第1話 女教師、災難に遭う
文字数 3,566文字
どこまでも澄んだ青い空に、
そして水に含まれる鉱物や、水底に沈んだ落ち葉や朽木、水棲プランクトンの不思議な命の営みにより様々な色の沼が魔法のように広がる。
五色沼と呼ばれる所以だ。
一番大きな
今思うと、だいぶ
あの頃の自分は、きつく編んだ二つの長いおさげをまた後ろで結んだ、そんな少女だった。
校則は、髪留めも黒紺茶のみ、前髪は全てピンで留めるか、眉毛の一センチ上で切り揃える事といういろんな意味で厳しいものであったし、その上自分はド近眼でもあるので、真っ直ぐに切り揃えられた味海苔のような前髪の下に、黒縁の眼鏡も顔に乗せていたわけで。
今思っても・・・。
「ダッセーよなー!」
背後から大きな声でそう言われて、悲鳴を上げそうになった。
振り返ると、二年A組の
「なんで修学旅行が今更、沼なんだよ、沼?!一昨年は沖縄で、去年はLAで、なんで今年はこんな山奥なわけ?!」
生徒とはいえ、高校生男子である。
身長など自分より頭一つ分高い。
はっきり言ってこんな素行の悪い生徒は街のチンピラや、冬眠明けの飢えた熊並みに恐ろしい。
昨日は市内にてフルーツ狩り食べ放題ツアーだった。
しかし、参加者はおしゃれで意識高い系の女子でもなく、老人会のお日和クラブでもない。
高校生男子である。桃や梨やぶどうを、うめーうめーと騒ぎながらまるでスナック菓子のように次々とぺろりぺろりと食べてしまうのだ。
食べ放題という割に、食べたら食べた分だけの支払いだから、後でとんでもない金額が学校に請求されてくるんだろう。
「お前ら、もう食うな!」と学年主任の教師が青くなっていた。
果樹園の持ち主の奥様が生徒達があんまり食べるものだから、この子供たちはきっと腹が減っているのだろうと気の毒がって、自宅から煮物だのおにぎりだの、戸棚のまんじゅうまで振舞ってくれて、生徒達は猛獣のように鍋に群がってがっついていた。
こっちは恥ずかしくて、すいませんと平謝りだ。
「いいのよう。先生ぇ、このくらいの男の子は、食べるものぉ〜」
懐かしいのんびりした口調でそう言われ、救われた気分だった。
「うちもねえ。男の子三人だからぁ。昔は、お米なんて、日に一升を二回炊いてたのよぉ」
10合炊きの炊飯器で、朝晩二回?!
嫌だ、そんな生活。
「・・・最悪ですね・・・・」
つい、本音が漏れた。
「そうなの!あはは。ほらあ、すごい食べてる、食べてるわぁー」
嬉しいと面白いが混ざった声で彼女は笑った。
どこか、動物園の大型動物がさかんに餌を食べている時の感想のような・・・。
帰り際に、先生ぇ、これ持って行ってと、箱入りの果物をいくつも頂いた。
素人には見た目にわからないが、農協に出荷できない傷物の桃や梨やぶどう、ちょっと早い早生種のりんごをたくさん貰った。
「あざっす、また食う!」と生徒達は大喜びで果物のキャラクターが描かれたダン箱を担いで次々バスに乗り込んでいく。
「しかし、こんなに食わっちゃら、おれ達は嬉しいけども、学校さんは大変だなあ。ちぃっと安く請求書出しとくからよぉ」
果樹園のオーナーが、おかしくてしょうがないというように言った。
盆地のうだるような残暑。
時たま山から下りてくる風が果樹園を通り抜けていく。
「・・・もう秋なんだなあ・・・」
ちょっと自然の情緒を感じていた環に、「どこがだ、ババア、こんな暑っちーのに」と生徒の一人がバカじゃねえのと突っ込みを入れて通り過ぎて行った。
「ババアって言うんじゃありません!」
と怒鳴りつけたが、全く堪えた様子も無い。
いや、これは秋の風なのだ。
間違いない。
環はこの町の出身なのである。
とはいえ、大学進学のために上京したので、離れて久しいが。
移動のバスの中で、昨日貰った果物食おう、とまた食べ始めた生徒達に呆れて
昼食に餃子を山ほど食った後なのに、よくもまああんなに食えたものだ。
昨日は食べたら食べた分だけ支払うので、果物を食わせすぎない為に、昼食後の十二時五十分という絶妙なセッティングだったのに教師の思惑は水の泡だ。
今日は
「おーっ、この桃、チョーうまいんだけど!」
一晩置いたら熟成が進んだとか何とか。
歩きながら桃にかぶりついているこの
だから体育がプールの日はサボるし、プールや温泉は出禁なのだと教師たちの間でも語り草である。
それでも、特別な制裁措置が取られて来なかったのは、ひとえに彼がさる有名企業の御曹司であり、彼の父親からの学校法人への寄付金が他と段違いだからである。
特に各学年のA組に在籍している生徒達はそんな事情のある生徒達ばかり。
採用されたばかりの頃はそんなバカなと思ったのだが、まさに〝学校にとってのAクラス〟の生徒達なのである。
教師達には、彼らの保護者の名前と職業が書かれた名簿、つまりは取扱説明書が配布され、特別扱いを奨励されている始末だ。
「モタモタしてんじゃねーよ、ババア」
と、高久が言うと、他の生徒達がどっと沸いた。
今まで、
確かに、十代後半の彼らにとって、三十代の自分はババアの部類に入るのであろう。だがしかし。
「・・・ちょっと、
数歩前を歩いていた学年主任の
「靴も、なんですか。学校指定の運動靴ではなくて、あなた私物じゃないの?!」
ああ、と高久は足を上げて見せた。
外れたマジックテープが
「・・・ああ、オバちゃんは知らないか。これね、シブツっていうブランドじゃなくてドルチェアンドガッパーナっていうんだけど」
アハハ、とまたクラスメイト達が笑った。
靴なのにドルチェとはなんのデザートか、今風で言うのであればスイーツであろうか、と環は少し考えたが、笑われたのにムッとしてまた口を開いた。
「だったらそのご自慢のスイーツの、ペッタンくらいはしたらどうなの」
「はあ?・・・なんだよ、その、スイーツのペッタンて・・・・?」
ちょっと、とその手をまた環が弾いた時、見かねた様子の学年主任の数学教師の
「やめてください、金沢先生。一般の方がいらっしゃるんですよ」
一般人のせいにしているが、これ以上、A組の生徒達を刺激するなということだ。
いつもそう。いつもそうだ。
こんな時、いつも彼はそう言ってその場を収めようとするのだ。
やめなさい、やめなさいって。それは、私なのだろうか。
思わず涙が出た。
それは、ほんの少しだったけれど。
悔しかった。やるせなかった。
もういい、と、
「イヤァッ!!キィャアア~ッ」
という悲鳴に、えッ!?とその場にいた全員がその声がした方を見た。
それが、
「え・・・、先生、だいじょうぶ、ですか・・・?」
と、
彼は、なぜか内股のまま手を開いて両腕を突き出した。
「お・・・っとっと・・」
と左足を後ろに伸ばした時、足元の石が動いた。
雲ひとつなかったはずの空に突如ひとつの雲がわき、雷鳴が轟き、稲妻が走った。
鋭い閃光に、さすがにその場にいた全員が、悲鳴を上げた。
そして、その湖の端っこに、派手な水しぶきが上がった。