(八)

文字数 3,111文字

 リョウは馬の世話をしながら、しばらく青海湖の(ほとり)の馬場で過ごした。進は、馬の扱いに手慣れていた。しかし、リョウの調教の上手さを知ってからというもの、何かとリョウに話を聞きたがった。皇甫(こうほ)惟明(いめい)は、それも見越していたのではないか、とリョウは思った。それだけでなく、手が空いた時間には、騎射のコツや、剣術まで習いたがった。
「俺の親父は、蘭州(らんしゅう)の近くにある牧場の馬丁だった。俺が兵隊にとられたとき、親父は“この子は剣よりも馬の扱いが上手(うま)い”と役人に言ったので、軍付きの馬丁にされてしまった。俺は、本当は将軍になりたかったんだ」
「止めておけ。人を殺す兵士なんぞより、馬丁の方が、よっぽど幸せだ。お前を戦場に送りたくなかった親父さんに感謝するんだな」
「リョウは、突厥(とっくつ)の戦場も知ってるって聞いたよ」
「そんなことは忘れた。俺は、もう人は殺したくない。馬商人で良かったと、心から思っている」
 そうは言いながらも、リョウは進が持ってくる弓を引き、剣を交わすのに付き合ってやった。
「こんな弓を、馬上で使えるはずがないだろう。騎射をするには、もっと短い弓じゃないとだめだ」
「それなら、吐蕃(とばん)軍が捨てていった弓がある、これならどうだ」
 そう言って進が取り出してきた短弓を受け取り、馬を走らせながら的に命中させてやると、進は飛び上がって喜んだ。
突厥(とっくつ)は、十万の騎馬兵で戦うって聞いたけど、どうやってそんなに多くの馬を動かせるんだ」
「突厥の軍は、百人隊を組み合わせて、千人隊、万人隊を作っている。それぞれ隊長を中心に、左右の隊を置くのが基本だ。敵味方が分かるように、それぞれの隊は自軍の旗を持っている。それで、万人隊の隊長が采配を振れば、左右の千人隊長が動き、千人隊の隊長が采配を振れば、その左右の百人隊が動く。あとは、太鼓の音だな」
「ふーん、それなら俺の旗はこれだな」
 そう言って進は、柵に立ててある大きな四角い旗を指差した。それは、青地に白く馬の形を染め抜いている。
「きれいな色だな」
「ここの湖と空の色だ。それに、馬の色は雪山の白だ」
 進は、牧場の馬丁たちを指差した。
「今残っているのは、唐の戸籍にも載っていない漢人、それに吐蕃や吐谷渾(とよくこん)孤児(みなしご)なんだ。この牧場は、そんな奴らが安心して暮らせるよう、皇甫将軍が作ったんです。だから、将軍がこの旗を作ってくれた時も、“これは軍旗じゃない、青海牧場のみんなの旗だ”って」

 それから十日ほど経ったところで、リョウは、進たちと一緒に、調教の終わった青海駿五十頭を、鄯州(ぜんしゅう)に連れて行くことになった。
「リョウも知ってるだろうけど、野生の馬は一頭では不安になる。こうして、まとめて鄯州の軍営に届けるんだ」
「それは良いとして、吐蕃の軍に遭遇する心配はないのか」
「吐蕃軍は石堡(せきほ)城を包囲する唐軍を遠くから取り巻き、ところどころでその包囲を崩すような攻撃を仕掛けていると聞いた。鄯州への道にはいないと思うけど、斥候を立てながら、慎重に進むよ」
「斥候なら、俺の得意なところだが、地理には不案内だ。誰か付けてくれれば、俺がやってもいいぞ」
「それはありがたい」
 進たち馬丁も、野を行くときには武装している。リョウも、吐蕃が捨てていったという短弓を背負い、腰の矢筒に矢を仕込み、剣も貸してもらった。
「すごいな、リョウ、まるで戦士みたいだ」

