(五)

文字数 3,782文字

 九月になり、朝夕、めっきり冷え込むようになった。晴れ渡った青空に、刷毛(はけ)でいたずら書きしたような巻雲(けんうん)が広がっている。リョウの好きな季節だが、辺りでは兵士たちが馬車に食糧を積み込んだり、隊列を組んで軍営を出て行ったり、騒然としていた。
 あの夜以来、リョウは突厥(とっくつ)の兵士だったことを隠す必要が無くなり、皇甫(こうほ)惟明(いめい)褚誗(ちょてん)も、突厥での軍馬の調教方法や、兵士の訓練方法など、いろいろ聞いてきた。それは、純粋に軍人としての興味から聞いてくるものだと感じ、リョウも楽しかった。
 皇甫惟明はよほど馬が好きなのだろう、その後も、リョウが調教する馬場によく顔を出していた。その日も新しく入った馬を乗りこなし、リョウと意見をかわしていると、一人の男が近づいてきた。
「おっ、困った奴が来た。あいつの前では、お前の突厥の話も、長安の悪口も無しだぞ」
 男は、宮廷貴族の衣服を身につけ、話し方も軍人というよりは役人のようだった。
「おや、皇甫将軍。吐蕃(とばん)の攻撃が近いというのに、馬丁(ばてい)と一緒に、馬の世話ですか」
 男の話しぶりは、ずいぶんまったりしたものだった。
「霊州の軍馬牧場に、飛び切りの青海駿(せいかいしゅん)を送ってやろうと思ってな」
「そんなことより、ご自分の軍は、準備がよろしいのですか。長安からは、早く石堡(せきほ)(じょう)を攻め落とせと、矢の催促です。速やかに出陣しなければ、怠慢の(そし)りを逃れられませんよ」
「日ごろから兵馬を養うは将の務め、心配するな、明後日には出陣じゃ」
「それは結構でした。私も、勝利するところを、しっかり確かめさせて頂きますよ」
 リョウにチラリと目をやり、その男は去って行った。
「あいつは長安から送られて来た監軍使(かんぐんし)(勅命を受けた軍事の監督官)の(ちょう)元昌(げんしょう)だ。科挙を通った俊才らしいが、何のことはない、剣も振れなければ弓矢も射れない。馬の尻ならまだいいが、()林甫(りんぽ)の尻にしがみついているだけの奴だ」
 皇甫惟明が、苦々しい顔で言い捨てた。李林甫という名を聞くのはこれが二回目だった。褚誗(ちょてん)も忌まわしいもののように、その名を口にしていた。いったいどういう人なんだろう、とリョウは思った。

 その夜、リョウはまた皇甫惟明の食卓に呼ばれた。副将の褚誗(ちょてん)が、親衛隊長の(ばん)長林(ちょうりん)を紹介してくれた。リョウより少し背が低く、がっしりした体躯だが、けだるそうな歩き方や眠そうな眼からは、隊長らしさは感じない男だった。しばらくして朱ツェドゥンも加わり、五人での会食となった。
 皆の会話が途切れたところで、リョウは昼の監軍使の件を思い出して、皇甫惟明に訊ねた。
「“せきほじょう”というのは、どこにあるのですか?」
「青海湖の南にある。ここから三日ほどだ」
「“せきほ”とうのは、どういう字を書くのですか」。
「お前は、漢字を書けるのか。石に、堡だ」
 そう言って、皇甫惟明は空中に指先で“保”と“土”を書いた。
「“堡”という字は、土と石で造る出城という意味だ。石堡城はその名の通り、城というよりは、石を積み上げて造った砦と言った方が良いだろう」
 褚誗(ちょてん)が、苦い顔で補足した 
「だが、石堡城の周りは、三面が切り立った断崖で、門に到るたった一つの道も狭い急坂だ。周囲には木もほとんど生えていない。攻め上る兵士は砦から丸見えで、弓矢の餌食だ。攻めるに(かた)く、守るに(やす)しというのは、ああいう城を言うのだろうな」
「朱ツェドゥンは、金城公主が没した後、吐蕃が石堡城を奪い返したと言ってましたね。そんな堅固な城が、どうして奪われたのですか」
 そこに居た皆が、親衛隊長の潘長林の方を見た。潘隊長は無精ひげを伸ばした顎に手をやり、いったん皆をぐるりと見回すと、苦渋の顔で話し出した。
「俺は、その戦の数少ない生き残りだ。あれは四年前の冬だった。俺たちは四百人で石堡城を守っていた。食糧と武器を蓄え、城壁から敵に投下するための木や石も山積みにして守備についていた。そこを吐蕃の数万の兵が囲んだ」
 皇甫惟明が、潘隊長の杯に酒を注ぎ足した。今日はリョウが持参した西涼州の葡萄酒が出されていた。
「数万の軍に囲まれても、一ケ月は耐えられるはずだった。そして、俺たちは実際に、二ケ月は踏ん張った。その間、徐々に矢も、食べ物も尽き、生き残った兵士も数十人まで減っていた。敵が昼も夜も雨霰(あめあられ)と降らせた矢を回収し、それを敵に射返すか、城壁を上ってくる敵兵を叩き落すくらいしか戦う方法はなくなっていた。最後まで残った十数名で、夜、城を抜け出し、崖にへばりつき、転げ落ちながら、夜陰に紛れて帰還したのだ」
 褚誗(ちょてん)が、真っ赤な顔で大きな声を出した。
()林甫(りんぽ)隴右(ろうゆう)節度使に抜擢した(がい)嘉運(かうん)が、吐蕃を(あなど)り、朝に夕に、酒ばかり飲んで、援軍を送らなかったのだ」
 朱ツェドゥンが、対照的に静かな声で言った。
「それ以前に、吐蕃は金城公主の喪を告げて、和平を提案したのです。しかし、唐の皇帝はそれを許さなかった」
「それも、吐蕃は弱いから打ち負かせると、功績狙いの取り巻きが、陛下に豪語したからだろう」
 褚誗(ちょてん)が言葉を挟んだが、朱ツェドゥンは静かに続けた。
「今の吐蕃軍は、当時の唐軍よりはるかに周到です。石堡城の守りを万全にするだけでなく、吐蕃の本隊が、唐軍を包囲網の外から攻めて、石堡城を援護する体制を作っています。吐蕃は全力で石堡城を守っています」
「荒野の崖の上に、ポツンと立つ小さな砦が、どうしてそんなに大事なんだ?」
 リョウの素朴な質問には、誰も答えなかった。無言の気まずい時間の後、皇甫惟明が口を開いた。
「戦略的な重要性など、実はあまりない、と考えている。命を懸けて戦う兵士らには、決して言えないことだがな。わしの傘下にいた(おう)忠嗣(ちゅうし)が、わしにこう言ったことがある。“この城は数万の犠牲を出さなければ落とせない。たとえ落としても、吐蕃の撃退には何の役にも立たず、また、たとえ落とせなくとも、唐にとっては何の害も無い”とな。わしも全く同じ考えだ」
「俺には全然分からない。それなのになぜ攻めるんだ」
 再び皇甫惟明は沈黙した。いったいどうしたんだと、リョウが皆を見回すと、皇甫惟明が再び口を開いた。
「今から十五、六年前のことだが、唐軍は、長年、吐蕃に奪われていた石堡城を、力攻めで攻め落とした。大勢の犠牲者が出たが、陛下の周囲の者どもは、国境を千里広げたとはやし立てた。その報告に、陛下はいたく喜び、膨大な褒賞もはずんだ。その城が、四年前に吐蕃に奪われたのだ。わしに言えることはそれだけだ」
 もうそれ以上は()くなとばかりに、褚誗(ちょてん)がリョウを睨みつけ、リョウは首をすくめた。

