§07 12/07 狂犬病を疑われた女の子の話(2)

文字数 3,668文字

 カフェテリア(学食のある食堂に過ぎない)からはすでに茉央と平木と瀬尾の姿は消えていた。さっさと食事を終え自習棟に移ったのだろう。恐らく彼らが座っていたものと想像される中央窓際のテーブルが開いていた。ざっと見回しても、知った顔はいない。茶山や大迫らの姿も見えなかった。
 余計な話を再開することなく、俺たちは今日の試験問題をテーブルに拡げた。いつものように紀平が滑らかな活舌で自身の回答を(すなわち正解を)並べていく。生物は淡々と進み、現代文は俺が唸ったり天を仰いだり制止して抵抗したりするもので、なかなか進まない。数学になると紀平の口調が一転し、半ば俺にお伺いを立てる色合いが紛れ込む。が、今回は紀平も間違いなく満点であろうことが予想できた。
 今日で二日目、まだ半分だが、いつも満点を狙える物理と数学が終わり、いつも過酷な現実を突き付けられる世界史と現代文が終わったので、気持ちは非常に軽い。残りの科目は頑張っても満点になることがない一方で、頑張れば頑張ったなりの点数が取れる。
「結局、細田はどうなるんだっけ?」
 後回しにした弁当を再開しつつ、紀平が箸を振り上げて言った。
「俺が首を突っ込む必要はなかった」
「彼女に解決可能な事態だった、という意味?」
「そう、そう」
「桃井さんと吹雪さんの問題を明るみに出したという功績だけが残る」
「功績か?」
「罪過なの?」
「余計なこと、かな」
「でも佐藤由惟をハブったのは罪でしょ」
「実際的には不能犯みたいなことになったわけだろ?」
「よせばいいのに…てやつか」
 騒々しい人間が登場する際には、音が届く前に(すなわち音速を超えて)ナニモノかが場を震わせるものであり、実際、俺と紀平は呼びかけられる前にそちらに顔を向けていた。
「悟朗!」
 そろって顔を向けたのだから、わざわざ呼びかける必要もあるまいに。
「お、紀平か。悪い、ちょっと邪魔する」
「どうぞ」
「吹雪が桃井につかみかかって返り討ちに遭った」
 はっ…!?
「吹雪はいま保健室だ。なんか知らんが瀬尾が付き添ってる」
「怪我したのか?」
「顔とか擦り剝いたりして、ちょっと酷いぞ」
 むろん、俺は腰を上げたよ。
「わかった。――で、その報せをなぜ大迫が持ってくる?」
「俺ちょうど深津先生とだべってたんだわ」
「あ、そ」
「私も行く」
 ああ、何度も弁当の邪魔してすまないな、紀平。
 瀬尾が茉央といるってことは、桃井のほうは平木が預かったんだろう。……しくじったなあ。あそこに茉央を置いてきちゃったもんなあ。今日は平木と瀬尾と自習棟に入る背中を見送るべきだった、てことだよなあ。あのとき茉央の顔をちゃんと見なかったのが失敗だよ。悔しくてちょっと泣いてたんだろう。ちょっと泣くくらい悔しかったんだろう。それくらい、顔見ればわかったはずだ。恥ずかしかっただけじゃない、てことくらい。
 とは言え、今まさに乱闘の真っ最中というわけでもないのだから、慌てて駆けつける必要もなかった。恐らく瀬尾と平木が割って入り、瀬尾では桃井を押さえられないから、平木が桃井を引き受けて、だから瀬尾が茉央を引き受けたのだろう。いや恐らく乱闘騒ぎにすらなっていないはずだ。一発で茉央が弾き飛ばされて、平木が強引に桃井を連行した。そう考えるのが正しい。その一発で擦り傷をこしらえたのだ。きっと痣もつくっている。
 最初から――小学生だった頃から――なぜか桃井には効かなかった。細田のように、あるいは平木以外のすべての女たちのように、桃井は茉央に圧倒されたりはしなかった。だから親しくなったのだと言えば、そう言えないこともない。茉央に圧倒されているようでは確かに友達にはなれない。しかし桃井は平木とは違った。なにか致命的に違っていた。桃井のしていることは昔からどこかおかしかった。どこか俺たちには計り知れないところがあったのだ。
「失礼します」
 深津先生の返事を待って保健室のドアを開けた。
「悟朗!」
 瀬尾が犬のように駆け寄ってきた。
「平木はまだか?」
「まだだよ」
「瀬尾さ、悪いんだけど、紀平と遊んでてくんない? つうか、紀平と一緒に出てってくれると嬉しんだけど」
「いや、でもさ――」
「サンキュ」
 ベッドの端に腰掛ける茉央の顔を見た瞬間、瀬尾がそばにいたことも、紀平がついてきたことも、俺が慌てて走ってこなかったことも、すべて間違っていたと悟った。
 茉央のそばに瀬尾を置いたのは、間違いなく、瀬尾であれば二次災害を引き起こす可能性がないからだ。平木が付き添ったのでは、先日の夜の騒動が反復されてしまう。
 紀平が無理やり瀬尾の腕を引っ張って保健室を出てくれた。ドアが閉まってから、俺は深津先生の顔をちらりと見やり、すぐに茉央が座るベッドに歩み寄った。
 俺はチビだから、絵面的には男がベッド脇で膝を折るほうがカッコがつくのだろうけれど、立ったままで事が足りる。立ったままでも、茉央の顔が胸の辺りにくる。
「……

