14.残り2億円と15日  

文字数 3,828文字

 蜥蜴の尻尾切り。外敵に襲われた際にトカゲが、尻尾を切り捨てて逃げる様からきている言葉だ。当然、僕も子供のころにトカゲがそうして逃げるのを見た事がある。
 しかし、どうだろう。最近の若い人は、それを見た事があるだろうか。もしかすると見た事がないかもしれない。少なくとも僕は、ここ何年もトカゲなんて見ていない。


 悠長に仕事をしている様な状況ではなかった。ここまできてようやく、僕は理解したことがある。それは何事もタイミングを見誤ると、もう取り返しがつかないということだ。佐々木と連絡を取り終えると、僕は仕事を桜木に任せて退行する。
 一度自宅に戻り、私服に着替えた。そして車で待ち合わせ場所の船橋へ向かう。いつも佐々木と打ち合わせで使っている居酒屋である。駅から程遠い、路地裏の一角。周囲には人の気も、防犯カメラもない。店内の客入りもなく、経営が成り立っているとは思えない。恐らくはもう、経営者が趣味と惰性で開けている店なのだろう。
 居酒屋の手前の道路に路上駐車し、僕は車を降りた。そして居酒屋に入る。すると、いつもの席に佐々木は居た。佐々木が軽く手を挙げてくる。
「お、神沢さん。今日は背広じゃないんだな?」
 問われ、僕は佐々木の向かいに座りながら応じる。
「……今日は少し早めに終わったんだよ。だから一度、家に帰ってから来たんだ」
「なんか銀行員って、いつも帰宅が遅いイメージがあるけど。なんだかんだで、早く帰れる日が多いのか?」
「そうだね。昔と違って、今は退行時間も五月蠅いからね」
「へぇ。サラリーマンはいいねぇ」
 少し会話を交すが佐々木に変わった様子はない。どういう状況となっているか、まだ知らないのだろう。
 その後、何時も通り佐々木と打ち合わせを行う。取り付け騒ぎの件は僕が準備を進め、その間に佐々木は先日下見に行った事業所へ盗みに入る話となった。
打ち合わせを手短に済ませ、佐々木がビールを注文した。それに習って、僕もビールを頼む。すると、佐々木が意外そうな顔をした。
「あ? 神沢さんが酒を注文するなんて珍しいな。どうした。何かあったのか?」
「……そもそも僕は酒が嫌いなだけで、飲めないとは言ってないよ。僕にも飲みたい日ぐらいあるんだ」
「ひひっ、なんだか良くわからねーが。こりゃ明日は雪でも降るんじゃねーか」
 それ以上、佐々木は追及してこなかった。
 この酒は、僕なりの発破掛けだ。僕は酒が嫌いである。何が旨いのかが理解できない。なので仕事や付き合いなど、どうしようもないとき以外は酒を飲まない。
運ばれてきたビールを、佐々木との乾杯でジョッキ同士をぶつける。そして僕はビールを一口含む。口内に麦芽の、苦い味が広がった。
 不味い。何故こんな液体を、皆ありがたがって飲んでいるのか。僕には心底理解できない。現実から逃避するためアルコールに酩酊を求める。それは理解できる。しかしそうではなく、酒の味自体を旨いという人間を僕は理解できなかった。
 僕は訊ねる。
「なぁ佐々木。酒って結局、何がいいんだい?」
 ジョッキを机に置き、佐々木が腕を組む。
「あー……そう改めて聞かれると解答に困るんだけどよ。そうだな。強いて言えば、あの苦みが美味しいんだよ」
「それが良く分からないんだ。苦いというのは、不味いってことではないのかい?」
「……なんて言うんだろうな。酒ってのは確かに苦くて、不味いんだよ。ただそれに慣れて鈍感になってくると、その中にある甘さとか美味さに気づくんだよな。まぁあれだよ、神沢さん。酒ってのは人生と一緒なんだよ。基本は苦くて、その中に少しだけ甘さがあればいいんだ。そう思わねぇか?」
 言い終えて、ゲラゲラと笑う佐々木。僕には良く分からない回答だった。
 僕と佐々木は二杯、三杯とビールを飲んだ後、会計を頼んだ。席を立つ寸前に佐々木が言う。
「しかし、さっさと後二億円稼がねーとな。そうじゃねーと、いつまで経っても俺の分が稼げないじゃねーかよ。取り付け騒ぎでも銀行強盗でも何でもいいから、早く頼むぜ。神沢さんよぉ」
「……あぁ、頑張るよ。金を置いとくから、会計は頼んでいいかい?」
「お、今日は神沢さんの奢りか? それなら会計ぐらいやっとくよ。いや、わりーな」
 上機嫌の佐々木から視線を逸らしながら万札を置き、僕は席を離れた。そして先に店の外へ出る。
 空を仰ぎ見ると、月は雲に隠れていた。そのため月光は僕に届かない。どろりとした闇が犇めく路地裏。駆け抜けた一陣の夜風が僕の髪を撫でる。
