13.残り2億円と15日

文字数 7,309文字

 翌朝、僕は代わり映えもなく、朝の雑踏に流されながら出勤する。JR千葉駅構内を歩いていると、突然肩を叩かれる。振り返ると、そこに西行寺がいた。
「やぁ神沢くん、おはよう。こんな人混みの中、毎朝大変だねえ」
「……おはようございます。西行寺探偵は今日も早いんですね。どうしたんです。何かありましたか?」
 西行寺が顎を撫でる。
「今日はちょっと来客がある予定なのさ。特に時間は決めていないんだが……そいつも馬鹿みたいに真面目で、せっかちな奴でね。恐らくは朝一番に来ると思うのさ。だから今日は早く来たのさ」
「来客って、千葉支店にですか?」
「ああ、そうさ。それでその後、ちょっと出掛けることになると思うんだが。神沢くん、今日の予定はどうだい? 車を出してもらえないかな」
「今日は大丈夫です。お供しますよ」
 それは僕としても願ってもない申し出だった。まさかこんなにも早く機会が回ってくるとは。早速、佐々木に連絡しなければならない。
 この探偵には何の恨みもないが……花火のために、ここで脱落してもらおうと思う。
 西行寺と他愛もない雑談をしながら、僕は腹の内で邪悪を巡らせる。やがて僕達は帝陽銀行千葉支店に到着した。すると行員用出入口の前に、見知らぬ人間が立っていた。ダークスーツを着たがたいの良い青年である。何やら落ち着かぬ様子で、貧乏揺すりをしていた。
 その青年が僕達の方を向いた。そして西行寺を視界に入れると、弾かれたように詰め寄ってくる。
「西行寺探偵! 毎回毎度毎週の様に言ってますが、相変わらず大迷惑なことをしてくれますねぇ!?」
 西行寺に口角泡を飛ばす青年。
 涼しい顔で、西行寺は明後日の方を向く。
「はて、何の話かな。私としては当局の仕事の円滑化に貢献しているつもりなんだがね。事件を見つけて通報する。これのどこが不味かったのかな?」
 青年が拳を握って声を張り上げる。
「えぇそりゃ仰る通り、事件を通報して頂けるのは非常にありがたいですよ! めっちゃくちゃありがたいです! でもねえ西行寺探偵! どうして刑事部長に直接通報するんですかねぇ。一一〇番で通報しろとは言いません。せめて私に連絡を下さいよッ! 貴方はいつもそうだ! 何故ですか!?」
 失笑しながら西行寺が両手を広げる仕草をする。
「刑事部長に直接連絡したほうが、君達警察の動きが早いからね。どこの組織でも同じだとは思うが、偉い人間に直接話をしたほうがレスポンスが早い」
「だからそれ止めて下さいって! うちの刑事部長、自分が直接関わった案件には対しては、本当にマメなんですよ! 偉そうに明後日の方向へ全力疾走な捜査方針とか打ち出されると、下が大迷惑するんです! だから頼みます。次回からは直接、私に連絡を下さい!」
「ふむ、善処するよ」
「そういう市役所の窓口みたいな返答、やめてもらえますかねぇ!?」
「公務員の君がその様な発言をするのも、些か問題な気もするが。……まあ、どうでもいい話だな。……それで夏目警部、現場はどうだったかな? 詳しく教えてほしいな」
 夏目警部と呼ばれた青年が、深呼吸した後に述べる。
「まだ詳しくは分かりません。つい先程、鑑識が現場に入ったと連絡がありました」
「ふむ。相変わらず仕事が遅い」
「事件のお話を刑事部長に頂いたのが、昨日の深夜未明ですからねぇ! 私は十分早い方だと思いますけどねぇ!?」
「今こうしている間にも犯人はどこかに潜伏している訳だろう? もしかすると、朝一番の便で海外へ逃走した可能性もある。そう考えると君達警察という組織の仕事は遅すぎる。――――さて。役者が揃ったところで行こうか」
 ここで西行寺が僕を見た。そして、どこか超然とした笑みを浮かべて、言葉を続ける。
「――――それじゃあ神沢くん。車を回してきてくれ給え。私達も現場へ行こうじゃないか」
 僕の思考が凍り付く。
 得体の知れない恐怖が、戦慄が頭の中で湧き、僕の身体が僅かに震えた。 
 
 
 車内にて、改めて青年が手帳を出して身分を明かす。夏目列火。警視庁、捜査二課所属。役職は警部とのこと。
 西行寺に促され、僕達三人は一台の営業車に乗り込み、都内へ向かっていた。夏目警部の案内で、僕は車を走らせる。話の流れを察するに、僕を捕まえにきた訳ではない様子だ。
 状況が分からない。とにかく情報がほしい。恐怖するのは、それからでもいいはずだ。
