(四)

文字数 2,350文字

 それから十日ほど、リョウは馬場と馬小屋を離れず、青海地域で捕獲した馬や、怪我した軍馬の世話をしていた。出兵が近いのだろう、兵士らの動きが慌ただしくなっていた。
 昼下がり、馬場で馬を走らせていたリョウは、一人の男が馬柵に寄りかかり、ずっと見ているのに気付いていた。何頭か走らせて戻って来たリョウに、その男は声をかけてきた。
「その馬は、誰の馬だ」
 誰何(すいか)するというほどではないにしろ、親しみを感じさせない物言いに、身分の高い人だと察したリョウは、馬を降りて丁寧(ていねい)に答えた。
褚誗(ちょてん)様からお預かりしています。吐蕃(とばん)から捕獲した馬だと聞いています」
「わしが見たところ、今お前が乗っていた馬が、一番勢いがある。それに乗ってみよう」
 有無を言わさずに、リョウから手綱をとろうとする。
「この馬は、まだ野生に近く、暴れる恐れがあります」
「それならそれで良い」
 言葉の強さとは裏腹に、その男は優しく馬に触り、たてがみをしばらく撫でていた。
―― へえ、馬を知っているじゃないか
 リョウがそう思っていると、褚誗(ちょてん)より少し年上に見えるその男は、ひらりと馬に乗り、ゆっくりと歩かせ始めた。しばらく馬の好きにさせ、その揺れに自分の身体を合わせている。やがて、動きが安定してくると常足(なみあし)から速足(はやあし)に移り、最後に少しだけ速度を上げた後に戻って来て、手綱をリョウに渡した。
「お前はどこの者だ」
「馬商人の(せき)傳若(でんじゃく)の店の者です」
 リョウの名も聞かずに、その男はそのまま去って行った。

 その日の夕方、褚誗(ちょてん)が少し(あわ)ててリョウの部屋に来た。
「リョウ、今日の昼、お前が話した相手が誰だか知っているか?」
「いや知らん。身分の高そうな人だった」
「何かしたのか?」
「いや、青海の馬に乗せただけだ」
「お前を呼べと言っている。とにかく来い」
 そう言われて出かけたのは、軍舎の奥まったところにある、将軍用の食堂のようだった。
 大きな食卓に、鈍い銀色の燭台が置かれ、使用人が料理を並べている。調度品は少ないが、黒檀の違い棚には精巧な彫刻が施され、白い磁器が並んでいる。質素だが重厚な部屋は、いかにも軍人好みのものだと感じた。
 そこに、昼、野生に近い青海駿を軽やかに乗りこなした、長身の男が現われた。
皇甫(こうほ)惟明(いめい)将軍だ」
 そう言って褚誗(ちょてん)が胸に手を当て、拱手(きょうしゅ)の礼を取るので、リョウも慌てて真似をした。あらためて見る皇甫惟明は、少しこけた頬、濃い眉と切れ長の眼で、戦場よりは宮廷が似合いそうだなとリョウは思った。
「今日、乗った馬は、なかなか良い馬であったな」
 黙ったままのリョウの尻を、褚誗(ちょてん)が叩いた。
「あ、はい、新しく入った青海(せいかい)駿(しゅん)の中では、一番、能力が高いと思います」
「お前は、軍馬にするための調教もやると聞いたが」
「はい、石傳若の店は調教もできるということで、軍馬牧場へ出入りさせてもらってます」
 声が(かす)れ、唾をごくんと飲み込んだ。
「なるほどな、少し話が聞きたい。まずは座って飯だ」
 心臓の音が聞こえそうだった。唐の貴族と話していること自体、信じられないことだし、相手は将軍で、しかも隴右(ろうゆう)節度使だ。朔方(さくほう)節度使の(おう)忠嗣(ちゅうし)を、突厥の草原で遠くから見たことはあったが、その王忠嗣軍と戦ったことが知れたらどうなることか。
「そうだ、土産の葡萄酒、石傳若に礼を言ってくれ。わしは戦場が長い。飯の後に酒などという、長安風のまどろっこしいやり方は好かぬから、一緒に酒も出させよう。ただし、今日は黄酒だ、飲んだことはあるか?」
「いや、ありません」

 惟明が頷くと控えていた給仕が、まず惟明、次に褚誗(ちょてん)、最後にリョウの杯に、焦げ茶色の酒を注いだ。口を少しつけると、えもいわれぬ芳醇な香りが口いっぱいに広がった。これで少し落ち着かなくては、とリョウは構えなおした。
「お前は馬の世話をしているというが、それは馬の値踏みも兼ねてか?」
 皇甫将軍は、ずばりと聞いてきた。実際のところ、馬をよく観察して、その価値を決めるのも、リョウの大事な仕事だった。しかし、そのまま答えるのはどうかと思った。
「馬の値段は主人が交渉ごとで決めるもので、俺なんかは立ち入れません。ただ、馬の世話をしながら、毛並みや皮膚の状態を見、呼吸を聞いて、健康な馬かどうかを主人に報告します」
「それだけではないであろう」
「はい、食欲や馬糞の状態も欠かさず見ます。あとは、騎乗してみて、どのくらい走れるか、怪我をしてないか、走った後の心拍数などもみています」
「それを値踏みするというのだ。ところで、俺の乗馬ぶりはどうだった、正直に言ってみよ」
「あの馬は、野生に近い状態でした。俺でも慎重に扱っていたのに、あっさりと乗りこなしたのには驚きました」
 そこで皇甫惟明は、この日初めて、少しだけ笑顔を見せた。
「長安の宮廷では、わしの騎乗技術など誰も知らんから、お前の言葉を聞かせてやりたいものだ。突厥(とっくつ )の騎馬兵にも()められたとな」
 リョウは、飛び上がるほど驚いた。隣で褚誗(ちょてん)がそれ以上に驚いた顔をしていた。
「なに、心配することはない。事情は、(せき)傳若(でんじゃく)からの手紙で知っておる。馬の商売ができるのも、お前のおかげだと()めていたぞ。もっとも、あ奴めは、それを自分の店の売り文句にして、俺に馬を高く売るつもりだ」
 恐縮するリョウと褚誗(ちょてん)を愉快そうに見ながら、皇甫惟明は続けた。
「明日、病気で死ぬかもしれない馬に、大金が動く。その危険を減らすためには、馬を見る眼のある者が必要だ。石傳若は、馬を見る眼は無くとも、人を見る眼がある。信頼できると思えば、たとえ突厥の敗残兵でも雇い入れる。あ奴が、他の商人よりも(ひい)でているのは、そこだ」
 そう言った後に、皇甫惟明が小さい声で呟いたのを、リョウは聞き逃さなかった。
「長安の宮廷には、人を見る眼のある者が、誰もいなくなってしまった」 
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