2.残り4億円と20日

文字数 5,358文字

 腐った果実の様な色に染まった太陽が、ビル街の狭間に沈んでいく。
 外回りに出ていた営業が全員帰店。同僚達が稟議書などの事務仕事に追われる中、僕は机に広げていた債権書類を片づけ始めた。
 時刻の針は十八時を指していた。僕は退行するため、机を施錠して立ち上がる。隣の席の部下、桜木が意外そうな顔をする。
「神沢調査役。最近、帰るの早いですね。一つ相談したい案件があったんですが……」
「すまん。 ちょっと今日は妹の用事があって帰りたいんだ。明日の朝にしてもらえるか?」
 そう言って桜木に後手を振り、僕は営業室を後にした。他のフロアでは同僚達がまだ仕事に追われて右往左往している。ほぼ定時で退行する僕に、若干の非難を含んだ眼差しが向けられるが涼しい顔で流す。僕は今月の融資目標を既に達成しているし、やるべき仕事も全てこなしている。非難を受ける筋合いはない。それに妹と比べれば、こんなゴミみたいな仕事はどうでもいい。
 支店を出て、僕は千葉駅付近の雑踏を縫い歩く。JR総武線を利用して船橋へ移動。目的の居酒屋の個室に入ると、そこには先客がいた。それは中肉中背、坊主頭の青年で、薄暗い室内にも関わらずサングラスをかけている。見る度、僕はその風貌に違和感を覚える。この青年には右腕がなく、要するに隻腕だった。その青年の名を、僕は佐々木太郎と聞いているが、もしかすると偽名かもしれない。
 片方しかない腕でビールを煽る佐々木は、僕を見るなり明るい調子で言う。
「よぉ神沢さん。遅かったじゃねーか。来るの遅いから、先に飲んでるぜ?」
「別に構わないさ。正直言うと、僕は酒が嫌いでね」
 佐々木がビールを吹き出し、ゲラゲラと笑う。
「はぁ? 酒が嫌いだぁ? こう言っちゃなんだが神沢さん。人生を八割は損してるぜ?」 
「……酒が飲める、というのは人生において、そんな大事なことなのかい?」
「いや違う。酒自体が大事な訳じゃねーよ。酒っていうのはな、世代や立場を越えて誰とでも仲良くなれる、うってつけのコミュニケーション・ツールなんだよ。そういう意味で、そのツールが使えないってことは人生損してるって訳だ。俺はそう言いたいんだよ。少なくとも酒が嫌いだと、この社会では不利だ。神沢さんよぉ、おわかり?」
 反論せず僕は黙った。佐々木は続ける。
「第一、銀行員っていうのは酒が呑めないと出世できないんじゃねーの?」
「……そんなこともない。仕事ができればちゃんと出世できる。現に僕は、酒は飲めないけど同期の中で出世が一番早いんだ」
 佐々木が人の悪そうな笑みを浮かべる。
「出世ねぇ。くだらねーな。定年したら消えてなくなる肩書きなんて、どうでもよくねーか? どれだけ頑張って偉くなっても、ジジイになったら昔は偉かった、ただプライドの高い面倒な爺さんだぜ?」
「……君の言いたいことは解るけど。この社会では、ひたすら出世を目指して馬車馬の如く働くというのが、概ね正しいとされているんだよ」
「なんだそれ。ただの奴隷じゃねーか。アンタは奴隷だったのか?」
「そうだね。僕は社会の奴隷だ。ただ、奴隷であることは君も変わりない。自身の欲望のためなら人をも殺す。そんな生粋の犯罪者である君は、欲望の奴隷だよ」
「言うねえ、神沢さん。確かにそうだな。俺もアンタも、足枷のついた奴隷だったか。いやはや、くだらねー話だな」
「そうだね。ゴミみたいな話だね」
 僕はそう相槌を打つ。すると佐々木がビールを飲み干して、ジョッキの底で机を叩いた。机に設置されているコンソールで新しいビールを注文する。
 新しいビールが運ばれてきた後、僕は本題を切り出す。
「昼間の件はどうだった? 問題はなかったかい?」
 佐々木が肩をすくめる仕草をする。
「……問題があるも何も。棺桶に片足突っ込んだ婆さんから金を奪う仕事だ。これ以上簡単な仕事もねーよ。一千五百万ゲットだぜ」
「そうかい。それは良かった」
 僕の向かいでビールを呷る青年、佐々木太郎は平たく言えば、僕の共犯者だった。元指定暴力団幹部であり、殺人や窃盗の罪で重要指名手配被疑者となっている生粋の犯罪者だ。僕とは生きる世界の違う人間である。南条の紹介がなければ、一生知り合うことはなかっただろう。