 運転席でアクセルを踏みながら、僕はおずおずと声を上げる。
「あの、すいません。話についていけてないのですが……これはどういう状況なんです?」
 西行寺が欠伸をしながら応じる。
「昨日の晩かな。私の鮮やかな推理で殺人事件を発見してね。それで警察に通報したんだ。後は神沢くんもご存知の通りさ。夏目警部が僕に怒鳴り込んできて、今に到る」
「殺人事件……ですか?」
「まあ、後は現場で説明するよ」
 夏目警部の指示で高速道路を下り、道を曲がる。
 着いた場所は、都内の閑静な住宅街の一角。夏目警部に言われ、僕はその住宅の前で車を駐める。
 蔓延るように多数の警察車両が止まっていた。回る赤灯。現場を封じるかの様な、キープアウトの黄色いテープ。そして警察関係者と思しき人影が、右往左往している。
 一瞬、僕はそこがどこだか分からなかった。
 前回訪れたのは夜だ。朝と夜ではあまりにも風景の印象が違う。この住宅は、佐々木が侵入強盗でキャッシュカードを奪った先であった。
 目眩がした。
 肺にお湯が注がれた様な感覚がし、呼吸が出来ない。
 全身の毛穴から汗が噴出する。
 何故、事件が発覚したのか。
 僕は考える。何度も考える。思考を巡らす。しかしいくら考えても、答えは出なかった。
 胃が、心臓が、頭が酷く痛い。突然、自分が犯人だと自白してしまいそうな、そんな衝動に駆られた。
自白すれば、楽になれる。僕は頭を振って、その誘惑を振り払う。
 ここで終わる訳にはいかない。僕は、何としても花火を救わなければならない。
 唇を噛みしめて、僕は平静を装った。
 車を降り、夏目警部に先導されて僕と西行寺は住宅に入る。僕達と入れ替わる様に、紺色の作業着を来た鑑識と思しき捜査員が外へ出て行く。その手に握られているビニール袋。中にはビールの空き缶が入っていた。
 ……犯行後にビールを飲んだ佐々木が、投げ捨てていたものだろう。
 リビングに入ると、夏目警部が付近の捜査員に声を掛けた。
「状況を教えてくれ。何か分かったか?」
 鑑識らしき捜査員が、手帳を開いて答える。
「強盗殺人事件ですね。死体が見当たりませんが、隣の部屋には大量の血痕が残っています。恐らく、ここの家主は殺されているでしょう。家中ひっくり返して何かを探した形跡がありますから、金品を狙った犯行と思われます。現在、捜査員が周辺へ聞き込みを行っています」
「被害者の名前は? 同居の家族は?」
「ここの家主の名前は高木久美恵。年齢は七〇歳ですね。一年前に配偶者に先立たれてから、一人暮らしをしていた様ですね。子どもがいるかどうかは、現在、確認中です」
 夏目警部と捜査員の会話に、西行寺が横槍を入れる。
「被害者に子どもはいないさ。そして付近に住んでいる親類もいない。だからこそ、犯人はここを選んだんだろうさ。……ところで一つ聞きたい。犯人が何かを探した形跡があるという話だが……何か持ち去られたものはあるかな?」
 突然の質問に、捜査員が戸惑った様子で答える。
「……いえ。今のところは何も解っていません。時計や財布も残っていますし……」
 西行寺が指を鳴らす。
「では銀行の通帳や、印鑑はどうかな? 被害者の名義の帝陽銀行の通帳はあったかな?」
「て、帝陽銀行ですか? 銀行や郵政の預金通帳は、リビングの戸棚の中から見つかっています。その中に帝陽銀行のものもあったと思いますが……」
「そうか。それでキャッシュカードは?」
「は?」
「だからキャッシュカードだよ。その預金口座のキャッシュカードが、持ち去られてなかったかな?」
「……確認します。少しお待ち下さい」
 そう応じると、捜査員は駆け足でリビングから立ち去った。
 夏目警部が咳払いをする。
「西行寺探偵。そろそろ教えて頂けませんか? 我々警察は貴方からの通報があってここに駆け付け、この事件を発見しました。貴方はどうやって、ここで事件が起きていると知る事ができたのですか?」
 西行寺が指を振る。
「いやなに。そんな難しい話ではないさ。夏目警部は今、私が帝陽銀行に調査へ入っていることを知っているかな?」
「……噂では聞いています。なんでも個人情報流出の事件を調べているとかで」
「そうか。それなら話は早いな」
 謳うように、西行寺が続ける。
「帝陽銀行の中に銀行が持つ個人情報を悪用して、被害者から現金を強奪している奴がいるのさ。例えばそうだな。……夏目警部。君が銀行員で、手段を選ばずに金を稼ごうとしたら、どんなことをするかな?」
