(十六)

文字数 3,160文字

 もうすぐ十月になる。雨季が終わり、これからは寒くても気持ちの良い日が続くのだと、進が教えてくれた。遠くの山の頂には一年中真っ白な雪が見えるが、この高原は乾燥しすぎて、雪もほとんど降らないらしい。だから、この土地を取り合うんだろうな、とリョウは思った。
 リョウは、青海湖の畔に座って空を見ていた。青海湖の牧場で待機するよう、命じられたからだった。たった三日前の石堡(せきほ)城の嵐が嘘のように、今日は暖かな日が差し、風もなく、空の雲も止まっている。じっとしていると、時間まで止まってしまったようだ。

 丘の上から、十数騎の武将を引き連れた皇甫(こうほ)惟明(いめい)の姿が見えた。リョウは、走って迎えに出た。
「皇甫将軍、吐蕃(とばん)の軍勢はもう引き返したのですか」
「ああ、わが軍が石堡城の包囲を解いたのだから、いる必要もないのだろう。わしも、ここで馬の様子をみたら、すぐに鄯州(ぜんしゅう)に戻る」
 そう言われて、リョウは一緒に馬場に向かった。鄯州に連れていく予定だった青海駿は、戦場で死んだり傷ついたりしたものも多く、調教中の馬を補充する必要があった。武将の誰よりも馬が好きで、馬を良く知る皇甫惟明は、ここで馬丁たちと直接話すことを好んでいた。
 その日も、一通り馬を見、今後の方針を馬丁頭と打ち合わせ、一息ついた皇甫惟明がリョウを湖畔に誘った。
「リョウ、お前には命を助けられた。その礼が言いたかった」
「皇甫将軍に礼だなんて、とんでもないです。それにしても、あの戦は、勝ち戦なのですか、それとも負け戦なのですか」
「城を取れば勝ちということなら、わしらは負けだろう。土地を守れば勝ちということなら、わしらは勝ちだろう。しかし、監軍使の(ちょう)元昌(げんしょう)は、間違いなく敗戦、少なくとも作戦失敗だと、喜んで報告するだろうな」
「皇甫将軍は、もともとは和睦を推進した人だと聞きました」
「そうだな、吐蕃に降嫁した金城(きんじょう)公主(こうしゅ)のお力添えで和睦の盟約を結び、赤嶺に国境の碑を建てたまでは良かった。しかし、その碑はわずか五年で壊されてしまった」
「でもそれは、吐蕃が唐に臣従するという内容だったからだと、朱ツェドゥンが言ってました」
「わしは、どんな内容でもいいから、とにかく和睦させ、殺し合いをやめさせたかった。しかし、今にして思うと、それは間違いだった。朱ツェドゥンに叱られたよ。臣従しろと言われるだけでは、誰も安心して暮らせない、そんなものは、自分の都合だけ考えた偽りの和平案だ、とな。唐と吐蕃は、千年先も、この高原を奪い合っているのだろう。人間とは、そういうものかもしれない」
 黙り込んだ皇甫惟明の足元に打ち寄せる、微かな波の音だけが聞こえてくる。青い空を映した湖の水は、近くで見ると底の石まで透き通って見えた。
「皇甫将軍は、戦ではさんざんに吐蕃を打ち破っている。俺には、そこのところが良くわかりません。自分で望まなくても、皇帝に命じられれば、戦わなければいけないということですか」
「まあ、そうとも言える。わしも部下の命を失いたくない。そのためには、勝たなければならない」
「それだったら、戦わないのが一番いいじゃないですか。和睦はもう(あきら)めたのですか。この牧場では、漢人も、吐谷渾(とよくこん)の者も、吐蕃の子供まで、みんな一緒に暮らしていると、進が言ってました」
「そうだな。ここでは争いがないだけでなく、心が伸びやかになる。心の平安が得られるこの牧場が、私の理想だ。唐の政治もそうできたら良いのだが」
褚誗(ちょてん)が、青海地方には、青海駿もいれば、銅も鉄も産するから争いがあるんだって言ってた。俺は、それを欲しがる誰かのために命のやり取りをするんだったら、金でやり取りする商人の方がよほどましだ、って言い返して、ひどく叱られました」
「ことはそれほど単純ではない。陛下が青海の馬や鉄を欲しいわけではない。まあ多少は欲しいだろうが、今の陛下がそこに執着するとは思えない。宮廷の中での勢力争いや、功績の奪い合いが、陛下の名を借りて、こうして外国との争いにつながるのだ」
