§06 12/06 善なる意志を以って、善なる義務を為せ(3)

文字数 3,488文字

 茉央を追い出して(正確には空腹に耐えかねた茉央が自分の家に帰ったので)、俺は現代文の素読に戻った。集中して気持ちよく読み進めているうちに、けっこういい時間になってしまい、俺のほうも空腹感を抑え込むのが難しくなった。なにしろ俺の空腹は、これまで長期間にわたって満たされなかった…なんて経験をしたことのない温室育ちな極楽トンボであり、求めれば必ず満たされてきたのである。
 母が帰宅した気配はまだなかった。帰宅の連絡は姉にだけ届く。従って俺はこれから気持ちよく眠っている(とは言えもう四時間だ)姉を起こす難事業に取り掛からねばならない。この姉は面倒くさいことに肩に手を置いて揺すったくらいでは絶対に起きない。一方の手で肩を激しく揺すり、もう一方の手で頬や額を叩きながら、近所迷惑にならない程度の音量で呼びかけ続ける必要がある。すると、間もなく重く垂れこめた靄の向こうにキラリと小さな瞬きが見えてくるわけだ。そいつを離さぬよう慎重に、かつ大胆に、現世へと引き摺り出すのである。
「姉ちゃん、今日の晩飯はどうなってる?」
 首から下はまだ完全に眠りの底に寝そべっており、顎から上が覚醒のプロセスに乗りかかってきたところだ。
「……ああ、いま姉ちゃんな、夢見てたんよ」
「どんな夢?」
「なんかな、樅ノ木みたいな大きな樹の立ってる庭があってな、洋風のコテージみたいな家におんねん。悟朗も茉央ちゃんも瑠衣ちゃんも、みんなおってな、何十年も経ってるんやけど、だれも歳とってないんよ。でもな、みんないろいろあったんやで。いろいろあってそこに集まってん。それはみんなわかっててな、だから心地いい感じやの。ほいでな――」
 首から下へも覚醒が進み、ベッドの上に肘をついて起こした身体を、不安定な姿勢で俺に預けてくる。仕方なく姉の身体を受け取って、「俺はそこへは行かないよ…」と胸の内で呟いた。――俺はこの世界をまっさらにする。完全にリセットする。決して周囲の人間を(あるいは誰彼かまわずに)巻き込む類いの迷惑な計画ではない。俺は姉も茉央も存在しない世界へとひとり勇敢にも旅立つのだ。――だから俺はそこにはいない。そこには行かない。そこには戻らない。
「姉ちゃん、飯はどういう話になってる?」
「カードで適当に頼んでなあ、て言うとった」
「じゃ、ピザでも頼むか。いい?」
「ええよ。――あ、今ここでやってな。姉ちゃん動かれへんから、このままな」
 俺はスマホに手を伸ばし、宅配ピザのアプリを共有アカウントで立ち上げ、最初に出てきたおススメのセットをタップして、サイズを変更し(MをLに置き換え)、登録済みのファミリーカードで決済を終えた。その間、

