1.残り4億円と20日  

文字数 2,705文字

 ――なぁ、『生きるために食べよ、食べるために生きるな』って言葉を知ってるか?」

 それはSNSで、僕のアカウントに届いていたメッセージだ。
 差出人は共犯者から。
 出勤途中の満員電車に揺られながら、僕はスマートフォンを操作し返信する。

 ――さぁ? 聞いたことないな。

 すると、すぐにメッセージが返ってくる。

 ――ソクラテスの名言だよ。生きるために仕事をするべきであって、仕事をするために生きる訳じゃないって意味だ。なんつーかさ、銀行員のお前を見てて思ったんだけどさ。サラリーマンのお前より、犯罪者な俺のほうがよっぽど人間らしいよな。そう思わねぇ?

 午前七時三十分。僕、神沢武志が勤務先の帝陽銀行千葉支店に到着すると、行員用出入り口付近に背広を着た男達が待機していた。この支店に配属されている、僕の同僚達である。昨今の金融機関は入店時間と帰店時間が厳しく管理されており、出勤は午前八時以降と定められていた。つまり彼らは八時丁度に店へ入るため、三十分前から支店の前で待機しているのだった。普通に考えれば八時以降に出勤すれば良いだけの話だが、そこを三十分前から店の前で待機するのが銀行員という人種だ。この現代社会においても、金融機関は未だ滅私奉公で回っている。この間抜けとしか言いようのない光景に、僕は思わず溜息を吐いた。
 八時となり、髪の薄くなった副支店長がカードキーを通して行員用の出入り口を開ける。その後、役職順に支店へと入る。軽い掃除の後、巨大な金庫室を開鍵。中から書類を取り出し、行員それぞれが開店準備を進める。
 テラーの女性陣が忙しなく重要書類を手に右往左往する。と、入行一年目の女の子が躓き、個人情報の塊である書類を床にぶちまけた。目ざといお局の預金役席が、何故転んだのか? 等と、その女の子を朝からヒステリックに怒鳴り散らす。指導を大義名分とし怒鳴りたいだけの上司がいると、部下が大変だ。
 その説教と思しき罵声を聞き流しながら、僕も金庫室から仕掛中の書類を取り出し、自分の机がある二階の法人営業部へ向かう。
 僕が机に書類を置いた時だ。隣の席の部下、桜木宗太郎が疲れた顔で僕に言う。
「神沢調査役。十分後に、支店長がやるそうです」
 主語のない言葉だが、それだけで意味は十分理解できた。暗澹とした気持ちになる。
 僕と桜木が会議室に行くと、既に法人営業部の全員が揃っていた。
 そして支店長の挨拶と共に営業会議が始まり、案件の進捗確認という罵詈雑言が会議室を飛び交った。この中の一番の若手、桜木が吊し上げを喰らう。
「桜木。神田製作所の五千万の融資案件は、どうなっている?」
 上座の支店長が、無意味に声を張り上げる。
 桜木がおずおずと応じる。
「現在、社長に必要書類を依頼中ですが……」
「まだ書類が揃っていないのか。今月、融資出来るんだろうな?」 
「そもそも業者の工事請負契約書が出来ていません。一応、社長には早急に進めてくれと依頼していますが……今月に融資できるかどうかは、社長次第です」
「はぁ? 俺は、今月融資できるんだろうな、って聞いているんだよッ!? 社長次第とかそういう話は聞いてねぇんだよ!? 日本語解らねぇ奴だなッ! 幼稚園からやり直してきたらどうだ?」
 桜木が無意味な詰めの集中砲火を受け、ひたすら謝罪の言葉を並べ、頭を下げ続ける。その後、役職者が部下を怒鳴りたいだけの中身のない営業会議が小一時間ほど続く。はっきり言って、時間の無駄だ。
 会議から解放された頃、既に時刻は十時を回っていた。その時間に気づいた僕は、慌てて自分の机に戻って電話の受話器を取る。そして頭の中から以前の配属先の電話番号を引っ張りだしダイヤルを押す。
「――はい、帝陽銀行新小岩支店です」
 三コールほど鳴らすと、受話器の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。割と親しい同僚の預金係の沢尻楓だ。
 僕は軽い調子で喋る。
「千葉支店の神沢だけど。楓ちゃん、元気かい?」
「神沢調査役ですか? ご無沙汰してます! こっちは、あまり元気ではないですね。朝から副支店長が吠えてまして……」
「僕のいた頃と変わらないね。その副支店長は吠えさせておけばいい。疲れればそのうち黙る。今日は月末だから忙しいかな? 水城鉄工所の婆さんとか、相変わらず黒ずくめな格好で従業員の給与下ろしに来てるの?」
「はい。丁度今、窓口に来店してますよ。今日は黒ではなく、趣味の悪い白いジャケットですが。……従業員への給料支払、現金手渡しは危ないから振込にしたほうが良いって、いつも言っているんですけどね……。もう結構な歳ですし、いつか帰り道に襲われそうで心配です」
「そうだね。心配だね」
 それだけ聞ければ十分だ。
 その後、他愛もない会話をして僕は受話器を置いた。
 僕は深呼吸をした後、トイレに駆け込んでスマートフォンを叩く。
 SNSを起動し、メッセージを打つ。

 ――新小岩。今窓口。七十歳ババア。趣味の悪い白いジャケットに黒い鞄。 
 
 送信を終え、僕は胸をなで下ろす。
 とりあえず、一仕事終わった。


 近年、大半の企業は従業員への給与支払を振込で行っている。現金手渡しの企業なんて殆どない。しかし田舎や下町で、高齢者が経営や経理を担っている企業では、未だ現金手渡しのところは希にある。
 帝陽銀行新小岩支店の取引先である水城鉄工所も、そんな会社の一つだった。
 年商十億円、従業員は百人。それなりの事業規模であるにも関わらず、経理担当者は毎月現金での手渡しを行っていた。高齢のため、給与支払を新しい方法にするのが億劫なのだろう。
 毎月給料日直前になると、多額の現金を下ろしに高齢者の経理担当が来店する。当然、この話は帝陽銀行新小岩支店にいたことのある人間には、周知の事実だ。今日という日に高齢者が大金を持ち歩くという、この情報を知っているのは僕だけではない。 
 強盗に襲われて現金を奪われたとしても、僕に疑いの目が向くことは絶対にないだろう。

 その後、僕は通常の業務に戻る。担当している融資先を訪問するため、僕は支店を出た。牛丼屋で昼飯を食べながら、僕はスマートフォンでSNSを確認。すると僕のアカウントに、断片的な四文字のメッセージが届いていた。
 
 ――一千五百。

 一千五百万円。それは僕が考えていたよりも、ずっと多い金額だった。従業員百人の手取りにしては、多すぎる。少し考えて、僕はその理由に見当をつけた。
 そういえば今月は十二月、ボーナス月である。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み