汝の敵を愛せよ

文字数 1,743文字

 光村光子は人気漫画家だった。美麗な絵柄が特徴的で、主な読者層は女子高生から主婦など。今はちょうど長期連載が終わったところで、コミックスの作業や新連載のネタを練っているところだった。

 華やかに見える仕事だが、やってる事は肉体労働だ。締め切り前は、風呂や睡眠、食事をカットし、仕上げるような生活になり、同業者の病気のニュースを聞くたびに、他人事ではない。もうアラサーだし、若い頃のような無茶は出来ないと思いつつも、仕事があるだけありがたい。依頼されたものは全部受けるのがモットーだった。

「はあ、ネタが浮かばない」

 今は新連載の準備期間中なので、体力的には余裕があるが、ネタが浮かばない。一人、仕事部屋の机に齧り付き、ノートを開き、キャラクター設定をつくっていくが、良い感じに纏まらない。今はシンデレラストーリー系もブームで、編集者からいじめれているヒロインを所望されたが、ネタが浮かばない。そんなヒロインを描こうとしても「やり返せばいいのに」と思う。

 ヲタクなイメージもある漫画家だが、厳しい競争を勝ち抜いて連載枠を掴んだもの達だ。並のメンタルではやってない。正直「いじめられて卑屈になっているだけで、白馬に乗った王子様がやってくるとか考え甘くない?」と思うが、読者はそういうものが好きなので、需要に答える必要もあった。

 気分転換にスマートフォンをだし、同業者の漫画なども見てみる。特に光子と同期の塩野汐子の漫画は、今人気みたいで、電子書籍のランキングでも上位。

 気分転換にならなかった。むしろ、汐子に嫉妬のような感情も芽生えていく。同じ雑誌に描き、ライバル的な立ち位置の漫画家の活躍は楽しいとは言えない。

「SNSでも見るか」

 とりあえず、今日は新連載の仕事はやめ、SNSでも見てみる。心理カウンセラーのインフルエンサーの投稿が目に入る。今、バズっている投稿が目立つところに出ていた。

「自分と気が合う人とだけ付き合いましょう。嫌いな人と無理に付き合う事はありません。自分を愛しましょう。自分を愛せば全て上手くいきます」

 そんな、甘くて綺麗な言葉が書いてあった。仕事にストレスを感じていた光子は、この言葉が嬉しく思う。同業者の評判など調べても仕方ない。

 来週はサイン会もあるし、この言葉の通りに自分を大切にして生活しよう。

 都内の書店のサイン会当日。たくさんのファンに囲まれ、実に幸せな時間を過ごした。アンチもいないし、批評するライターとかもいない。

 先生、先生と持ち上げられて良い気分だ。ちょっとした「教祖」になったような感じ?

 しかし、だからと言って新連載のアイディアも浮かばず、担当編集者からは没続き。体調不良にもなり、しばらく休養する事になった。医者からは過労と診断され、二ヶ月程度の休養が必要となった。

 自宅のベッドの上でゴロゴロしながら、自分を愛するだけじゃダメなんじゃないかと思い始めた。このままだと、自分がベッドと一体化して、人生が腐りそうな悪寒もする。

 自分を愛そう。

 そんな甘い言葉も、別に自分を何も変えなかった。それどころか、もっと悪化させたような気がする。思えば、自分の事なんて生まれた時からずっと愛してる。家族や友達、仲間であるアシスタントやファンも愛してる。道行くどうでもいい他人やコンビニ店員は表面的に優しく接する事も出来る。あるいは遠く離れたアフリカの子供に募金できたりするが、自分の作品にマンチコメントを書く読者や同業者には、優しく出来ない。

 そういえば、誰かが「敵を愛せ」なんて言ってた気がするが、よく思い出せない。歴史の教科書の偉人か誰かの言葉だった気がするが。

 今はその教えの方が、ベッドと一体化しそうな自分には必要な気がする。周りにイエスマンしか置かない同業者の先輩は、かなり性格悪かった事なども思い出す。

 白馬に乗った王子様がいないように、都合が良いだけの人間関係もないのかもしれない。親でも100%は分かり合えない。

 それに甘いものばかり食べていたら病気になる。たまには、甘くない言葉を咀嚼しても良いだろう。

 とりあえず、同業者の汐子の漫画でも読んでみようか。敵を愛するなんてハードルが高すぎるが、それぐらいなら今の光子にも出来そうな気がした。
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