(六)

文字数 2,344文字

「それで、何のために涼州に行こうとしているのかな」
「傳若さんは、ソグド商人ですから正直に言いますが、私の父もソグド商人でした。(こう)憶嶺(おくれい)、ソグド名はアクリイと言います。ご存じありませんか?」
「康憶嶺か。残念ながら、知らないな。康姓であればサマルカンドの出身だろう。わしは石姓で、タシケントの出身だからな」
「父と母は亡くなりましたが、私には二つ違いの妹がいます。妹も奴隷として(とら)われ、ソグド商人に売られていきました。そのときに妹は、涼州か甘州のソグド人集落に連れていかれると言ってました。その妹を探したいのです。なんとかして、救い出したいと……」
 リョウは、そこで言葉に詰まった。売られていった日、わずかな荷物を胸にゲルの戸口で(うつむ)いていた姿、涙を一杯にためて見返してきたその瞳、最後に「兄さん」と言ったその声……。戦いの日々には、無理矢理、心のどこかに押し込んでいた記憶が急にあふれ出てきて、リョウは顔をそむけた。

 傳若(でんじゃく)は、リョウの変化には気付かぬそぶりで、タンにもなぜ涼州に向かうのかと訊ねた。
「俺には、突厥の奴らと一緒に北へ行くなんていう選択肢はなかった。命があっただけでも拾い物で、とにかく突厥から離れたくて、リョウと一緒に来ただけだ」
「それで、これからどうしたいのかな」
「俺にも行きたいところはある。俺が突厥の奴隷になる前、両親や妹と一緒に住んでいた陽林(ようりん)という小さな町だ。親父は、そこで大工の棟梁をしていた」
「陽林は、霊州の北の前線基地の街だ。そこに行くなら、まず涼州に行って、その先をさらに東へ向かって、黄河を渡らなければいけない。通行証も持たずに、道も知らない者が一人で行くのは無謀だな」
 傳若は、串に刺した干し肉をリョウとタンに手渡した。明日には涼州に着くからと、わずかに残っていた葡萄酒の(かめ)を逆さにして、二人にも飲ませてくれた。リョウも、もう平静な顔に戻って礼を言った。
「葡萄酒は(こう)佇維(ちょい)というソグド商人からよく飲ませてもらいました」
「葡萄酒を飲ませてもらえるとは、リョウは奴隷の中でも特別だったのかな」
「はい、父がソグド商人ということは、突厥の人たちも、康佇維さんも知っていたので、特別に話をさせてもらえたのです」
 言いながら、リョウはヒヤリとした。確かに普通の奴隷が葡萄酒など飲めるはずがない。突厥のためにソグド商人から情報を得るよう命じられていたとか、ましてやネケルとして部族長の子供に仕えて戦っていたとか、知られたらまずいことばかりで、少し油断したなと反省した。
「妹さんも、その康佇維という商人が預かっていったのかな」
 買っていった、と言わないところが石傳若の気遣いなのだろう。
「いえ、妹は(あん)椎雀(ついじゃく)という芸能屋に連れていかれました。奴隷に歌や踊りを教えて育ててくれるのだそうです」
「安姓ならばブハラの出身だ。残念ながら、わしは知らんがな。しかし涼州は西域への入口で、この辺では蘭州に次いで大きい町だ。わしが知らないだけかもしれない」
「そんな大きな都市が、この沙漠の向こうにあるのですか」
「大きいと言っても、リョウが住んでいた長安とは比べ物にならないよ。ただ、ソグド商人だけでなくウイグルや吐蕃(とばん)(チベット)など、あちこちから人が集まっている。中には芸能屋もあるが、芸能屋といってもピンキリだ。ちゃんとした芸を身に付けさせて、唐の貴族に売り込む正統派もいれば、酒場にその手の女を送り込むだけの(たち)の悪い(やから)も多い。妹さんが無事だと良いのだが」
「それは知っています。妹は顔に傷があり、貴族の屋敷で楽な暮らしができるなどとは思ってもいません。だからこそ、一刻も早く妹を見つけ出したいのです」

 焚火に当たりながらしばらく考え込んでいた石傳若は、おもむろに腰の巾着(きんちゃく)から黒い鉄製の札を二枚、取り出した。三寸ほどの縦長で、端に紐を通すための穴が空いている。
「これを持っていれば、隊商の一員として涼州の町に入ることが許される」
 リョウが手に取って見てみると、細かな凹凸模様の上に「唐国河西通行証」と刻印されている。
「隊員が一人死んでしまったことだし、二人ともしばらくわしの隊商で働いてみないか。そうすれば、リョウもあちこち出かけて妹を探すことができる。タンは、いずれ蘭州に隊商を出すときに、一緒に行けばいい。そこからなら、霊州にも、陽林にも行けるだろう。半年ほど後になるがな」
 父と同じ隊商の仕事ができるのか、とリョウは目を輝かせた。
「なにもお前たちを奴隷として働かせようというわけではないんだよ。家人として働いてもらうということだ」
 しかしタンが、困った顔をした。
「俺は、羊や馬の世話しかできない」
「そこがいいんだ。お前たちは馬の扱いには慣れているだろう。わしはな、この隊商を、もっともっと大きくしたいのだ。それには、馬を扱うのが一番手っ取り早い。突厥が退いて行った今が絶好の機会なんだ」
 リョウは、戦争のさなかにも突厥の村を飛び回っていた(こう)佇維(ちょい)のことを思い出した。商人というのは、何でも目ざとく、自分の利益になることを考えるものだなと、その逞しさに半ば感心し、半ばあきれる思いだった。俺にはそんなことはできないな、と思ったものの、思いがけない石傳若の申し出に、断るという選択肢は無かった。むしろリョウにとっては、願ったりかなったりのことで、すぐに受諾した。タンも、いずれ蘭州に連れて行ってもらえるならばと、申し出を受け入れた。

 駱駝の鈴の音が聞こえて、リョウはふと眼を上げた。いつの間にか、風は止み中天に(まる)い月がかかっていた。闇は青みがかり、砂丘に駱駝の影が映し出されている。冴え冴えと輝くその月に向かって、どうかこの先の道を照らしてください、とリョウは心の中で祈った。

(「隊商の道」おわり)


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