 早朝に青海湖を出たリョウたちは、昼過ぎには鄯州方面と、石堡城方面の分かれ道に到着した。
「進、俺は、どうしても石堡城を見てみたい。少し南寄りの経路で行くわけにはいかないかな」
「それは命令違反になる。皇甫(こうほ)将軍は、この馬を確実に鄯州に届けることを望んでいる」
「そうか、俺は、兵士ではないから、皇甫将軍の命令に従う必要はない。だめなら、俺一人で見て来るから、先に行っててくれ」
 そう言って、リョウは進たちと別れ、石堡城の方角に向かった。しばらくして後ろを振り向くと、青地に白く馬の形を染め抜いた青海牧場の旗が、ゆっくりとこっちに向かって来る。リョウは、笑った。進が本当は、戦に加勢したいとさえ思っていることを知っていたからだ。リョウは、進たちが追い付くのを待った。
「戦場には行かない。お前たちを危ない目に合わせることはできないしな。石堡城が見えたところで、引き返すから、それまで付き合ってくれ」
 そう言ってリョウは、自ら斥候を引き受け、吐蕃軍の居ないことを確かめながら石堡城に向かうことにした。しかし、何度目かの斥候に出たリョウは、予想に反して、遠くの草原の窪地に吐蕃の大軍が宿営しているのを見つけた。
「あっちに吐蕃の大軍がいるぞ。いつものことなのか?」
 戻ったリョウの問いに、進は首を(かし)げた。
「青海湖に攻めて来るならまだしも、今、唐軍は青海湖にいない。石堡城には遠回りだが……」
「おそらく、遠回りして、唐軍に気付かれないように接近し、一気に襲う算段だ。幸い、まだ攻撃準備が整っているようには見えない。加勢の到着を待っているのだろう」
「それなら、本隊に知らせなくては」
「いや、進は馬を連れて、吐蕃軍に遭遇しないように気を付けて引き返せ。知らせには俺が行く」
「俺も一緒に行かせてくれ」
「これは、本物の戦だ。命のやり取りの経験もないお前では、足手まといになるだけだ。帰れ!」
 リョウは、進が手柄を立てたがっているのだと分かっていた。手柄を立てて、兵士に取りたててもらいたいのだろう、だからこそ、リョウは強い言葉で進に諦めさせようと思った。
「リョウは、石堡城への道を知らないだろう、俺が行かなくちゃ。知らせが遅れたら、それだけ危ないじゃないか」
 引き下がらない進に、リョウはしぶしぶ同行することを承諾した。

 ゆったりした起伏の続く草原を慎重に進んでいくと、やがて草が減り、土がむき出しの荒野が広がってきた。リョウと進は、近くの岩場によじ登った。眼下の荒野のはるか向こうに、石堡城はあった。褚誗(ちょてん)から聞いていた通り、広い荒野の真ん中に、三面に切り立った断崖を持つ岩山があり、その頂上に石造りの砦が見えた。残った一面の長い坂道が、砦への唯一の道なのだろう。何万もの唐軍がその岩山を囲んで宿営している。もう何日もそうして、双方共に持久戦を強いられているのだろう。リョウの眼には、さらにその外側に、吐蕃の軍があちこちの要害に寄って待機しているのが見える。隙あらば、唐軍を襲って撹乱する戦法なのだろう。
 リョウは、今なら敵に遭遇しないことを確認して岩場を降りると、馬丁たちを呼んだ。
「ここから先は危ない。馬をあの森の傍に移動させて待っていてくれ」
 そして進に声をかけた。
「今なら正面から走っても大丈夫だ、一気に行くぞ」

 そこは、ただの荒野ではなかった。
「わっ、何だ」
 進が後ろで大声を上げているが、リョウは無視して走った。進は気付いてなかったのだろうが、そこら中に敵味方の馬や兵士の死体が転がっている。何度もこの荒れ地で激闘があったのだろう。放置された馬の死骸、背中に槍が刺さったままのうつぶせの死体、敵味方が折り重なって転がっている死体、荒野のそこここに、兵たちの無念が彷徨(さまよ)っているようだった。
 唐軍に近づくと、途中で何回か見張りの兵に止められたが、リョウと進は、皇甫惟明の発行した通行証で通り抜けた。やがて本陣を探して石堡城へ続く坂下に近づいたリョウは、異様な匂いに気がついた。血と腐臭の混じった匂いだった。そこには、唐軍兵士の死体が積み上げられていた。投石が当たったのか、顔が潰れた死体もあった。思わず口を押さえた進を促し、本陣にたどり着いたリョウは、褚誗(ちょてん)を探した。そこでも、大勢の負傷兵が転がり、うめき声を上げていた。
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