§08 12/09 世の中に たえて吹雪のなかりせば(2)

文字数 3,551文字

 紀平はまっすぐに帰ると言うから廊下で別れ、俺はカフェテリアに移って弁当を食べることにした。ど真ん中に騒々しい一団が集まっており、大迫の頭がひとつ飛び出して見えた。こちらから見えるということは、あちらからも見えるということであり、果せるかな、大音声で呼びかけられた。近づけば、あの城田の顔がある。俺を見て、一瞬頬を引き攣らせたあと、周りを見回し、ちょうど自分の隣りの椅子にしか空きがなかったものだから、諦め顔で少しばかり空間を拡げた。この騒々しい一団は言うまでもなく男バレである。
「なあ悟朗、最近おまえが紀平と密室にしけ込んでるらしい、てな噂が流れてんの、知ってる?」
「聞いたよ。つくづく星の巡り合わせに恵まれない男だ、とかなんとか」
「しかし紀平なんぞ今はどうでもいい。――吹雪と桃井になにがあった?」
 男バレのデカくてむさくるしい男どもの好奇に満ち溢れた視線が、一斉に俺の上に集まった。睨み返すような場面でもないのだが、ちょっとばかり皮肉ってはみたくなる。なにしろこいつらが灰になったのはつい先日のことで、そこから不死鳥のごとく蘇ろうと足掻いている真っ最中だ。水を差すには絶好のタイミングである。
「間近で見てた瀬尾に聞けばいい……て、ああ、そういや瀬尾はもういねえんだっけ」
「古傷をえぐりにくるねえ」
「実際あれは桃井のミスなんだよ。茉央と付き合い長いクセによ」
「吹雪は物騒だからなあ」
「そういう意味じゃなくてだな。――俺はまったく知らなかったんだよ、桃井が茉央になにやらせてたのか」
「……マジで?」
「なんか佐藤ってヤバいんだよな? よく知らねえけど」
「俺も佐藤は知らねえけどさ、でも悟朗が知らねえは嘘だろ?」
「ちょっとは聞いてる。でもちゃんとは聞いてない。俺にも話せないことらしい」
「いや悟朗、そりゃちょっとありえねえわ。吹雪は悟朗でもってるんだぜ。悟朗が後ろにいるから平気な顔して歩けるんじゃねえか。そうでなけりゃ、吹雪みたいなのはあっさり破滅するもんだろうよ」
「だけど実際そうだったんだわ」
「マジかあ……」
 大迫が言葉を失ったところで、俺は弁当を喰い始めた。男バレの連中はすでに食事を終えていて、練習が始まるまでの時間をだべって潰しているところだった。大迫と俺がしきりに「吹雪」だの「茉央」だのと口にするものだから、隣りに座る城田が居心地悪そうに身を捩る。そう言えば、ここ数週間の小さな騒動の発端は城田の愚行からだった。物騒だがとにかく可愛い吹雪茉央に、城田は理性の働きを麻痺させられてしまった。喩えてみるならば、ハリガネムシに寄生されたカマキリがトチ狂って川に身を投じるような話である。あれによってハリガネムシは河川と森林の生態的循環を促し、環境の安定化を図っているらしい。――では、カマキリ城田を操ったハリガネムシはなにものか? 城田の行動は男女の性愛に関係することは明らかなのに、ハリガネムシに寄生されたカマキリは生殖能力を失うという話ではなかったか? いやハリガネムシを持ち出したのは俺だ。城田はきっと正しく性愛に唆されて理性を停止させ、茉央に惹きつけられたに過ぎないのだろう。
「あのな、悟朗――冷静に順番を遡っていくとな、実は瀬尾に行きつくんだよ」
「日浦みたいなこと言いやがる」
「そうか! 日浦もそう言ってるか! やっぱり俺の考察は――」
「ところがその先に雨野と結城がいるんだって」
「なんだそれ?」
「さあ、なんだか俺にもよくわかんねえよ」
 ふたたび大迫が難しい顔をして黙ったので、俺は時計を気にしながら弁当を平らげた。あと十五分ばかりで部活が始まる。そろそろ部室棟に向かうべきだろう。実際、一人二人と席を立つ人間がいる。城田もそれに乗じてそそくさとテーブルから離れた。が、大迫はなお動かない。ここまでの会話の行きがかり上、俺もちょっと動けない。
「――悟朗、天野と話したことあるか?」
「ないよ」
「じゃあ結城は?」
「好き好んで結城と話すやつなんているかい?」
「あのな、瀬尾と桃井って、結城の家に遊びに行ってるんだよ」
「へえ」
「ちょうど瀬尾が部活やめるって言い出した頃だ」
「ふ~ん」
「吹雪からなにか聞いてねえか?」
「いや」
「それで悟朗、日浦はあいつらのことなんて言ってる?」
「自分で訊け」
 時間切れである。立ち上がると、この男は俺より三十センチも上に頭があって、疲れるから立ったまま顔を見て話すことはしない。顔を見て話す必要があるときは座る。従って、カフェテリアを出たあともおしゃべりをやめない大迫の隣で、俺はただまっすぐに前を見て歩く。話は聞いているが、顔は見ない。見上げる形になるから、顔は向けない。
 ……さっき、俺はなんて言った? 茉央がやっていることを知らされていなかった、とか言ったよな? 大迫が唖然として、俺も当然そうだろうと思った。……なるほど、茉央はそれでプツンといっちまったわけだ。自分で口にしておきながら、後から理解が追いつくなんて、よくあることだろう。……つまり、桃井は俺も承知していると思っていたのだ。茉央が俺に話していると思っていたのだ。他方で茉央は、俺には言えないと考えていた。実際そういう類いの話なのだろう、佐藤の一件は。……ところが、桃井は俺も承知していると思っていたので、さらりと俺をすっ飛ばしたわけだ。そこで茉央はブチ切れた。夜になって和解を申し入れてきたのは、桃井は真実に気づいたのだろう。しかしもう手遅れだった。……俺に話せないような事柄を、茉央と共有してはいけない。仮にそうした事態に嵌まってしまったら、その時は最後まで俺に知らせてはいけない。俺に話せないようなことをしている状況が、俺に知られてしまうことは、茉央にはなによりも耐えがたく、受け入れ難いのだ。……仕方がない。俺たちはそのようにして十七年を過ごしてきた。だから、これはもうどうしようもない。
 部室棟の渡り廊下に入ったところで、急に大迫が足を止めた。俺はできれば見上げたくはない大迫の顔を、眉を顰めつつ見上げた。そして奴の視線の先へと誘導されたわけである。天野久秀――この場所に立っていてはならない男のようであり、この場所に現れるべき男のようでもある。一緒に結城の姿が見えないことに、俺は少しばかり安堵した。

