第1話 女教師、災難に遭う

文字数 3,566文字

  秋の裏磐梯(うらばんだい)は、(ふもと)より5度は冷える。
どこまでも澄んだ青い空に、錦秋(きんしゅう)これにありと思える見事な紅葉(こうよう)
そして水に含まれる鉱物や、水底に沈んだ落ち葉や朽木、水棲プランクトンの不思議な命の営みにより様々な色の沼が魔法のように広がる。
五色沼と呼ばれる所以だ。
一番大きな毘沙門沼(びしゃもん)沼のそのとろりとした青色が、瑠璃(るり)という色であると教えてくれたのは、まだ少女の頃に密かに恋心を寄せていた世界史の教師であった。
今思うと、だいぶ強面(こわもて)のお笑い芸人コンビの目が細い方に似た彼の何がそんなに輝いて見えたのかわからないが、まあ若気の至りであろう。
私立旭鷲山学園高等学校(しりつきゅくしゅうざんがくえんこうとうがっこう)の養護教諭、つまり保健のオバちゃんである金沢環(かなざわたまき)は、そんな淡いパステル画のような乙女の頃の記憶をふと思い出して、人知れず顔を赤らめた。
あの頃の自分は、きつく編んだ二つの長いおさげをまた後ろで結んだ、そんな少女だった。
校則は、髪留めも黒紺茶のみ、前髪は全てピンで留めるか、眉毛の一センチ上で切り揃える事といういろんな意味で厳しいものであったし、その上自分はド近眼でもあるので、真っ直ぐに切り揃えられた味海苔のような前髪の下に、黒縁の眼鏡も顔に乗せていたわけで。
今思っても・・・。
「ダッセーよなー!」
背後から大きな声でそう言われて、悲鳴を上げそうになった。
振り返ると、二年A組の高久(たかく)が心底嫌そうに毒づいていた。
「なんで修学旅行が今更、沼なんだよ、沼?!一昨年は沖縄で、去年はLAで、なんで今年はこんな山奥なわけ?!
生徒とはいえ、高校生男子である。
身長など自分より頭一つ分高い。
はっきり言ってこんな素行の悪い生徒は街のチンピラや、冬眠明けの飢えた熊並みに恐ろしい。
昨日は市内にてフルーツ狩り食べ放題ツアーだった。
しかし、参加者はおしゃれで意識高い系の女子でもなく、老人会のお日和クラブでもない。
高校生男子である。桃や梨やぶどうを、うめーうめーと騒ぎながらまるでスナック菓子のように次々とぺろりぺろりと食べてしまうのだ。
(たまき)など、桃なんて二つも食べたら満腹になってしまうというのに。
食べ放題という割に、食べたら食べた分だけの支払いだから、後でとんでもない金額が学校に請求されてくるんだろう。
「お前ら、もう食うな!」と学年主任の教師が青くなっていた。
果樹園の持ち主の奥様が生徒達があんまり食べるものだから、この子供たちはきっと腹が減っているのだろうと気の毒がって、自宅から煮物だのおにぎりだの、戸棚のまんじゅうまで振舞ってくれて、生徒達は猛獣のように鍋に群がってがっついていた。
こっちは恥ずかしくて、すいませんと平謝りだ。
「いいのよう。先生ぇ、このくらいの男の子は、食べるものぉ〜」
懐かしいのんびりした口調でそう言われ、救われた気分だった。
「うちもねえ。男の子三人だからぁ。昔は、お米なんて、日に一升を二回炊いてたのよぉ」
10合炊きの炊飯器で、朝晩二回?!
嫌だ、そんな生活。
「・・・最悪ですね・・・・」
つい、本音が漏れた。
「そうなの!あはは。ほらあ、すごい食べてる、食べてるわぁー」
嬉しいと面白いが混ざった声で彼女は笑った。
どこか、動物園の大型動物がさかんに餌を食べている時の感想のような・・・。
帰り際に、先生ぇ、これ持って行ってと、箱入りの果物をいくつも頂いた。
素人には見た目にわからないが、農協に出荷できない傷物の桃や梨やぶどう、ちょっと早い早生種のりんごをたくさん貰った。
「あざっす、また食う!」と生徒達は大喜びで果物のキャラクターが描かれたダン箱を担いで次々バスに乗り込んでいく。
「しかし、こんなに食わっちゃら、おれ達は嬉しいけども、学校さんは大変だなあ。ちぃっと安く請求書出しとくからよぉ」
果樹園のオーナーが、おかしくてしょうがないというように言った。
盆地のうだるような残暑。
時たま山から下りてくる風が果樹園を通り抜けていく。
「・・・もう秋なんだなあ・・・」
ちょっと自然の情緒を感じていた環に、「どこがだ、ババア、こんな暑っちーのに」と生徒の一人がバカじゃねえのと突っ込みを入れて通り過ぎて行った。
「ババアって言うんじゃありません!」
と怒鳴りつけたが、全く堪えた様子も無い。
いや、これは秋の風なのだ。
間違いない。
環はこの町の出身なのである。
とはいえ、大学進学のために上京したので、離れて久しいが。