「そのとばっちりを受けて、国境ではこうして大勢の兵士が死んでいく、っていうことですか」
 皇甫惟明は、湖の対岸にある祁連(きれん)山脈に、しばらく目をやっていた。
「雪は白くてきれいだな。こういうところにいると、宮廷には行きたくなくなる。しかし、わしは覚悟を決めた。冬になったら、戦はない。その間にわしは長安に行き、今度の石堡城のことを陛下に直接、話して来ようと思っている」
「それは、監軍使の報告が間違いで、本当は勝ち戦だと上奏するということですか」
「戦に本当の勝ちも負けもない、何を勝ちと考えるかということだな。それともう一つ、陛下が考え違いをなさらないよう、多くの声を聴いていただくように上奏するつもりだ」
「それは、宰相の()林甫(りんぽ)一人の意見ばかり、聞くなと言うことですね」
「リョウ、わしにみなまで言わせないでくれ」
 そう言って、皇甫惟明は苦笑した。
「わしはな、戦いを止めれば和平が成るわけではない、と考えていた。戦うなら、勝って和平に持ちこんでこそ、望む平和が得られると、そんなことばかり考えていた。しかし、わしは間違っていたのかもしれない」
 皇甫惟明は、自分の言葉を確かめるように、一つ一つ、言葉を絞り出していた。
「リョウの言うとおり、戦場では多くの兵士が血を流している。それなのに、宮中で血を流しているのは、宰相の李林甫に抵抗した、()(とう)な者たちだけだ。本当に戦うべき相手は、国の内にあった」
「そんなことを言ったら、それこそ李林甫の謀略で、殺されてしまうのではないか」
褚誗(ちょてん)は、石堡城を落とすことで、わしを長安の役人から守ろうとした。わしの代わりに死んだようなものだ。ずっとわしの副将として働いてくれた褚誗(ちょてん)がいなければ、わしの命はここまで(ながら)えなかった。今、自分の命を惜しいとは思わない」
 皇甫惟明が、相当に思い詰めている様子がリョウにもわかった。いや、相手が何の影響もないリョウだからこそ、自分の考えを吐露しているのかもしれない、そう思って話題を変えた。
「皇甫将軍は、吐蕃に連戦連勝で、長安の街では大人気だと朱ツェドゥンに聞きました」
「まったくツェドゥンは、余計なことを。わしはな、リョウ、本当は長安の街の人々こそが恐ろしい。辺境の戦や兵士の死も、宮廷政治の魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)も、芝居小屋にかかる戯劇(ぎげき)程度にしか見ていない。自分だけ、今だけが良ければと、見て見ぬふりをする人間たちの街が長安だ」
「そんなところに、本当に行くのですか」
「わしはこの青海湖の牧場が大好きだ。長安など行きたくも無い。しかし、わしが長安に戻って宰相になることを恐れている者たちがいる。その者どもは、今までも、邪魔者と見れば、何百人もの役人と、その一族郎党を罪に陥れ、殺してきた。その者どもは、青蔵高原など全く知らないし、知ろうともしないのに、陛下をそそのかして石堡城をわしに落とさせろと言う。目的は、わしを排除したいだけかもしれない。だとすれば、わしのために兵士を殺すわけにはいかないのだ」
 一気に、本音を話した皇甫惟明は、憑物(つきもの)が落ちた様に、すっきりした顔をしていた。
「誰にも言うなよ、リョウ。俺は皇太子の王友だったが、お前は俺の馬友だ。だから本音が話せる。もっとも、おまえが誰かに話しても、誰も信じないだろうがな」
 そう言って皇甫惟明は、初めて笑った。
「さらばじゃ。いつか長安に来ることがあったら、屋敷を訪ねろ。いなかったら、わしはこの青海湖にいるから会いに来い」

 皇甫惟明の後ろ姿を見送りながら、リョウは、父アクリイが、かつて長安で巻き込まれた謀略というのも、李林甫が絡んでいたのかもしれない、と考えていた。皇甫惟明が、馬に乗り、最後に手を振った。リョウも、大きく手を振って、また会いたい、と強く思った。 
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