序章 残り4億円と31日

文字数 4,623文字

「私達に身近で、最も邪悪な犯罪のできる仕事。それって、どんな職業だと思う?」
 
 妹の花火が、唐突にそんな事を言い出した。それは駅前を散歩していた最中の出来事だ。
 凍る様に澄んだ空。朝焼けに飲まれる金星。氷水の様な風が駆け抜け、銀杏の葉が舞い上がる。コンビニから漏れる蛍光灯の光が、沈殿する様に歩道を濡らしていた。土曜の朝のためか、周囲に人気はない。僕は凍えた両手をもみ合わせながら、
「……そうだな。警察官とかは、どうだい?」
 と応じた。僕の前を歩く花火は、艶やかな黒髪を揺らしながら振り返る。そして悪戯っ子の様な表情になる。
「また随分とつまらない回答ねぇ。さすがは私の兄さんだわ」
「そうかな? 警察官なら拳銃も使えるし、犯罪をもみ消したりもできる。かなり悪いことができると思うんだけど……」
「確かに警察も悪くないとは思うけど。警察小説なんて、今や世に溢れて飽和状態でしょう? 私が求めているものは、もっと斬新で、奇抜で、世間で言うところの売れ線を無視した発想なのよ」
 ここでようやく、僕は花火の意図を理解する。要するに花火は、小説のネタを考えているのだろう。僕の妹、神沢花火は昨年、有名な小説新人賞を受賞した作家だ。出版不況が叫ばれる昨今にも関わらず、デビュー作はそこそこ売れた。僕が訊いている話だと、現在、担当編集者と共に二作目のプロットを練っている状況らしい。
 花火の意図を汲み、僕はもう一度思考を巡らす。しかし僕の頭はこれ以上のアイディアをひねり出せなかった。非凡な花火とは違い、僕は平凡だ。帝陽銀行に勤める、普通のサラリーマンである。しばらく僕が答えを出せず唸っていると、花火が儚い微笑みを浮かべた。そして僕に意味深な目を向けてくる。
「ねえ兄さん。『銀行員』っていうのはどうかしら? いつも兄さんの仕事の話を聞いていると……銀行員って、下手な探偵よりも推理劇ができると思うし、下手な犯罪者よりも、禍々しい犯罪ができると思うのよ」
「そうかな」
 そう言われても、実際に銀行員である僕にはピンとこない。昔からそうだが、僕は偶に花火の思考を理解できない事がある。同じ世界にいるはずだが、恐らく僕と花火が視ている光景は違う。そう思わずにはいられなかった。
 花火が口元に両手をあて、指の隙間から白い息を吐き話題を変える。
「冬が近いこともあって、早朝はさすがに寒いわね。散歩は、もうちょっと日が昇ってからにした方が良かったかしら」
「……そもそも、なんで僕達はこんな寒い時間に散歩に出たんだ? 何か目的があったんじゃないのか?」
 僕は花火に懇願され、この散歩に付き合っているだけだ。散歩に出たいと言い出したのは、他ならぬ花火である。なので、花火には何か目的があるはずだ。
 花火が人差し指を口にあて、僕を上目遣いに見る。
「そうねぇ。強いて目的があるとすれば、いつもとは違う環境でプロットを考えたかった事と……」
 そう言い花火は不意を打つ様に、僕に抱きついてきた。そして続ける。
「……兄さん寒いから暖めて? なんて言って抱きつきたい気分だったかしらね」
 僕の腹に頭をぐりぐり押しつけてくる花火。僕はどこか重い溜息を吐いた。
「花火、お前さ。こんなことやってるから、高校三年になっても彼氏の一人できないんだよ……。早く、兄離れしてほしいな」
「あら。兄さんこそ妹とこんなことをやっているから、彼女の一人もできないのよ。妹離れするべきだわ」
 そう言われてしまうと、僕は何も反論できない。最近考えてしまうのだが、兄妹で仲が良すぎるというのも、どうなんだろうか。お互いに婚期が遅れそうな気がしてならない。
 両親は僕達が幼い頃に他界している。もしも両親が存命していて、この光景を見たら何と言うだろうか。想像もできない。いずれにしても僕は、もう少し妹を突き放すべきなのだろう。しかし僕にはそれができなかった。
 僕は目の前の艶やかな黒髪を撫でる。すると花火は、はにかんだ笑顔を浮かべた。 
 花火は、僕の唯一の家族だ。両親がいないため、僕が代わりに生活費を稼がなくてはならない。できることなら、花火を大学へ行かせてやりたいし、奨学金なんて借金を背負わせたくもない。何としても大学卒業までは、僕が花火を守らなければ。三十年近く生き、僕は自分の才能の限界に気づいてしまっていた。僕は恐らくこの先も、どこへも行けないし、何者にもなれない。しかし花火は違う。花火には、小説という才能があった。だからこそ花火には僕の分まで、遠くへ行き、何者かになってほしいと思う。僕はもう、自分の未来に興味はない。ただひたすらに、花火の将来だけが楽しみだった。 
 