移動のバスの中で、昨日貰った果物食おう、とまた食べ始めた生徒達に呆れて(たまき)はため息をつき、自分もまたぶどうを一粒口に放り込んだのだった。
昼食に餃子を山ほど食った後なのに、よくもまああんなに食えたものだ。
昨日は食べたら食べた分だけ支払うので、果物を食わせすぎない為に、昼食後の十二時五十分という絶妙なセッティングだったのに教師の思惑は水の泡だ。
今日は五色沼(ごしきぬま)湖畔を散策するというスケジュールであるから、動きやすいよう学校指定の運動着姿である。
「おーっ、この桃、チョーうまいんだけど!」
一晩置いたら熟成が進んだとか何とか。
歩きながら桃にかぶりついているこの高久(たかく)はいわゆる素行不良で有名な存在であった。当然のように遅刻、無断欠席、環が不在中に保健室で詐病で寝ていたり、ぱっと思い当たる不良的言動は日常的であり、どうやら、昔でいう刺青、今で言うタトゥーが胸に入っているという噂である。
だから体育がプールの日はサボるし、プールや温泉は出禁なのだと教師たちの間でも語り草である。
それでも、特別な制裁措置が取られて来なかったのは、ひとえに彼がさる有名企業の御曹司であり、彼の父親からの学校法人への寄付金が他と段違いだからである。
特に各学年のA組に在籍している生徒達はそんな事情のある生徒達ばかり。
採用されたばかりの頃はそんなバカなと思ったのだが、まさに〝学校にとってのAクラス〟の生徒達なのである。
教師達には、彼らの保護者の名前と職業が書かれた名簿、つまりは取扱説明書が配布され、特別扱いを奨励されている始末だ。
「モタモタしてんじゃねーよ、ババア」
と、高久が言うと、他の生徒達がどっと沸いた。
今まで、毘沙門(びしゃもん)沼の素晴らしい青色に魅了されていた一般の観光客が、眉をひそめながら足早に通り過ぎていく。
確かに、十代後半の彼らにとって、三十代の自分はババアの部類に入るのであろう。だがしかし。
「・・・ちょっと、高久(たかく)くん。あなたね、修学旅行なんだから、学校行事です。もうちょっときちんとしなさい」
数歩前を歩いていた学年主任の白鳥(しらとり)という教師が苦い顔をしたのがわかったが、環は続けた。
「靴も、なんですか。学校指定の運動靴ではなくて、あなた私物じゃないの?!」
ああ、と高久は足を上げて見せた。
外れたマジックテープが(たまき)をバカにしたようにひらひらと揺れた。
「・・・ああ、オバちゃんは知らないか。これね、シブツっていうブランドじゃなくてドルチェアンドガッパーナっていうんだけど」
アハハ、とまたクラスメイト達が笑った。
靴なのにドルチェとはなんのデザートか、今風で言うのであればスイーツであろうか、と環は少し考えたが、笑われたのにムッとしてまた口を開いた。
「だったらそのご自慢のスイーツの、ペッタンくらいはしたらどうなの」
「はあ?・・・なんだよ、その、スイーツのペッタンて・・・・?」
高久(たかく)がうぜえ、と言いながら、環の手を振り払った。
ちょっと、とその手をまた環が弾いた時、見かねた様子の学年主任の数学教師の白鳥学(しらとりまなぶ)(たまき)の腕を掴んだ。
「やめてください、金沢先生。一般の方がいらっしゃるんですよ」
一般人のせいにしているが、これ以上、A組の生徒達を刺激するなということだ。
いつもそう。いつもそうだ。
こんな時、いつも彼はそう言ってその場を収めようとするのだ。
やめなさい、やめなさいって。それは、私なのだろうか。
思わず涙が出た。
それは、ほんの少しだったけれど。
悔しかった。やるせなかった。
もういい、と、(きびす)を返そうとした時に、突然、ごぉっと突然強風が吹き、地鳴りかと思うような雷鳴が(とどろ)いた。
「イヤァッ!!キィャアア~ッ」
という悲鳴に、えッ!?とその場にいた全員がその声がした方を見た。
それが、白鳥(しらとり)だったことに、全員が狼狽した。
「え・・・、先生、だいじょうぶ、ですか・・・?」
と、(たまき)が確認の為に声をかけた時、また空で雷鳴がごろりごろりと唸った。
彼は、なぜか内股のまま手を開いて両腕を突き出した。
(たまき)は当然、押されて体が後ろに傾いだ。
「お・・・っとっと・・」
と左足を後ろに伸ばした時、足元の石が動いた。
雲ひとつなかったはずの空に突如ひとつの雲がわき、雷鳴が轟き、稲妻が走った。
鋭い閃光に、さすがにその場にいた全員が、悲鳴を上げた。
(あお)の湖に(にしき)の紅葉、そして宙を走る銀の稲光は、まるで一枚の艶やかな劇画のようであった。
そして、その湖の端っこに、派手な水しぶきが上がった。
 