     *

「さっき、あまり驚かなかったね」
「ふつう出くわして驚くのは俺のほうじゃないからな」
「ああ、そうなんだってね。袴田くんは恐ろしい人だって聞いたよ」
「誰から?」
「ほぼ全員の口から」
「ロクでもねえな」
「アハハ!」
 驚いてるさ。俺の前でそんなふうに朗らかに笑うやつに出会うのは、ずいぶん久しぶりなもんでね。
「瀬尾に頼まれてきたんだろう?」
「そうだね。――桃井さんの頼まれごとを、瀬尾くん経由で持ってきた」
 今となっては懐かしくすら思える体育倉庫の前だ。試験明け最初の練習をサボった。俺がうまいこと言っておいてやる、なんて大迫に大見得を切られたのだが、あいつにそんな芸当ができるはずがない。しかし天野が登場してしまった以上、忙しいから後にしてくれとも言えなかった。実際、俺はこれといって忙しくもないことだし。
「桃井と吹雪は無理だよ。悪いが俺でも無理だ」
「袴田くんで無理なら誰にもどうしようもない。と、瀬尾くんが言ってたけど。――それって要するに、吹雪さんは袴田くんのことしか信用していない、て意味なのかな?」
「ちょっと違うな」
「じゃあ、吹雪さんが盲目的なくらい袴田くんに恋してるとか?」
「そんなのが最終ハードルになると思うか?」
「ならないね。――さて、困ったな」
 ちっとも困った人間の顔をしていない。相当な変わり者らしいという気配がビシビシと伝わってくる。むろん、そうでもなければ、あの結城を彼女にするなんて、ふつう考えられやしない。その結城も苦手だが、どうやら天野にも手を焼きそうだ。
「あの桃井さんがね、意外にもけっこう応えてるみたいでさ」
「確かにそれは意外だな」
「時間ですら解決できないことなのかな?」
「さあ、十年後のことまでは知らねえよ」
「まあ、そうだよね」
「ここを卒業したあとだって請け合えない」
「そうなの?」
「だから、俺がいなくなってから、ゆっくり自分でやれと、そう桃井に伝えてくれ」
 解決するかどうかは俺の知るところではない。が、そのための時間が充分にあるのは間違いないだろう。そして時間というやつは不可逆的に物事の在り様を変質させる。明日は今日の反復では絶対にない。それが悦ばしいことなのか、哀しむべきことなのか、そんなことまでは知らない。――それより天野、俺はおまえとは相性が悪いみたいだから、とっとと立ち去ってくれねえかな? もう欲しいものは手に入れただろう?
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