20.[Re]怪人シャーロック・ホームズ

文字数 4,788文字

 僕が東銀北総病院へ着いたのは二十一時頃だった。診療時間は既に終わり玄関はしまっているため、救急入口の方から入り南条に取り次いでもらう。僕の応対をした病院職員は、暫くして怪訝な顔で戻ってくる。
「お待たせしました。南条先生が、救命救急センターの方にきてほしいとのことです。深夜で電気も点いていませんので、ご案内します」
 言われて、僕はその申し出を固辞する。救命救急センターは花火のいるところで、もう何度も行ったことがあって案内の必要はなかった。
 物音と人の姿が一切ない夜の病院。病院だからか、そこに蔓延る闇はどこか異色に思えた。切れかけた電灯が、点滅する様に廊下を照らし、今にも幽霊が出そうな雰囲気だ。
 どこか遠くで救急車の音が響いている。
鎮痛剤が切れかけているらしく、一歩歩く毎に骨折している右腕が痛んだ。一度足を止め、僕は深呼吸する。
 ここで止まっている時間はない。あともう少し。もう少しで終わりだ。そう内心で呪詛の様に繰り返し、僕は歯を食いしばって進む。
 何かに駆り立てられる様に、僕は早足で進む。暗い廊下だが通い慣れた場所のため迷うことはなかった。
 骨折した右腕が酷く熱く感じ、激痛の度に視界が霞む。そんな朧気な意識の中、ふと僕の脳裏に花火の笑顔が過ぎる。
これで花火が救える。そしてまた、あの笑顔が見られるのだ。
 全ての罪は僕が引き受ける。だから花火には、どうか日常へ戻って欲しい。勿論、花火の将来がどうなるかは分からない。作家として成功するかも不明だ。僕としては別に成功しなくても構わない。花火が生き残って幸せになってくれれば、それで良かった。
 僕の胸中が、奇妙な幸福感と達成感で満たされる。
 そして僕は目的の場所に到着し、集中治療室と書かれた扉に手を掛けた。
 力をこめて扉を開けていくと、中から蛍光灯の光が漏れる。それが深夜の暗い廊下を濡らしていき、やがて僕もその真っ白い光に包まれた。
「――――あら、ようやく来ましたか。神沢さん、随分と遅かったですねっ!」
 地獄に突き落とされた様な気分だった。頭を上げて、僕はその声の主に視線をやる。真っ白い床と壁の集中治療室に、白いワンピースの少女がいる。背丈と年齢は花火と同じぐらいで、どこか超然とした笑みを顔に貼り付かせ、その手には西行寺の持っていた英国風のステッキがあった。怪人シャーロック・ホームズの助手、八雲園子である。そして八雲の足下には南条が倒れていて、気絶している様子だった。八雲の背後にはガラス壁があり、その向こう側には花火の寝台がある。白いシーツがかけられていて花火の身体は窺えない。その寝台の枕元に設置された電子パネルの数字だけが動いていた。
 花火を阻むような形で、僕と対峙する八雲。僕は敵意を隠さず、八雲を睨む。
「どうして、君がここにいる?」
 八雲が片目を瞑り、悪戯っ子の様に微笑む。
「神沢さんもご存知の通り、私は西行寺の助手ですよ! そんな私がここにいること自体は、何の不自然もないと思いますけど」
 言葉の文脈と状況を考えると、八雲も僕が犯人であることを分かっているのだろう。もう隠す必要も、繕う必要もなかった。西行寺という言葉に僕は失笑を漏らす。
「怪人シャーロック・ホームズなら死んだよ。僕が殺した」
 僕は八雲の驚く顔を期待して戯けた調子でそう言い放つが、八雲の表情は変わらない。その変わらぬ余裕に、僕は少し苛立って言葉を繋ぐ。
「……君は西行寺が死んだと聞いて、驚かないんだな。何故だい?」
 八雲が口元に手を当てる。
「んー、そうですねえ。まあ探偵役が死ぬのは、慣れていますのでっ!」
 この訳の解らない発言に、僕は既視感を覚えた。背筋に得体の知れない恐怖が這い寄ってくる。気がつけば僕は、西行寺に投げた質問を、もう一度投げていた。