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登場人物紹介

◇ 金沢 環 《かなざわ たまき》


私立旭鷲山学園《しりつきょくしゅうざんがくえん》の、養護教諭。

いわゆる保健のおばちゃんながら、人手不足の為に担任も持たされている。

日々、クラスの男子高生に手を焼いている。

世間に疲れ始めた30代前半。


既婚。夫は警察官。

都内の夫の実家で夫の母と別世帯の二世帯同居。

◇ 高久 五十六 《たかく いそろく》


私立旭鷲山学園《しりつきょくしゅうざんがくえん》の高校2年生。

態度が悪いが、父親が大手商社のCEOで、大口寄付をしている為、学校側に忖度《そんたく》されて野放し。

5月16日生まれなのが名前の由来。

ブランドモノを好むが服のセンスは悪い。


父と兄がいる。

◇金沢 諒太 《かなざわ りょうた》


環の夫。警察官。

激務で不在がち。

◇ 一ノ瀬 紫《いちのせ ゆかり》


私立旭鷲山学園の音楽教師。

吹奏楽部顧問。

音大出身で、学園長の姪。


環の同僚。

環の事は好きなタイプではないので、あまり積極的に関わっていない。

同性の友人が少ないタイプ。

◇ 白鳥  学  《しらとり  まなぶ》


私立旭鷲山学園 二学年の学年主任。数学担当。

教頭候補。

進学特進クラスの担任。


親の七光くクラスと揶揄される、環《たまき》のクラスの生徒をよく思っていない。

◇ 一ノ瀬 幸太郎 《いちのせ こうたろう》

私立旭鷲山学園《しりつきょくしゅうざんこうこう》の学園長。


紫《ゆかり》の叔父。

◇  高久 一三 《たかく かずみ》


五十六《いそろく》の兄。

家業の高久商事に勤務して居るが、就職以来、度重なる転勤と出張の生活。

実家にはあまり寄り付かずに、本社の近くにマンションも所有して居るが、そもそも転勤ばかりしている為にそこにも居付けない。

名前の由来は一月三日生まれ。

◇ 高久 九十九 《たかく つくも》


高久商事のCEO。

一三《かずみ》と五十六《いそろく》の父親。

出張が多く、不在がち。

まだ学生の五十六《いそろく》の事は、家政婦のしなのに任せて居る。


早くに結婚したが離婚。

九月十九日生まれが名前の由来。

◇ 青柳 倫敦 《あおやぎ ともあつ》


海天堂病院の心臓外科医。

五十六《いそろく》が子供の時からの主治医の一人。


伝説のゴットハンド ドクター 鬼首 静香《おにこうべ しずか》 通称鬼の静香《おにのしずか》女史の弟子。

◇ 三条 昭和 《さんじょう あきかず》


美容師。

紫《ゆかり》が長年通って居るサロンのオーナー。

通称アキラ。

異性交友関係が派手。

◇ 毘沙門天  《びしゃもんてん》


仏神であり、天部四天王。

五穀豊穣や家内安全等の信仰を担う七福神の一人でもある。

激務の為、しばし休憩しようとした場所で、環《たまき》と五十六《いそろく》と出会い、手違いを起こす。

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