 夏目警部は、暫く考える素振りを見せた。そして首を左右に振る。
「……すいません。ちょっと私には想像できませんね」
「そうか。それじゃ神沢くん。君ならどうする?」
 突然話を振られ、僕は言葉に詰まる。僕も同じように、想像できないと答えようかと思った。しかし実際の銀行員である僕が、夏目警部と同じ回答というのも不自然だ。
僕はもっとも無難と思われる回答をする。
「……そうですね。簡単に考えると、顧客の定期預金を勝手に解約して横領してしまうとか。よく銀行の不祥事件などにもありますし」
「なるほどね。ちなみに私だったら、こうするさ。大口預金者で、かつ身よりのない年寄りを殺して、キャッシュカードを奪う。そして毎日ATMで引き出し限度額の現金を下ろして行くのさ。どうだろう神沢くん。こういう手口は現実的に可能かな?」
 僕は空笑いを出す。
「……可能かどうかと問われれば、難しいと思います。確かに銀行には預金情報があり、大口預金者のリストもあります。でも流石の銀行も、その顧客に身よりがないかどうかまでは解りません。世帯構成なんて情報は、市役所の住民課でもない限りは――――」
 僕の言葉を遮って、西行寺が言う。
「では遺産分割協議書はどうだろう。被害者は資産家で、配偶者に先立たれている。……となれば、その時、当然銀行で相続の手続きをするはずさ。身寄りがないかどうか。遺産分割協議書があれば、大体察しが付くんじゃないのかね?」
 突然、西行寺がそんな事を言い出した。
 僕が困惑していると、西行寺が続ける。
「預金者が死んだ場合、それを知った段階で銀行は口座を凍結するだろう。そして後は相続の手続きに則って、凍結された預金口座を処理する訳さ。その手続で、銀行は遺産分割協議書を徴求するだろう。ではここで神沢くんに問題だ。夫が死んだ場合、その配偶者と子どもに対する法定相続分の割合はいくつだい?」
 遺産分割協議書とは、遺産分割で相続人の合意を取りまとめた書類のことである。銀行はこの遺産分割協議書に基づいて、死亡した顧客の預金を相続手続で処理する。法定相続分とは、民法で決められた遺産の取り分だ。
 そんな事は銀行員ならば誰でも知っている知識だ。
 なので僕は答える。
「……配偶者と子どもで二分の一ずつですね。子どもが二人の場合は、子どもだけ四分の一となります」
「正解だね。要するに銀行が相続手続で徴求する遺産分割協議書には、遺産を誰がいくらもらうか書かれている訳さ。……さて、どうだろう。つまりはこの書類があれば身よりがあるかどうか、付近に親類がいるかどうか、ある程度判別できる訳だ。遺産を全て配偶者が相続していた場合、その配偶者には他に身よりがないと推定できる。そう思わないか?」
 ここで嘘を吐いても仕方がなかった。
 僕は嘆息する。
「……そうですね。確かに仰る通り。銀行が遺産分割協議書を徴求していれば、それで身よりがあるかどうか推定が可能ですね」
 西行寺が肩をすくめる仕草をする。
「帝陽銀行の遺産分割協議書を眺めていたら、身よりのない金持ちを狙う事が可能だなと思いついてね。それで千葉支店と、先日事件のあった新小岩支店の過去五年分の遺産分割協議書を漁ったんだ。相続人が配偶者しかいないところをピックアップして、銀行の女の子に朝昼晩と電話を掛けさせたのさ。すると、どうしても連絡がつかない先が何件かあった。ここは、その内の一件さ。私の名探偵な直感が事件であると告げていたので、特に確認もせずに刑事部長へメールしておいたんだが……大当たりだった様だね」
 と、先程、西行寺にキャッシュカードを問われた捜査員がリビングに戻ってきた。そして口を開く。
「今確認したところ、キャッシュカードは何枚か押収しましたが、帝陽銀行のキャッシュカードだけないそうです」
 それを聞いた瞬間、西行寺が指を鳴らす。
「どうやらこれは大正解の様だね。たまに自分の直感が恐くなる。となると、犯人はキャッシュカードを奪ってATMで現金を下ろしている可能性が高いな」
 夏目警部が、捜査員に短く指示を飛ばす。
「帝陽銀行本部に捜査員を回せ。被害者のキャッシュカードの取引履歴を調べてくるんだ」
 腕を突き出し、西行寺が夏目警部を制した。
 小刻みに数回舌を鳴らしながら、西行寺は芝居掛かった調子で言う。