 
 その連絡は、僕が大口融資先を訪問していた時にあった。豪奢な応接室で社長を待っていると、背広の胸ポケットでスマートフォンが振動する。電話の様だが、客先であるため僕は無視した。社長との面談が終わった後に、掛け直せば良い。 
 スマートフォンのバイブレーションが続く。電話をかけて三十秒ぐらいで相手がでなければ、普通は諦めると思うのだが……この電話の主は諦めない様子だった。三分ほどスマートフォンが震え続けたところで、ようやく僕は、それが緊急の連絡ではないかと思い始める。
 嫌な予感がする。
 未だ応接室に社長が現れる気配もなく、僕は電話に出た。電話越しの相手は、救急隊員だった。
 神沢花火さんが事故に遭い、病院に搬送された。すぐに搬送先の病院へ行ってほしい。
 要約すると、その様な内容の電話だった。最早、仕事なんてどうでも良い。いても立ってもいられず、僕は全ての仕事を同行していた後輩に任せ、タクシーを拾って病院へ向かう。 
 病院に着くまでの間、ひたすら頭の中に噴出する真っ黒い焦燥感に耐える。こんな時、何をしていいのか解らない。不幸中の幸いか、搬送先の東銀北総病院には大学時代の友人が外科医として勤務していた。花火とも面識があり、人格的にも信頼できる。もしかすると良く取り計らってもらえるかもしれないと考えて、僕はその友人、南条柊に電話する。
 連絡は直ぐにとれた。今日は当番で出勤しているらしい。事故の話をすると、南条は若干驚いていたが、
「本当か。ふん……特に救急の話は知らないが。まあ丁度、俺は手が空いてる。何とかしておいてやるから、お前はゆっくり来い。慌ててお前まで事故るんじゃねえぞ。急患は何人も受けられないからな」
 と電話越しから頼もしい言葉が返ってきて、僕は少し安堵の息を漏らした。南条はテレビ番組などで、スーパードクターなどと言ってもてはやされている外科医だ。その南条に診てもらえれば、間違いはないだろう。
 その後、タクシーで揺られること一時間。ようやく僕は、東銀北総病院へ到着。総合病院に相応しい巨大な玄関扉をくぐり、僕は総合受付に駆け込む。すると総合受付の職員に病院の奥の方へ案内される。明らかな関係者用の通路だ。一般人の姿はなく、たまに医師や看護師とすれ違う。暫く歩いたところで、僕は真っ白な廊下の先に知った顔を見つけた。南条柊である。隣には看護師らしい女性の姿もあった。
 息を切らせて駆け寄ると、南条はあからさまに僕から視線を逸らした。そして酷く淀んだ声を吐く。
「……すまん、神沢。……駄目かもしれない」
 意味が理解できず、僕は言葉に詰まった。すると看護師が南条に向かって口を開く。
「ご家族がいらっしゃった様ですので、私は先に行きます。もしも延命――――」
 ここで看護師は軽く咳払いをした。そして言葉を直し、続ける。
「――――もしも治療するのであれば、ご一報下さい。用意します」
 そして看護師は、僕と目も合わせず背を向けて立ち去った。胸中に渦巻くの真っ黒な焦燥感が弾け、僕は南条に詰め寄る。
「南条ッ! どうなっているんだ! 花火は無事なのか!?」
 その問いに、暫く南条は沈黙。ややあって、重い口を開く。
「……自動車事故で、いわゆる脳挫傷というやつだな。現在ICUに入っている」
