(二)

文字数 2,154文字

 食事の片付けが終わって、シメンは宿舎の部屋に戻った。奴隷の宿舎は、板と煉瓦(れんが)、それに粘土の壁で造られていて、主人の住居に併設されている。ソグド人も、もとは突厥(とっくつ)人と同じ遊牧民だったのだろうが、この町の商人たちは、城外のゲルではなく城内の建物で暮らしている。ただ、シメンからすると、ここの隙間だらけの建物よりゲルの方がよほど快適だと思われた。
 小間使いの奴隷の部屋は小さく、そこに四人が詰め込まれているので、くっついて雑魚寝(ざこね)するのがやっとだ。床に敷いたフェルトの布、枕元の布袋に入っているわずかな着替えと木彫りの馬、それがシメンの全財産だった。フェルトの布は、突厥から持参したもので、悦おばさんが用意してくれたものだった。

 シメンには、誰にも内緒で大切にしているものがある。草原で暮らした時に母がいつも身に付けていた首飾りである。青金石(せいきんせき)(ラピスラズリ)に革の紐を通したもので、賊の刃で倒れた母の(くび)から、父が外してシメンに渡してくれたものだった。
 奴隷がそんなものを持っていたら、盗んだのではと難癖をつけられ、取り上げられてしまうだろう。それを見越してリョウが作ってくれたのは、首飾りを隠すための木製の仕掛箱で、さらにその仕掛箱を木彫りの馬の腹に仕込んでいた。木彫りの馬にはわざと泥で汚した(あと)があり、周囲の人間にはどうしてシメンがそんなものを大事にしているのか、わからなかっただろう。シメンはただ「兄が作ってくれた思い出の馬」とだけしか説明していなかった。その木彫りの馬は、自分が世話していた愛馬のグクルに似ており、まんざら嘘でもない説明だった。
 この馬を眺めていると、日により喜んで見えたり、悲しんで見えたりするので、それは自分の気持ちを映しているのだろうとシメンは思っていた。それがこの頃は、どちらにも感じないことが増えていることに、シメンは気付いていた。

 シメンの部屋からは、稽古場の音が良く聞こえる。稽古場は宿舎に併設されていて、半分は土間、半分は板張りで、踊りの種類によって使い分けられる。土間は開放されていて、外から稽古を覗き見ることもできる。
 シメンは、いつものように部屋を出ると、胡旋舞(こせんぶ)の稽古を見に行った。稽古場の近くでは、通行人が立ち止まって稽古を見物したり、子供達が稽古を真似て、てんでに踊りながら遊んでいる。うるさ過ぎると追い払われることもあるが、人に見られるのも稽古のうちなのだろう。
 シメンは、そんな見物人から少し離れた木の陰で、一人で稽古を見ていた。シメンが近くに寄ると、何人かの踊り子から、あからさまに侮蔑の眼を向けられるからだ。それでも、シメンは見たかった。自分も踊ってみたかった。木の陰で、音楽に合わせて手足が勝手に動くのを止めることはできなかった。

 シメンは短い休憩が終わると、今度は畑仕事に出かけた。寒くてもあまり雪が降らないこの地では、突厥(とっくつ)と違って、冬場でも蕓薹(うんだい)(アブラ菜)や豆が栽培できる。蕓薹の葉は冬場の貴重な野菜で、花も食べられ、種からは油も取ることができる。
 雑草を抜き、大きく育つようにひ弱なものは間引きし、倒れそうになっているものには支柱を立ててやる。子供と同じで、世話をすれば世話をするほど野菜は良く育つのだと、子供のいない悦おばさんが言っていたことが思い出される。シメンは、ただ黙々と土に向かうこの時間が嫌いではなかった。

 午後の休み時間にも、シメンは稽古を見に行った。午後の稽古は、ここに来て間もない者たちが主で、シメンが舞の基本を学ぶにはちょうど良いのだ。シメンよりも若い女たちに混じって、幼い女児も何人かいる。
 上級者にならないと楽器に合わせた練習はできないので、踊り子たちは教師が机を叩く棒の音に合わせて身体を動かしている。その二尺(約60cm)足らずの木の棒は胡旋舞で使うもので、本来は色とりどりの絲帯(リボン)を先端に付けるものだ。シメンもその棒の動きに合わせて、足を踏み、手をしならせ、身体をクルクルと回した。
 遠くからは、竹笛や琵琶(びわ)、木琴の音が聞こえてくる。舞と楽器の両方ができる胡女(こじょ)は珍重され高く売れるから、踊りの合間に楽器の練習もするのだ。ただ、腕前はまだまだのようで、調子はずれの音にシメンは思わず笑ってしまった。

 いつの間に近づいていたのか、後ろから甲高(かんだか)い声がした。
「何をニヤニヤしてるんだ、この子は」
 芸能奴隷のレオパが、その気が強そうな切れ長の眼でシメンを(にら)みつけていた。何人かの取り巻きを引き連れている。
「あっ、すみません。笛の、」
 皆まで言う前に、レオパがシメンの髪の毛を(わし)づかみにした。
「お前はいつもあたし達の稽古を(のぞ)き見してるだろ。うざいんだよ、それが。お前に見られるだけで、あたしの舞が腐ってしまう」
 髪をつかんだ左手はそのままに、右手の人差し指でシメンの顔の傷をなぞる。
「こんな傷もの、“おとうさん”はよく買って来たもんだね。お前なんか、ここで暮らせるだけでも幸せだと思え。奴隷は奴隷らしく、羊の世話でもしていろ」
 両手でふいにドンと両肩を押され、シメンは木の根元に尻もちをついた。尾骨に木の根が当たり、その痛さにシメンは思わず(うめ)いた。そのシメンを指差して「ほんとに、とろい子だね」と笑う取り巻きを連れて、レオパは去って行った。
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