 佐々木は暴力団の抗争で失った右腕を医療で取り戻したいらしく、僕と同様に莫大な金が必要だった。目的が一致していた僕達は共謀し、倫理を投げ捨て金策に走っている。銀行員の立場を利用した僕が情報を提供し、主に佐々木が実行犯として動く。二人で八億円稼ぎ、四億円ずつ山分けをする約束となっていた。性格も価値観も全く違う僕と佐々木だが、不思議と気はあった。
 僕は妹のために、何としても一ヶ月で四億円を用意しなければならない。妹を救うためなら、僕は何だってする。何人殺す事になろうとも。例え地獄に落ちることになろうとも、僕は妹だけは救う。
 水で喉を湿らせた僕は訊く。
「そういえば先週渡したリストはどうだった?」
 先週、僕は佐々木にあるリストを渡していた。それは帝陽銀行千葉支店の大口預金者のリストである。氏名、年齢、住所、預金残高が羅列した五千件ほどの個人情報だ。どこかの強盗集団などに売り飛ばせないかと考え、佐々木に渡していたのだ。
 佐々木が、ふと思い出したかの様な顔をする。
「あぁ、あのリストか。あれよ、結構良い値段で売れたぜ。あれだけで五千万円になった」
「……かなり高値で売れたね。どこがそんな高額で買ったんだ?」
「俺の古巣、つまりは暴力団が管理する振込詐欺グループだよ。俺の舎弟がいるグループがいくつかあってよ。それぞれに一千万で売ったら五千万になった。これでまた頑張って詐欺に勤しむって、喜んでたぜ」
 確かに振込詐欺グループならば、喉から手が出るほどほしい情報だろう。
 これまでは考えたこともなかったが、まさか銀行の取り扱っている情報が、これほど反社会的勢力に高く売れるとは思わなかった。個人情報、預金情報の横流しはこれから力を入れていっても良いかもしれない。 
 佐々木は肩を竦める。
「正直、銀行の持ってる情報が、ここまで犯罪と親和性が高いとは考えもしなかったぜ。とりあえず、ここまでがデモンストレーションだ。念のため改めて確認なんだが、神沢さんが銀行の情報を流して、俺がそれを犯罪に使って金を稼ぐ。これで八億円稼いで、俺と神沢さんで四億円ずつ分けるって話でいいか?」
「ああ、当初の話通り、それで構わない。ただ一つ条件がある」
「いや神沢さん。わかってる、わかってるって。稼いだ金は先に神沢さんの四億円に充てろって話だろ? まー神沢さんの妹の話は、南条センセーから俺も訊いてるからな。そんぐらいは呑んでやるよ」
 僕は嘆息し、計画について補足する。
「それで金を稼いだ後、僕は妹を救って日常へ戻る。それで君は術後に金を持って海外へ逃走。それが僕達のゴールだ」
「要するに、俺が全ての罪を被って外国へ逃げるって話だろ。まーそれでいいぜ。俺も今更、一つや二つ前科が増えたところで気にしねーよ。……そういや神沢さんさ、一つ訊いてもいいか?」
「なんだい?」
「二人で八億円稼ぐって話なんだが、神沢さんは銀行員な訳だろ? 銀行強盗しちまうのが手っ取り早いんじゃないのか?」
「……結論から言うと、今僕が配属されている帝陽銀行千葉支店には、現金で八億円も置いていないんだよ」
「そうなのか? なんか銀行ってすげー金庫に金を入れてあるイメージがあるんだけどよ」
「店に現金を置いておくというのは、それだけでリスクだからね。余剰な現金は、支店には置いていないんだよ。帝陽銀行千葉支店に置いてある現金の平均残高は大体三億円ぐらいかな。一応、最期の手段として銀行強盗も検討しているけど、銀行強盗はリスクが高すぎる。すぐに警察に追われる事になるしね」
「まー確かに、銀行強盗よりも年寄りを狙って強盗した方が、全然リスクも難易度も低いわな。俺は金を稼いだ後に手術を受けないといけないし。それとさ、神沢さんが客の定期預金とか横領しちまう……って案はどうなんだ? バレずに金を横領できるなら、そっちのほうがよっぽど早いと思うんだが」
「今はどこの金融機関も不祥事件防止の方策をとっている。基本的に横領しても、必ずバレる様になっているんだ。それをやると、金を稼いだとしても僕が日常回帰する事ができないからね」
「つまり神沢さんは、自分は犯罪者になりたくないと。そういうことなんだな」
 僕は答えない。暫くして佐々木が続ける。
「まーそれでいいぜ。構わない。俺としても、こんな美味しい話はないからな。とりあえずこれが今までの分だ。全部で一億円。明日に南条センセのところへ行くんだろ? ついでに持ってってくれよ」
