§08 12/09 世の中に たえて吹雪のなかりせば(1)

文字数 3,565文字

 大学を卒業し極ふつうのサラリーマンになった暁には、二ヶ月に一度やってくる定期試験が消えてなくなると言う。俄かには信じ難い話だが、どうやら本当のことらしい。果してそれは歓んでいいものなのかどうか、正直ちょっと考えてしまう。むろん大人の世界にもこれに相応するなんらかの手がかかりが用意されているのだろうけれど、俺にはうまく想像することができない。定期試験がない世界というものの姿かたちについて、だ。
 昨日、細田にも伝えたように、最終科目の終了とともに、俺は紀平と生徒会室に入った。紀平には細田が訪ねてくること、この部屋を貸してもらいたいこと、そして細田がやってきたら紀平には席を外してほしい旨、すでに承諾を得ていた。不適切な使用は控えるように…と紀平から不必要な警告を頂戴した。生徒会室の奥座敷でそのようなバカな仕儀に及ぶやつはいないだろう。俺が請け合える話ではないけれど。
 細田は笑ってしまうくらい恐る恐るという感じで生徒会室に入ってきた。ひとしきり紀平と三人で終わったばかりの試験の話をした。やがて、紀平が嫌味も皮肉も交えることなく席を外した。俺はまるで、行きがかり上断り切れずちっとも金にならない仕事を請け負ってしまった哀れで醜い探偵のような顔を、細田に向けた。
 狭くて黴臭い場所で二人きりになるのは、これが初めてのことではない。そもそも俺たちは最初にそのような場所(体育倉庫)で出会っている。あそこは黴臭いと言うより埃っぽかったけれど。だが、あのときと比べても意味はない。俺はすでに余計なあれやこれやを知ってしまった後なのだ。
「悲鳴を上げれば紀平さんが駆け込んできてくれるんだよね?」
「さあ……。俺の知る紀平はそんなお人好しじゃないけどねえ」
「でも表から鍵をかけたりはしないでしょ?」
「あいつにとってはなんの得にもならないからな」
「損得を勘定した結果としてそうなのか……」
「なにをするにしても、なにをしないにしても、紀平には紀平なりの計算がある。偉い女がいたもんだよ。この程度の学校に通わせるのは気の毒だ、ほんと」
「三教科では七十超えてた、て噂があるけど」
「それは事実。本番に弱い。あるいは運がない。でも模試ではきちんと結果を残せてるわけだから、将来は決して暗くない。大人になれば試験なんてなくなる。実力がそのまま反映される。――まあそこにも運不運はついて回るんだろうけどさ」
「そう言えば袴田くんて去年から紀平さんと仲良しだった気がする」
「まあね」
「吹雪と幼馴染みなのに、平木とも友達なのに、紀平なんかと仲良くしてるとか、どれほど星の巡り合わせが悪いのか――」
「誰のセリフだ?」
「大迫くん」
「あとで絞め殺してやる」
 そう言えば大迫も去年は同じクラスだった。従って、これはどう言えばいいか、つまりは或る種の「予定調和」的なやり取りである。細田は俺の反応を予期することができたし、そこで上手に笑うことができるだろうと計算していた。ここ数日を振り返ってみても、なるほど細田とはこういう女だったのか…と、正直いささか虚を衝かれたし、内心では眉を顰め始めてもいる。幸か不幸か、俺は恐らく多くの男どもが知らない細田愛美を目の当たりにしてしまったのだろう。心を許したわけではあるまい。少しばかりコンタクトを重ねてきて、二人きりの空間につい気が緩んだのか、あるいは逆に極度の緊張状態に置かれ、気が張っているが故の失錯か、いずれかを疑うべきところかと思う。
「……袴田くん、ほんとはもう私のことなんて放っておけば大丈夫だろう、くらいに思ってたでしょ?」
 このように、細田というのは決して勘の鈍い女ではないはずなのに、どうして佐藤由惟ではしくじったのか?