「……だからさ、結局、君は何なんだい? 訳が解らないよ」
 そして八雲の口が、三日月の形に歪む。
「ねぇ神沢さん。もしも、この私が本当の怪人シャーロック・ホームズだったら、どうしますか? 法人専門の名探偵、怪人シャーロック・ホームズはその業務上、命を狙われることが多い。だから常に、西行寺という身代わりを立てて仕事をしていた。もしもそうだとしたら、どうしますかね? うふっ――――うふふふ―――」
 八雲が噛み殺し損ねた笑い声を発した。
 僕は眩暈がした。本当に意味が解らないし、理解もできない。怪人シャーロック・ホームズ。佐々木や反社会的勢力に罪をなすりつけても。爆弾を使って攪乱しても。最後は射殺したにも関わらず、怪人シャーロック・ホームズはまだ僕を追いかけてくる。
 悪夢以外の何者でもなかった。
 ここで僕はようやく悟る。目前に立っている少女は人間ではなく、怪人なのだと。そして、この怪人を倒さなければ僕と花火に未来はないだろう。
 頭の中で、恐怖に支配された思考が弾ける。気がつけば僕は絶叫しながら、手に持っていた現金の布袋を八雲に投げつけていた。飛来した布袋に怯む八雲。僕はすかさず懐のデリンジャーを取り出す。八雲の判断は速い。布袋を腕で払いのけ、八雲が動く。僕がデリンジャーの激鉄を起こすのと、八雲が身体を投げ出す様に横へ飛ぶのは、同時だった。
 サイレンサーで軽減された銃声が轟く。八雲を捉え損ねた弾丸が、背後のガラス壁に貫通して風穴を空けた。数秒遅れて、けたたましい音を立ててガラス壁が割れていく。
 布袋から飛び出した札束を八雲が拾い、僕に投げつけてくる。躱すことなく、僕はそれを顔面で受けた。帯がはずれて現金が空中で散らばる。
 一万円札が、枯れ葉の様に宙で舞う。
 僕は続けて八雲に向けて引き金を引くが、狙いが逸れて銃弾が床を抉るだけに終わる。八雲が滑り込む様に、部屋にある事務机の影に逃げ込むのが見えた。そして変わらない調子で告げてくる。
「銃を向けるなんて野蛮ですねっ! 女の子にはもっと向けるべきものがあるんじゃないですか!?」
 僕はデリンジャーから排莢しながら応じる。
「女の子に向けるべきものって何かな。愛のこもった花束でも向ければいいのかい?」
「浪漫があって良いですね! 私、神沢さんの愛のこもった花束なら避けないであげてもいいですよっ?」
「まぁそう言わないで受け取ってほしいな。愛のこもった花束も、殺意のこもった鉛弾も、その重さは似たようなものだよ。たぶんね」
 片手で次弾を装填し終え、僕は会話を打ちきった。そして僕は八雲を殺すべく、回り込んで机の影に銃口を向けようとする。すると突然、机がひっくり返されて横転する。不意を突かれて固まった僕に、八雲のステッキが伸びる。僕が引き金を引くよりも、八雲のステッキがデリンジャーを打つほうが速かった。照準が逸れ、弾丸が明後日の方向に着弾。衝撃でデリンジャーを手放してしまい、それが白い床を転がっていく。それを尻目に、僕は内心で焦りつつ懐から肉厚のナイフを取り出した。
 八雲が芝居掛かった様子で息を吐く。
「あれ。また物騒なものを出してきますね! もしかして、それが佐々木太郎殺害の凶器ですかね?」
 答えず、僕は八雲に向かって突進してナイフを振りかざす。これに八雲は動じる様子もなく、体勢を低くしてステッキを腰の下で構えた。
 僕と八雲が肉薄する。一足一刀の間合いだった。僕は怒号と共にナイフを振り下ろす。それと同時に――――八雲が抜刀した。
 煌めく銀閃。
 放物線を描き、床へ落下する肉厚のナイフ。床に飛び散る夥しい量の血液。
 そして僕の理解が、ようやく追いつく。八雲の持っていたステッキは、仕込み刀だった。
「これ銃刀法違反なので、あまり使いたくなかったんですけどね」
 ステッキの形状の鞘に刃を納めながら、八雲がつまらなそうに言った。
