな感じ?」
 マジか……。初めて聞いたぞ、そんなの。
「日浦って案外おしゃべりなのな」
「おしゃべりはね、俺みたいな弱っちい人間にとっては、最高の処世術になる。それで女帝や提督とも、茶山や瀬尾とも仲良しになった。だけど袴田とはね、まあ俺には縁のない人間て言うか、お世話になるような機会もなかったし」
「自分で片付けられるからだろうよ」
「あ、テコンドーのこと言ってる? あれは違うよ。あれは伝家の宝刀、最後に抜くやつ。ほんとは抜かずに済むほうがいい。道場の外で使ったのは栗林が初めてだったんだ。さすがにちょっと震えたね。睨み合うだけで勝敗が決するのがいちばんいいよ。野生動物ってそうだろう? 袴田や提督なんかはそうだよね。睨み合うだけで決まる」
 余計なお世話だ。
「なにがあったか知らねえけど、栗林はもういいのか?」
「よくないけど、真正面から謝られちゃったからね」
「だったら、おしまいにしてやれよ」
「そうするしかないよね」
「じゃ、そういうことで……て、なんで俺がこんなことやってんだ?」
「きっと好きなんだよ、こういうことが」
「勘弁してくれ」
 二人して仲良さそうに笑うなよ。本当に俺はそれだけなんじゃないかって勘違いしそうになるじゃねえか。しかし世の中そんなに分かり易くできてると思うか? ふつう他人の頭の中なんて想像もつかない事物で溢れ返ってるもんだぜ。何故だか知ってるか? 他人の世界なんて俺たちの能力では想像もつかないからじゃないぞ。他人の世界が実際に想像もつかない事物で溢れ返っているせいさ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み