「ところで、お前の父親はソグド人だと言ったな。お前もソグド商人として生きていくなら、こういう席には慣れておいた方がいいぞ」
 皇甫惟明が、見事な白玉の杯を(もてあそ)びながら話題を変えた。それがどういう意味か分からず、リョウは黙っていた。
「長安の高級な酒楼では、ソグド商人と役人、あるいは貴族連中が、毎日のように美味いものを喰っている。もっとも、金を出すのは、もっぱらソグド商人の方だがな」 
「俺は突厥のゲルで羊の肉をかじっていた男ですから……」
「そうよな。子供の頃に食したものは、幾つになっても懐かしく、美味いものよの」
 その言葉に合わせた様に、給仕が羊の焼き肉の大皿を出してきた。焼いたばかりの肉と(ジャン)の香ばしい匂いが辺りに広がる。これは皇甫将軍の俺への心遣いなのだろうか、とリョウは思ったが、そんなはずはなかった。
「明後日の早朝には、出陣する。石堡城を攻めるのだ、困難な戦いになるだろう。戦の前には肉を喰うのが一番だ。明晩はもう会えんだろう、遠慮なく食べてくれ」
 リョウは、四年前、初めての戦闘に出陣する日の前夜、奴隷武人たちと一緒に食べた夕食のことを思い出した。あの夜も、悦おばさんが、奴隷ではめったにありつけない、大盛の羊肉を出してくれた。そして翌日、コユンが戦死した……ただの羊飼いでいいと言っていたのに。この中の誰かも、二度と帰って来ないかもしれない。
「俺も、一緒に青海に行ってみたい……」
 突然、その言葉が出てきた。何がそう言わせたのか自分でも分からず、言った後でリョウは慌てた。
「いや、戦をしたいということではなくて、青海湖を見てみたいし、石堡城も見てみたくて……」
「馬鹿野郎、俺たちは遊びに行くんじゃないぞ!」 
 褚誗(ちょてん)の大声が響いた。
「すみません」
 その話は、それきりになった。

 その日の締めは、湯気が出ている白餅(蒸しまんじゅう)だった。何か考えごとをしていた皇甫惟明が、熱そうに白餅を持ち替えながら、褚誗(ちょてん)に声をかけた。
「そう言えば、青海湖の(ほとり)に、新しく捕まえた馬が数十頭いるそうだ。戦の前で、誰も引き取りに行けないと報告が入っていたようだが」
「……そんなはずはないのですが」
 褚誗(ちょてん)は否定したが、皇甫惟明は聞いていない。
「そうだ、そこなら最前線でもないし、リョウに頼んではどうかな」
 さらに否定しようとする褚誗(ちょてん)を横目に、皇甫惟明は白餅に(かじ)り付いた。
「ありがとうございます。お役に立てるなら、ぜひ行かせてもらいます」 
 リョウが答えると、褚誗(ちょてん)もしぶしぶ頷いた。ツェドゥンが立ち上がった。
「自分が生まれた国の人間と、母が生まれた国の人間が、殺し合う場だ、私も行かせてもらおう」
 こうして、リョウとツェドゥンも軍に同行して、青海に向かうことが決まった。
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