「思ってたねえ。ところが俺の見てないところで俺にとっては一大事とも言うべき騒動が起きちまったもんだから、ひとまず最初のところから聞いとかないとマズそうだな、て思ってさ。それで細田にわざわざこんな黴臭い部屋までご足労願ったわけよ。――なあ、細田、本当はなにがあった?」
 しかし、こんなことを細田に言ったのは、完全に俺のほうの失策だったわけである。
「私のせいだよね。私が変なことしたから、それで吹雪さんと桃井さんが――」
「おまえのせい?」
 そう口にしたときもまだ、俺は自分がミスったなんて思ってもいなかった。
「俺が聞きたいのは佐藤の話だよ」
「由惟はもう関係ないでしょ? 私が袴田くんに助けてもらおうとしたから、それで吹雪さん怒って桃井さんに――」
「あれは違うんだ。茉央と桃井には積年の確執があってね、そいつがついに爆発したんだよ。細田は出てこないから心配しなくていい」
 真実を口にすれば物事が解決に向かうと考えるのは、あまりにナイーヴな発想に違いない。
「でも、私がきっかけで――」
「きっかけなんてどこにでも転がってるもんだろう?」
「でも……。じゃあ……」
 そこで細田の挙動が俄かに怪しくなり、俺はようやく己の言動を顧みることになる。――お馴染みの言い回しを持ち出せば、一瞬、表情が固まり、そいつを元に戻そうとしてうまくいかず、強張りつつ歪み始め、その間、視線が小さく所在なく泳いでいた。むろん、いくら顧みたところで、俺のなにが細田をそのように揺るがせることになったのか、俺にはさっぱりわからなかった。だから俺のほうでもいささか狼狽し、困惑したのだ。
 唐突に扉が開いたとき、紀平が向こう側で頬をくっつけるようにして聞き耳を立てていたのを、なぜか速やかに察知できた。なぜか?もなにもない、そのようなタイミングで、そのような顔をした紀平が、いきなり扉を開けたのだ。要は察しろ!という話である。文句は聞いてもらえないやつである。そして、なにやら呆然とする俺の目の前から、細田はあっさりと表に連れ出され、永遠にその姿を消してしまった。
 紀平が戻ってくるまで、ずいぶんと待たされたように思う。
「まあ、上出来と言っていいんじゃない?」
 この女はなにを言ってるんだ? なにのどこが上出来だって言うんだ?
「細田はこれで元居た場所に戻れると思うよ」
「なんでだ?」
「あれ? 袴田はそういうつもりでやってたんじゃないの?」
「そうだったけど、でも今の一幕はさ、なんか俺が間違った、て感じにしか見えなかったぜ?」
「結果が良好であっても、プロセスに問題があれば、あと味は悪いよね」
「だから、なにがどう悪かったんだよ?」
「細田をざっくり傷つけた、てこと」
「マジで?」
「女の子は意味もなく泣いたりしないもんだよ。みんな勘違いしてるみたいだけどさ」
「……細田、泣いたのか?」
「そりゃ、袴田にあんな言われ方したら泣くよね」
「俺さっきどんな言い方した?」
「黙れ、この勘違い女!」
「いやそんなこと俺は――」
「言ったよ。言葉遣いはなんだか気持ち悪いほど優し気だったけどね」
 マジでそうなのか……。俺って最低じゃねえか……。
「袴田さ、ほんと早く足洗ったほうがいいと思うよ」
「なにから?」
「だから、吹雪さんから」
「茉央?」
「世の中に たえて吹雪のなかりせば 悟朗の心は のどけからまし」
「稀代の色男を持ち出すなよ」
「いい加減うんざりしてるんでしょ? 知ってるよ」
 おいおい、なんだよ。そいつは知ってる人間が口にするセリフじゃないぜ。
「残念だが紀平、俺がうんざりしてるのは茉央じゃないんだ」
「まさか、平木さんのほう?」
「いいや違う。俺がうんざりしてるのはな――ははっ! そんなの紀平に言えるか!」
 紀平はしばらくじっと俺の眼を覗き込んだあと、特段これと言って表情も変えず(微笑みもせず、不満気な様子も見せず)、リュックから今日の試験問題を取り出した。紀平の問題用紙はいつも恐ろしいほど真っ白だ、配られたばかりのままに。自分がどう解答し提出したかは、すべてその恵まれた脳みその中に収まっているわけである。
 恒例の答え合わせが始まる。しかし今日は、すでに数学や物理が終わっているものだから、基本的に紀平が正解(まあ、ほぼ正解)を淡々と読み上げて、俺が呻き声を上げたり、ニヤリと笑みを漏らしたり、慌てて解説を求めたり、そんな一時間足らずのやつである。ふだんはカフェテリアでやるから、誰かが覗き込んできたり、気になる科目の気になる問題を尋ねてきたり、そんなことが起こるのだけれど、この日は生徒会室の奥座敷なもので、割り込みもなくさっさと終わった。
 紀平が内藤を退けて首位に返り咲けるかどうかは知らない。が、俺のほうは思いのほか期待できそうだ。あれこれ面倒くさい出来事が重なったというのに。あるいはそんな状況下で受けるほうが、試験というのは結果がよくなる傾向でもあるのか。薄味な新書を何冊も出している優秀な心理学者なら、巧みな説明を持ち出してくれるだろう。
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