 左手が熱い。僕の左手には、もうあの肉厚のナイフは握られていなかった。その代りとでも言う様に、真っ赤に染まっている。切断されてはいないものの、二の腕が切り裂かれていて、そこから骨が覗いていた。
 それを見た瞬間、激痛に襲われて絶叫し、耐えられず僕は床を転がる。痛みで意識が飛びそうになりながら悶えていると、頭上から八雲の言葉が降ってくる。
「右腕は折れて、左腕は斬られて。端から見ると、極めて過酷な満身創痍と言った状態ですけど。……ねえ神沢さん、そろそろ妹様を、花火さんを諦めましょうよ」
 花火という言葉に、少しだけ僕の理性が戻る。
 冗談は言わないで欲しい。僕は花火のために、ここまできたのだ。花火のために罪を犯してきた。このままでは終われない。喉元を食いちぎってでも、目前に立つ怪人を殺さなくてはならない。
 脂汗で視界を滲ませながら、僕は頭を上げる。すると丁度、八雲が床に落ちていたデリンジャーを拾い上げたところであった。そして今度は、僕が八雲に銃口を突きつけられる番だった。
 八雲が僅かに首を傾げる。
「私は普通の名探偵なので。人殺しなんてしたくないのですが……だから神沢さん。そろそろ諦めて頂けませんか?」
 その言葉は、僕の耳には届かない。内にある全ての感情篭めて、僕は八雲を睨みつける。すると八雲が続ける。
「まだ諦めないんですか? さすがは銀行員ってとこですかね。その精神力と言いますか、根性だけは認めてあげますよ! 神沢さんが諦めてくれないのなら、私もこうするしかありません」
 八雲が銃口を僕から逸らした。腕を回していき、割れたガラス壁の向こう側に銃口が向く。つまりはその照準が、花火に定まる。
 八雲のやろうとしていることを理解し、僕は息が止まりそうになる。そしてデリンジャーの激鉄が起きる、金属同士のぶつかる音が聞こえた。
 僕は花火を庇うため、動こうとする。しかし僕の身体は、杭で床と縫いつけられている様に、動かない。
 引き金の引かれたデリンジャーが、鉛弾を吐く。一瞬で花火の寝台に着弾し、そこに掛けられていたシーツが吹っ飛んだ。
 シーツの下。そこに花火の姿はなかった。無機質なマネキンが、そこに寝かされているだけである。
 僕の呼吸と思考が止まる。何が起きているのか、状況が分からない。おかしい。寝台には延命治療中の花火が寝かされているはずで。少なくとも、僕はそう南条から聞いていた。僕はその花火を救うために、ここまできた訳で。
 頭が熱い。思考が紅く暗い、底無しの沼に沈んでいく様な、そんな錯覚を感じる。
 もう何も考えられなかった。
「貴方は誰のために、今回の凶行に及んだんですか?」
 諭す様に八雲に問われるが、僕は答えない。
「貴方が助けようとした人は、今どこにいるんですか?」
 八雲に問われるが、僕は答えない。
「ねえ神沢さん。貴方は一体、誰のために何をやっていたんですか?」
 僕は答えない。
 いや、答えないのではなく、もう答えられないのだと気づいた瞬間、僕の身体から力が抜けた。床に形成されている血溜りに、僕は倒れ込む。僕の目から出た水色の滴が床に落ち、そこに広がっている赤色へと混ざった。
 ゴミを見るような目でデリンジャーを投げ捨てながら、八雲が最後に吐き捨てる。
「いやはや。蓋を開けてみれば、本当に奇天烈な話でしたね。私も怪人であるという自負がありますが……まさか上には上がいるとは思いませんでした。……ねえ、神沢さん、どう思いますか? 是非、感想を聞かせて下さい」
 血が流れていき、次第に僕は全てがどうでも良くなっていく。
 僕の感覚が紅く、そして黒く塗りつぶされていった。

 そして直ぐに終わりが訪れる。
 全てが深淵なる闇へと沈み、僕の意識は途絶えた。
 もう何も見えないし、聞こえない。考えることもできない。
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