 少し的の外れた回答だった。僕は苛立ち、思わず南条の胸倉を掴む。
「僕は、花火が無事なのかどうかを聞いているんだッ! どうなんだよッ!?」
 依然として南条は僕から視線を反らしたままだった。そして覇気のない言葉を紡ぐ。
「……酷い事故で状態が酷い。意識不明。回復の見込みはない」
「だから僕は、花火が無事かどうかと聞いてッ――――」
 すると南条が突然、目を見開いた。そして僕の胸倉を掴み、怒号をあげる。
「だから無事じゃねぇって言ってんだろッ!? いいか神沢、もう一度言うぞ! 回復の見込みはない。花火ちゃんは、脳死状態だ!」
 その言葉が耳に入った瞬間、全身から力が抜け僕は床に座り込んだ。何も考えられない。最後に僕が花火を見たのは今朝だ。僕が行ってきます、と言うと、花火は寝ぼけ眼を擦りながら、行ってらっしゃい、と言って、はにかんだ笑顔を浮かべていた。考えれば考えるほど、僕の脳裏には花火の笑顔が浮かぶ。おかしい。何故、花火が事故に遭うのか。人間は他にも沢山いたはずだ。よりにもよって、どうして花火なのか。何故、僕ではないのか? どうせ死ぬなら、将来が羨望できる花火よりも、未来も何もない僕の方が良い。僕が代わりに死んだ方が、ずっと良い。
 何でだろうか。どうしてだろうか。気がつけば、僕は泣いていた。そして何かが崩れ去る様に、言葉にならない慟哭が僕の口を経て漏れた。暫くして、頭上から南条の言葉が降ってくる。
「……神沢。とりあえず座れるところに移動しよう。落ち着いたら、花火ちゃんと面会させてやる。…………それで心の準備が出来てからで良い。延命治療か、尊厳死か。花火ちゃんをどうするか、考えてほしい」
 身体に力が入らず、僕は動けない。南条に肩を貸してもらい、僕は歩いた。病院の真っ白い廊下に足音だけが響く。泡の様に浮かんだ言葉が、思わず僕の喉元を経て出る。
「……なぁ南条。なにか方法はないのか? ブラックジャックって漫画あるよな。ああいう天才医師なら何とかできるみたいな。そういう話は、ないのか?」
 その問いに、南条は無言だった。僕は譫言のように続ける。
「お前も知っている通り、花火は作家でさ。僕とは違って将来があったんだよ。僕みたいな何もできないつまらない人間とは訳が違うんだ。僕が花火の代わりに死ねる様な、そういう話は何かないのか?」
 南条は何も喋らない。暗い底なし沼に石を投げこむ様に、僕は懇願を続ける。
「僕は自分の事なんてどうでもいいんだよ。とにかく花火のことが大事なんだ。何か方法があったら教えてくれ。高度先端医療とか、そういうので何とかならないのか? 頼む南条。何でもいい。花火を救う方法があるのなら教えてくれ。金が必要なら、いくらでも用意する。だから南条、頼むよ――」
 すると南条が突然、足を止めた。そして半眼となり、僕を探るような目を向けてくる。
「……方法がない訳では……ない。花火ちゃんを救う方法は、ある」
 予想外の返答に僕は固唾を呑んだ。南条が僕の両肩を掴み、そして告げた。
「神沢、四億円だ。……一ヶ月で用意できるか?」 
 その問いへの返答は、考えるまでもない。

 だから僕は、即答した。
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