「いいや、それには及ばないさ。もう既に――――帝陽銀行の本部で、私の助手が調べている」
 西行寺がそう言い終えた、まさにその時。携帯電話の着信メロディの様な音楽が突然流れた。西行寺が背広の内ポケットからスマホを取り出す。どうやら西行寺のスマホに着信の様だ。その電話に出て、西行寺が短く電話越しの相手と会話をする。電話を切って、西行寺は世にも愉快そうに嗤った。
「丁度今、助手からの電話だったんだが……ATMの防犯カメラに、被害者のキャッシュカードで金を下ろす男の姿が映っていた様だ。なんでも隻腕の若い男だったとか……」
 そして最後に、西行寺は独りごちる様に付け加える。
「隻腕。隻腕ねえ。実に特色のある身体的特徴だね。そういえば指名手配犯で、隻腕の若い男がいた記憶があるな……。私の記憶が正しければ、名前は確かそう――――佐々木太郎、だったかな?」
 僕は膝から崩れ落ちそうになった。



 その後、西行寺と夏目警部は現場に残る話となった。僕は一人で営業車に乗り、千葉へ戻る。
 外の世界は茜色だ。日が傾いており、地平線の彼方へ沈みつつある。
 何も考えられない。
 途中、コンビニで珈琲でも買おうかと思ったが止めた。今飲むと、たぶん吐く。
 営業車を支店の駐車場に駐め、僕は深呼吸する。帝陽銀行千葉支店に戻り、僕はトイレへ駆け込んだ。幸いなことにトイレには誰もいない。そして洗面ボウルで顔を洗う。僕は冷水をかけて、頭を冷やす。
 ここでようやく、僕の思考が回り始めた。追い詰められたという実感がようやく湧き、僕は過呼吸になる。
「―――――クソッ!?」
 気がつけば僕はトイレの壁を蹴り飛ばしていた。続けて個室の扉を殴る。扉が壊れて床に落ちた。
 非常に、不味い状況だった。チェックメイト寸前だ。何なんだ、あの探偵は。推理もクソもない。直感だけで佐々木まで辿り着いた。
あれは同じ人間なのか。まさしく化物と呼ぶに相応しい。こんなことになるなら、佐々木の言う通り早く殺しておくべきだった。
 後悔するが遅い。遅すぎる。既に警察が介入している。今ここで西行寺を殺したとしても、この状況は変わらない。
 捕まった佐々木が、黙秘を貫くとは考えにくい。佐々木が捕まれば終わりだろう。佐々木の証言を元に捜査され、僕は逮捕される。
 僕の日常が終わる。いや。もうこの際、僕の日常なんかはどうでもいい。
 花火はどうする。このままでは金が集まらない。このままでは花火が助からない。 
「クソがッッ!?」
 僕はもう一度叫んだ。そしてトイレの洗面ボウルに頭を突っ込み、冷水を頭から被る。暫く頭を冷水に浸し、僕は考える。
 どうすれば。
 どうすればいいだろう。
 佐々木が捕まれば一巻の終わりだ。既に佐々木の名前は割れている。身体的特徴もあり、捕まるのは時間の問題かもしれない。とにかく佐々木には逃げてもらわなければ――――。
 洗面ボウルから顔をあげ、僕はスマホを取りだした。そして佐々木に電話を掛けようとして……僕は思いとどまる。
 そこで、ふと……妙案が浮かんだ。
 僕の思考に一条の光が差し込む。それは酷く暗く、禍々しい色をした光だ。
 考えれば考えるほど、僕と花火にとって、これが最善に思えてきた。
 やるしかない。佐々木という実行犯を失うのは痛手だが――――花火を救うには、こうするしかない。両手で額を叩き、覚悟を決める。
 僕の手に、自然と力がこもった。
 僕は何食わぬ顔でトイレへ出る。すると丁度そこで僕は部下の桜木と出会した。桜木が驚いた顔になる。
「あ、神沢調査役。……なんか酷い顔してますが、大丈夫ですか? 何かあったんですか?」
 桜木の言う通り、今の僕の顔はさぞ酷いものだろう。その自覚があるほど、僕の精神状態は滅茶苦茶だった。
 気力を振り絞り、僕は会話を繕う。
「……色々あってね。あぁ桜木。一つ頼みがあるんだけど……」
「はい。なんです?」
「僕の不注意で、トイレのドアを壊してしまったんだ。支店長にする言い訳を、考えておいてもらえるかな?」
 すると桜木が明るい声で言う。
「顧客にトイレを貸して、その後に来てみたら壊れてた……ってことで。顧客が壊したみたいな話で支店長には通しましょう」
 僕は内心で苦笑する。 
 なるほど。桜木にしては珍しく、良い考えだった。トイレの扉の言い訳は、それで通そうと思った。
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