、早かったね」
「ああ。大迫から聞いて、すっ飛んできたよ」
「私、数学けっこうできたよ」
「お、そっか」
「うん。日曜日に

に教わったとこ出たでしょ?」
「ばっちり出たなあ」
「それとね、それと、えっと……」
 仕方がない。隣りに座るか。カーテンは開いているし、深津先生もすぐそこにいる。そもそもここは保健室で、これは俺のベッドでも茉央のベッドでもない。
「……膝、見て」
 おお、思いっ切りどこかぶつけたか。
「……おでこ、見て」
 派手な擦り傷だな、すぐに気づいたよ。
「手は、大丈夫」
 手? 手が、どうしたって?――ああ!
「シャーペン持てるか?」
「うん、持てる」
「試験受けられるか?」
「受けられるよ」
 尻の幅にして半分ほど間を空けて座り、小声で話す俺たちを、深津先生が見えていないふり(聴こえていないふり)をしているのは明らかで、この状況はなかなかにツラいものがある。
「始業式で私が倒れたの憶えてる?」
「中一の二学期、だったか」
「ヤバい…て思って、私とっさに

のほうに倒れたんだよ」
「二人とも前から二番目だったなあ」
「あのとき

受け損ねたよね」
「茉央が思いのほか重たくてなあ」
「あのときも膝とおでこぶつけたんだよ」
 今日も俺が受け損ねたからこうなったと言いたいわけだな。まあ、大きくは間違っていないから、それで構わないけど。
 保健室に平木が姿を見せるまでずいぶんと待たされた(待つよりほかあるまい?)。その間、ベッドの上で同じような話を延々と繰り返し聞かされた(俺がこれまで如何になにごとかをし損ねてきたかというような話だ)。このところ茉央は平木と瀬尾と自習棟に通ってきたのだが、今日は俺の部屋で勉強すると言う(断れるはずがないだろう?)。わざとらしく片足を引いて歩く茉央を気づかうふうを装いつつ、帰宅したのは二時過ぎだった。ちょうど姉も学校から帰ってきたところであり(帰りもむろんタクシーをつかっている)、俺たちは食いそびれていた昼食にようやくそこでありついたわけだ。
 食事を終えた姉は(またYouTubeでも眺めるのだろう)リビングの床に寝転がった。俺たちはむろん試験対策である。理系の俺と文系の茉央とでは微妙に試験科目が異なっているのだが、そもそも数学を除けば茉央が俺に教わる科目はなく、俺のほうにも茉央を頼りにする科目はない。淡々とそれぞれの試験準備に集中する中で、それを妨げるものと言えば、思い出したかのように茉央が打ち身や擦り傷を痛がってみせ、いかにも心配そうに俺が労わって見せるという面倒くさい情景が、何回か差し挟まれたことくらいだ。――あのとき桃井がなにをどうしたのか、試験が終わり次第、平木から事情を聴き取らねばなるまい。恐らく茉央と桃井は不可逆的に拗れてしまったはずだから。
 晩飯に家から呼び出された茉央は、またすぐに戻ってきた。我が家では、上機嫌に帰ってきた母が珍しく夕食をつくった。俺は思い切って気にかかっていたことを尋ねた。私大でもいいというのは本当か?と。母は東京の国立大に俺が受かるはずがなかろうと答えた。この人の頭の中では、東京には東大と東工大しか理系の国立大が存在していないという、驚くべき事実が判明した瞬間である。姉は十六の少女のように笑い転げた。どうして姉が笑うのか解せない様子の母は、別にお金がないわけではないからどこでも好きなところに行けばいいと言った。父に確かめる必要もないことだ、と。
 我が家にお金がないわけではないことくらい、さすがに俺にだってわかる。しかしそんなに簡単に言ってもらっても困る。そもそもあなたがた二人が、あなたがた二人の父親も兄弟もその祖父も、親族が皆ほぼ例外なく旧帝大か、その近辺の学歴を持っているからではないか。加えて姉も、東京でもっともレベルの高い国立女子大に、さらりと造作もなく進んでいるではないか。それなのに俺だけ例外扱いするのは――そうか……。この人たちは、あの人たちも、わずかばかりの苦労もなくそうしてきたという話なのか……。
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