姉が背中にべったりと貼りついていた。それこそ粘着性の高い物質でも分泌しているかのように。まだ眠り足りないのだろうか、肩に乗せられた頭がやけに重たい。
「この部屋、ちょっと寒ない?」
「空気が冷たいほうが頭が冴えるだろう」
「ピザ届いたら起こしてなあ……」
 姉は俺の背中からずるずると滑り落ちるように、また横になった。ピザはすぐに届いた。寝戻ったばかりの姉はすぐに目を開けた。一緒にビールも頼んでいた。母は酒が飲めないので我が家にはビールのストックなどない。恐らく父のほうの遺伝的形質が勝ったのだろう、姉は酒に強かった。大学生になって判明した。俺はまだなんとも言えない。なぜなら味覚が未成熟なせいで、そもそも旨いと感じられないからである。強い弱いは旨いのあとにやってくるものだ。不味いのであれば、強かろうが弱かろうが、どっちでもいい。
「茉央ちゃん、勉強しに来てたんか?」
 たまにこういうことをするから気味悪がられる。例を挙げれば、姉はそういう人間だ。
「姉ちゃん寝てたんじゃないの?」
「寝とったけどな、さっき残り香が匂うてな」
「茉央はね、細田の話」
「細田さん。……誰やったっけ?」
「ほら、先導して誰かをハブったら、反対に自分がハブられたとかいう話」
「それ、引っくり返したんは茉央ちゃんなんやろ?」
「茉央も細田をハブるつもりはなかったんだ。たんにハブられた佐藤を保護したというか。まあ桃井に頼まれてやったらしいけど」
「善なる意志を以って、善なる義務を為せ、いうことやな」
「カント?」
「これカント先生? マタイ伝やなかった?」
 確かカントは、行為の成果は問わない、と言っていたはずだ。パフォーマンスに関しては生まれ持った資質などが大きくものを言うし、あるいは社会的な善行で幸福感を得られるタイプであるといった性向も影響する。そうした資質や性向なんかを超えたところで善を成さねばならない。だから善は義務なのだ。気乗りはしないけれど義務はしっかり果たす――そんな姿勢をむしろ称揚するかのような、不思議な議論をする。
 俺にとっての善は、言うまでもなく、この姉のことだ。姉への配慮は、それこそ気乗りのしない善に違いない。俺のあらゆる行動を律する原則である。これが善でなければ世界にどんな善が在り得るのか、俺には想像もつかない。カントによれば、善は普遍的でなければならないわけであり、しかし、俺は姉の普遍性を尋ねようとは思わない。そいつを糺してみたところで、なにがどう変わるわけでもないとわかるからだ。
「茉央ちゃんはめっちゃ資質高いんやから、自分で気ぃつけなあかんのよ」
「あいつにそれを自覚させろ、て?」
「悟朗の仕事やんか。神様がそう決めはったんやで」
 まあ、そうだろう。そんなものを決められるのは、神様くらいしかいない。姉への配慮が善であり、俺を律する原則であることも、同じように神様がアプリオリに決めたことだ。俺が選んだわけじゃない。今ここにいる俺は、これまでの俺の選択の結果ではない。矛盾しているように聞こえるかもしれないけれど、我々が明日どこに立っているかは我々の今日の選択によって決まる。これはその通りだ。しかし俺が今日ここにこうして立っているのは、生まれてから昨日までの俺の選択の結果ではない。なにごとか、もっと凄いやつのせいだ。……ごめん、ダメだ。うまく言えないよ。
「でもさ、たとえば細田の事案てさ、茉央はなにをどう気をつければいいのかね?」
「さあ、なんやろうねえ……」
「気をつけるって言ってもさ、茉央が性ワルなのって、どうしようもなくない?」
「茉央ちゃん性ワルなんか?」
「ちょっと違うな。性根がひん曲がってるわけじゃないもんな。――平木が言うにはね、要するに桃井が策略家だってことなんだよ。茉央を利用して佐藤を守ろうとしたわけ。そしたら細田が吹っ飛ばされた。茉央がなにをしたというのでもない」
「じゃあ、桃井の要請に応じなければよかったん?」
「そうなあ。桃井と瀬尾だけのほうがよかったかもなあ」
「ほな、そこまで押し戻したらよろしい」
「どうやって?」
「さあ、どうやったらええんかなあ――あ、電話や!」
 そのとき、珍しく固定回線電話が鳴った。携帯やクレカの会社から保険やローンの勧誘でもない限り、この電話を鳴らす人間は決まっている。
「お父さんやったら、悟朗が話聴いといて」
 そう、父である。ダイニングテーブルを立って壁掛けのディスプレイを見れば、やはり父の携帯番号だった。俺が振り向いて頷くと、姉はピザ一切れと缶ビールを手に廊下に出た。姉の部屋の扉が閉まる音を聴いてから、俺は受話器を取った。
「ああ、俺」
「悟朗か。母さん帰ってないのか? 美緒はどうしてる?」
「部屋で寝てんじゃね」
「あのな、美緒にタクシー使わせることにしたから」
「ああ」
「それでちょっと様子見てな、長引くようなら藤堂さんに相談する。母さんに伝えといてくれ」
「わかった」
「じゃあ」
「うん」
 父がわざわざ固定回線電話を使うのは、これを家族全員に伝えたという体裁を整えるためである。と、俺は考えている。ほかに適当な理由が見当たらないからだ。恐らく母も共犯者なのだろう。姉には父に相談させ、父にこのような電話をかけさせる。結論は見えているのだから、我が家に特有の儀式に過ぎない。姉に無用のストレスを与えて(上乗せして)いることに、母も父も気づいていない。
 姉の部屋を経由することなく自室に戻り、現代文の素読を再開した。父からの電話は母に伝える必要もない。これまでもそうだったので、これは帰納的にも正しい。――間もなく姉が扉を開け閉めする音がして、リビングから(恐らくYouTubeと想像される)微かな音が漏れ聴こえてきた。明日朝はタクシーが(これまで幾度か指名してきた榎木さんが)エントランスの車寄せまで姉を迎えにくる。
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