 都合よく周辺に人影はなかった。そもそも、この店を利用して周辺に人の姿を見たことは一度もなかった。僕は急いで近くに駐めてあった車に乗り込んだ。シリンダーに鍵を挿して回し、エンジンをかける。そしてハンドルを握ろうし、手汗で手を滑らせた。
 これは全て妹の、花火のためである。自分にそう言い聞かせて深呼吸し、僕は改めてハンドルを両手で掴んだ。
 僕は虎視眈々と、その時を待つ。
 少しして居酒屋の扉が開き、佐々木が姿を見せた。
 躊躇いなく、僕はアクセルを思いっきり踏み込んだ。車が急加速し、僕は重力でシートに押さえつけられる。佐々木が目を見開き、僕を見た。その刹那、僕と佐々木の目が合う。
 次の瞬間、車が佐々木を盛大にはねた。重い衝撃。ハンドル越しに感触が伝わってくる。ブレーキを掛けて止め、僕は車から降りた。そして後ろを振り返る。
 道路に残るブレーキ跡。アスファルトの上に打ち捨てられるかの様に、佐々木が倒れていた。
 少しの間、僕は佐々木を観察する。ぴくりとも動かない。やがて佐々木を中心に、血溜りが形成されていく。
 何も思うところはない。そして考えている時間もなかった。僕は事前に考えていた通り、次の行動に移る。
佐々木の死体を何とかしなくては。そう考えて微動だにしない佐々木に歩み寄った、その時だ。突然、佐々木が動き出した。掠れた咳をしながら、佐々木が血と言葉を吐く。
「……神沢、てめぇええええ……。裏切りやがったなッ。何故……だッ!?」
 地獄の底から響くような声だった。
 僕は、ぎょっとして後ずさる。車にひかれた衝撃で、佐々木の胸部は陥没していた。もはや原形を留めていない。そして右足はありえない方向に曲がり折れている。まだ生きている様だが、もう脅威とはならないだろう。
 そう判断して僕は応じる。
「君にやってもらった侵入強盗がバレたんだよ。それで西行寺に君が割れたんだ。僕は君を殺してでも妹を助けたい。許してくれとは言わないけど。悪いね、佐々木」
 佐々木からの反応はなかった。もしかすると、僕の言葉を聞き終える前に息絶えたのかもしれない。誰かがこの騒ぎに気づき、駆けつけてくる前に終わらせなくては。僕は後始末をすべく、ぶっきらぼうに佐々木に手をのばした。
 が、その時だった。佐々木の腕が動き、僕の足首を掴んだ。そして佐々木が咆哮する。僕は足首を引っ張られ、力尽くで引きずり倒される。
 まさか、まだ生きているとは。痛みを感じつつも僕は驚愕する。
 僕と入れ替わる様に、佐々木が立ち上がった。明らかに折れている右足。それを強引にアスファルトの上に立たせている。そして陥没している胸部からは、噴水の様に血が迸っていた。
 雲が風に流され、周辺に月光が差し込みはじめる。月明かりに照らされた佐々木の姿は、もはや生者のそれではない。まさか佐々木が起き上がってくるとは思わなかった。
 僕を見下ろす体勢の佐々木が、ジャケットから肉厚のナイフを取りだした。佐々木が隻腕の手を振り上げる。僕に向かい、振り下ろされるナイフ。反射的に僕はアスファルトの上を転がって躱した。少し距離をとって起き上がりながら、僕は皮肉げに言う。
「なぁ佐々木。話と違うだろ。……僕が裏切った場合、花火は殺すけど僕は殺さないって話じゃなかったか?」
 佐々木が口元を動かした。恐らくは嗤おうとしたのだろう。しかしそれは叶わず、周辺に血を撒き散らすだけに終わる。
「……ひひっ、確かに、そんな話も、あったな。……くだらねー話だな」
「そうだね。ゴミみたいな話だね」
 再び佐々木が僕に向けてナイフを振りかぶる。ただ、その動きは非常に緩慢だ。先程は驚いたが、佐々木は既に虫の息である。落ち着いて僕は、振り下ろされたナイフを手で払った。ナイフが落下し、アスファルトの上を滑っていく。
そして僕は佐々木を突き倒す。呆気なく佐々木がアスファルトに沈んだ。早く仕留め、終わらせなければならない。僕は落ちたナイフを拾い、佐々木に歩み寄る。
 そして最後に、佐々木が皮肉げに言う。
「……ったく……銀行員なんか……信用するんじゃなかった、ぜ……」
 それを聞いて僕は思わず吹き出しそうになる。
「今頃気づいたのかい? 銀行員なんか信用してたら、どんどん貸し込まれるよ。それで。気がついたら。終わりだ」
 佐々木は痙攣し、ぴくぴく動いている。これじゃまるで切り捨てられたトカゲの尻尾だな……と内心で思いながら、僕は佐々木の胸部目がけて、肉厚のナイフを振り下ろす。


 特に感慨はない。殺した相手は善良な一般人ではなく、極悪の犯罪者だ。
 そう考えると、むしろ僕はこの社会にとって良いことをしたとも言える。
 僕は前向きに、そう考える事にした。
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