(十四)

文字数 1,757文字

 昨晩からの嵐は収まりつつあった。雨は小雨になり、風も弱くなっていた。
 幕舎で倒れ込んでいたリョウは、ようやく起き上がって外に出た。真っ黒だった雲も、しだいに薄くなり、西の方から明るくなってきている。本陣の軍営からは、南東にある石堡(せきほ)城を背に、三方の荒野が見渡せた。四里(約2km)ばかり先の、小高くなった場所に皇甫(こうほ)惟明(いめい)の大将旗が見える。その左手、南西の要害から吐蕃(とばん)の本隊が繰り出して来て、そこが主戦場になっていた。吐蕃軍は、騎兵が中心で、六千騎はいるだろうか。しかし唐軍も、石堡城の包囲を一時的に解いて、吐蕃の攻撃に備えたので、兵力は吐蕃の数倍はいるように見える。ただ、その大半は歩兵で、主力となる騎馬は七、八千騎かな、とリョウは見た。
 荒野の戦いでは、騎馬の機動力が圧倒的に強みになる。ほぼ、互角の戦いだな、とリョウは思った。よく見ると、リョウが発見した敵の伏兵は未だ参戦していないようだった。しかし唐軍は北の青海湖方面の備えも怠りなかった。皇甫将軍の周りにも、まだ二千騎ほどが待機して、戦況を見ている。伏兵による奇襲に備えているのだろう。
―― ここから先は、俺の戦いではないな
 そう思ったリョウは、戻った軍営に(ばん)長林(ちょうりん)がいないことが気になった。せめて顔を見てから戻ろうと思っていると、石堡城の方から勝鬨(かちどき)が聞こえて来た。褚誗(ちょてん)はついに石堡城を落としたのか、そう思って振り向いたリョウは、愕然とした。石堡城の城壁には、相変わらず吐蕃の旗がはためき、胸壁(きょうへき)狭間(はざま)では、吐蕃兵たちが剣を突き上げて、何度も勝鬨を上げていた。
 リョウは、思わず石堡城の方向に走った。石堡城の坂の下には、大勢の負傷した兵士たちが(うめ)いていた。リョウは、褚誗(ちょてん)を、そして潘長林を、探し回った。
 負傷者を覗き込んでいるリョウに声をかける者があった。リョウのために、大槌を担いで城壁を上った、あの大柄な兵だった。
「潘隊長なら、あちらにいます」
 そう言われて向かった先の地面に、潘長林は横たわっていた。自分の傷なのか返り血なのかも分からないくらいに、顔にも手足にも半ば乾いた血がこびりつき、包帯を巻かれた脇腹や腿からは、まだ血が(にじ)み出ていた。
「大丈夫か」
 潘は、いつもの眠そうな眼に戻っていた。
「ああ、何とかな。しかし、褚誗(ちょてん)はだめだった」
 リョウは絶句した。せっかく正面の門を開けて、副将の褚誗(ちょてん)率いる唐軍を石堡城内に導いたのに、そんなことがあるものだろうか。潘長林が、苦しそうに息をしながら、ゆっくりと話し始めた。
「俺も抜かった。褚誗(ちょてん)を連れて、石堡城の奥に向かったが、その前方に上から巨大な木の柵が落ちて来た。俺がいた時には、そんなものは無かったんだが。前を(ふさ)がれて、兵たちは恐慌をきたした。入って来た門に戻ろうと殺到したが、大きくは開かず、積み重なるように倒れ、まさに袋の鼠になってしまった。そこを城壁の上から、(あめ)(あられ)と矢や石を浴びせられ、戦うすべも無かった」
 潘長林は、目を閉じ、(つぶや)いた。
褚誗(ちょてん)(すご)かったぞ。最後の最後まで部下の将兵を守り、俺もあいつに門から外に押し出された。振り返って見たとき、全身に矢を浴び、槍で腹を突き刺されていたのが、あいつの最期だった」
 一呼吸置いた潘長林は、左手を浮かせ、リョウはその手を握った。
「ありがとうよ、リョウ。徒労に終わってしまったが、お前のことは忘れない。もう戦わなくていいから、早く牧場に戻るんだ」
 そう言ったきり目を閉じ、もう何も話さなくなった。
  
 間もなく、北西の方角から新たな吐蕃の騎馬隊が湧き出てきて、皇甫惟明の本陣に向かって突進してくるのが見えた。海老茶の甲冑(かっちゅう)と濃緑の甲冑が見える。リョウが谷間で見た吐蕃の最強部隊、カブー軍とホルカン軍だった。それに加えて、濃紺の甲冑も見える。朱ツェドゥンが言っていた精鋭ぞろいのゴチェン将軍の部隊だろう。併せて二千騎はいそうだ。しかし、それにも唐軍は準備していた。丸太の先を尖らせた防御柵の裏に長槍(ながやり)を持った兵を並べ、一気に突破されないように防ぎ、そこを進入してきた敵には、待ってましたとばかりに騎馬隊が襲い掛かった。数なら唐軍は負けないだろう、とリョウは思った。
 この戦場に残る理由はもう何も無かった。リョウは、馬に飛び乗り、戦場とは反対の、東に向かって走り出した。
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