 言いながら佐々木が、机の上にアタッシュケースを置いた。僕はその中身を確認する。中には帯のついた現金が詰め込まれていた。全部で一億円。僕が情報を流し、佐々木が現金を強奪する。この手口を、僕と佐々木は既に何回も成功させている。それと預金情報のリストの売上を合わせて一億円だ。残りは三億円。南条に言われた期日までは残り二十日しかなく、急がなくてはならない。アタッシュケースを手にした僕は席を立つ。
「ありがとう。また明日、連絡するよ」
 すると最後に、佐々木が僕の背に言葉を突き刺してくる。
「神沢さん。大丈夫だとは思っちゃいるが……俺を裏切るんじゃねぇぞ。その時は、どうなるか分かってるよな?」
 興味が湧き、僕は頭だけ振り返る。
「……今のところその予定はないけど。君がいないと、この計画は成り立たないからね。ちなみに興味本位な質問なんだけど、僕が裏切ったら、その時はどうする? 僕を殺すかい?」
「いんや、アンタは殺さねえよ。その代わりに、アンタの妹を殺す。容赦なく無残に惨たらしく絶対に殺す。そこんとこ、よーく覚えとけよ」
 冗談の欠片も含まない目で、そう告げてくる佐々木。僕は返答せず、今度こそこの場を立ち去った。



 翌日、起床してから思い出すが、僕は本日半休をとっていた。つまりは午前中だけ有給をとっていて、午後からの出勤である。なので昨日の桜木との約束を、反故にすることになる。
 桜木は入行三年目の若手だ。まだまだ融資知識も浅く、部下指導と称して若手を詰めたがる上司から標的にされることも多い。この僕の反故で、桜木が上司から怒られることになっても後味が悪い。他のベテランの同僚にスマホで連絡をとって桜木の件を頼みつつ、僕は東銀北総病院へ向かう。
 総合窓口の職員は僕の顔を見るなり、
「南条先生なら、いつもの医局にいますよ」
 と告げてきた。
僕は苦笑する。最近は週に三回ぐらい訪れているため顔を覚えられている様だ。
向かうは東銀北総病院、本館三階の医局。南条はこの病院の名物医師のため、医局の一部屋を一人で使っていた。僕は予備校の講義室の様な、無骨な扉を開ける。
 椅子の背もたれに掛けられた白衣。散乱する医療関係の書類。机の上には、食べ終わったカップ麺がそのままとなっている。そして部屋の中央には不清潔そうなソファ。そこには夜勤明けと思しき南条が倒れていた。意識があるかどうかは解らない。
「……南条。起きてるか?」
 僕が控えめにそう声を掛ける。すると弾かれた様な勢いで、南条が上半身を起こす。そして掠れた声を出した。
「神沢か。いま、何時だ?」
 一拍の間をおいて、僕は応じる。
「午前九時だけど……」
 それを聴いた南条は、目頭に手を当て、深い溜息を吐く。
「……今日は午後に、三件オペがあるんだ。寝過ごしたかと思った……」
「なんか疲れてるみたいだけど、大丈夫かい?」
「最近帰れなくてちょっと疲れ気味だな」
「南条は学生の頃からそうだけど、いつも疲れてるね。そんなに生き急いでいると、早死にするよ」
 南条が鼻で笑う。
「俺はどちらかというと、早く死んで楽になりたいと考えている人間なんだ。所謂、死に急いでいる人間でね。早死は望むところだ」
「……どうでもいいけど。死ぬなら僕の妹を救ってから死んでくれ」
「あぁ、それは任せろ。これでも俺は花火ちゃんのファンでね。花火ちゃんの次回作を見るまでは、死んでも死にきれない。……で、神沢。金の方はどうだ?」
 そう言われ、僕は持参したアタッシュケースを南条に手渡す。南条がケースを開けるのを待って、僕は言う。
「全部で一億円入ってる。数えてほしい」
 僕の言葉に、南条が苦笑する。
「無茶いうな神沢。一億円なんて、医者の俺が数えてたら日が暮れてしまう。佐々木なら疑ってかかるが、銀行員のお前が持ってきたんだ。金額については信用するよ」
 南条は部屋の奥にある金庫にアタッシュケースを入れて施錠する。そして手をはたきながら口を開く。
「とりあえず一億円あれば手付金が払える。これで競りのテーブルに乗れるな」
「競り?」
「そうだ。花火ちゃんと面会していくだろう? 歩きながら説明するよ」
 そして南条は立ち上がり、大きく伸びをした。
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