(二)

文字数 3,249文字

 明るくなってからも、何ごともなく走り続けることができた。馬の持久力を考えて、あえて並足より少し早い程度で走らせていたが、この調子なら昼には先発隊に追い付けるのではないか、そう思っていた矢先、斥候(せっこう)が駆け戻って来るのが見えた。前方へ出した斥候ではなく、西を並行して走らせていた奴隷武人のバズだった。バズは大きな身体と丸太のような腕を持ち、リョウに鍛えられて剣の腕も立つ。奴隷兵士たちのまとめ役でもあり、リョウの後を継いでアユンの奴隷ネケルに指名していた。
「アユン、西からウイグルの軍が来る。クルトの残党たちが()られた」
「クルト・イルキンの残党が殺られた?」
「ああ、あれは確かにクルトの副官、ブルトと一緒に戦っていた連中だ」
「そうか、唐軍は自分の手を汚さずに突厥(とっくつ)の力を()ごうと、ウイグルに情報を渡して()きつけたんだ」
 アユンの隣にいたテペが怪訝(けげん)な顔をした。
「ブルトは唐に寝返った。それなのに、そいつらも(つぶ)してしまおうというのか」
「ああ、ブルトが死んだのを良いことに、(おう)忠嗣(ちゅうし)はブルトの配下も武装解除していた。抵抗する者を根絶やしにしようという、王忠嗣か(りゅう)涓匡(けんきょう)の差し金だろう」
「そういうことなら俺にもわかる。唐の奴らは、俺たちを素っ裸にして野に放ち、ウイグルにけしかけて狩らせようというわけだ」
「まあそういうところだろう」
「武器が無くてはどうしようもない。このままでは俺たちもウイグルの餌食だ」
 テペがあげる悲痛な声に、アユンが叱りつけた。
「テペ、お前はネケルの筆頭になったんだ。お前が嘆いてどうする。バズ、敵はどのくらいいるんだ?」
「ざっと見て四百騎ほどだった」
「こっちは、二百か。武器さえあればなんとかなる」
 (しか)られても()りないテペが、また悲痛な声を出した。
「武器さえあればって、そんなものどこにもないじゃないか」
「俺はちゃんと持ってるぞ、お前は持ってないのか?」
 そう言ったアユンは、ニヤリと笑って(くら)の下に敷いた馬布(ばふ)の右裾から短剣を取り出し腰に着けた。さらに左裾から短弓と矢筒を取り出して背負った。
「さすがにアユンだな。俺だって唐軍の言いなりになるテペ様じゃないぜ」
 テペが短剣を鞍袋(くらぶくろ)から取り出して腰に着けると、周りの者もそれぞれに武器を出して装着した。
「あれれ、みんなも武器を持っていたのか」
 そう言ったテペに、新しくネケルに加わったサイッシュが教えてやった。
「アユンがみんなに武器を隠し持つように言ったのだ。知らないのはそのとき小便に行っていたテペだけだ」
「なんで俺に教えないんだ」
「教えようと思ったら、テペは一人でこっそり武器を隠してたからな」
「まったく、ひでえ連中だ」
 テペの声に、笑い声が起きた。
「武器と言っても、短剣と短弓、矢数も限られている。それに多勢に無勢、ここは逃げるが勝ちだ。幸い、バズがウイグルの動きを知らせてくれた。あいつらは、まだこっちの所在をつかんでいないだろう」
「残念ながらそうは思わない」
 バズが身体に似合わない小声で発言した。まだネケルとしての地位に慣れていないのだろうとアユンは思った。
「バズ、遠慮しないで大きい声で言ってみろ」
 バズは大きな身体を一歩前に出し、顔を上げた。
「ウイグルの連中は、早くから俺たちの情報を(つか)んでいたと思う。朝になって、まずクルト・イルキンの残党を襲い、その足で俺たちを襲う計画なんだろう。おそらく昨日の夜から、俺達も敵の斥候に跡をつけられていて、この場所もいずれ本隊に知られるだろう」
「それなら、なおのこと急ぐぞ、川の先で先発隊に追い付き、一緒に岩山を目指す」
 アユンの声に、部隊はまた一斉に進みだした。

 川とその先の平原が見えてきたとき、アユンは狼煙(のろし)を上げるかどうか迷った。
「赤い狼煙を上げれば、先発隊に危険を知らせることができる。しかし同時に、敵にこちらの居場所を知られることになる」
「バズが、敵は既にこちらの動きを察知していると言ったろう、隠れる必要はないじゃないか」
 テペにそう言われても、アユンの迷いは消えなかった。
「しかし、バスの見立てが間違っていたら、みんなを危険にさらすことになる」
 バズが嫌な顔をするのが見えてアユンはハッとした。自分の意見を否定されたと思ったのだろう。
 サイッシュが静かに発言した。
「もし、敵が既に我々の居場所を知っているなら、狼煙を上げることで先発隊を早く逃がしてやることができる。反対にまだ居場所を知られてないなら、狼煙を上げずにこの先で先発隊と合流することになるが、その場合、敵に追い付かれたら、先発隊の女子供は足手まといになる。狼煙を上げれば、敵に我々の位置を知られることになるが、先発隊はより早く逃げられる。それだけのことだ」
 サイッシュは「それだけのことだ」と言ったが、アユンにはとても複雑な状況に思えた。そのとき、父ゲイック・イルキンの教えが思い浮かんだ。
―― 分からないことを、どうしよう、こうしようと迷っていても何にもならない。しっかり状況を見、可能性と危険性を(はかり)にかけて、最良の道を決断するのが領導(リーダー)の役目だ
 そうだ、クルト・イルキンの残党の襲われ方を見れば、ウイグル軍は我々の動きを知っている可能性が高い、それはバズの言うとおりだろう。それに、岩山の洞窟には武器を隠している。その武器を取りに行かせたグネスたち十名ほどの別働隊にも、急を知らせることになるだろう。アユンは大声で指示を出した。
「赤い狼煙を盛大に上げろ。俺たちは隠れる必要がない。一刻も早く先発隊を逃がすのだ」

 川が近づいてきた。川には“馬渡(うまわた)しの瀬”という浅瀬があるが、そこ以外は急流に馬も立ち往生するような深さだ。
「馬渡しの瀬で川を渡るぞ」
 アユンの声に、サイッシュが再考を促した。
「この川の急流は、馬渡しの瀬を知らない者には簡単に渡れない。それこそ地の利という奴だ。渡河(とか)地点を偽装した方が良いのではないか」

 サイッシュは、ゲイック・イルキンが、戦死したクッシに代わって新たにアユンのネケルに指名したのだった。アユンも“鍛冶屋(かじや)のサイッシュ”のことは知っていたが、まさかその鍛冶屋が自分のネケルになるとは思ってもいなかったし、アユンよりは十も年上で、びっくりしたものだ。しかし、今、何ごとも冷静に分析し、意見を言うサイッシュを見て、父の意図が理解できた気がした。ゲイックは、漢人奴隷のリョウを、多言語を使い情報収集に優れるからとネケルにし、今また鍛冶屋の能力を見抜いてネケルに選んだ。自分はまだまだ人を見る眼がないな、とアユンは思った。
「サイッシュの言うとおりだ。敵はこの川のことを知らないだろう。浅瀬の場所が分からないよう、偽装してから渡る」
 そう言うと、川岸に馬を走らせて多くの足跡を残し、渡河地点より離れた場所から馬を川に入れ、馬渡しの瀬に戻って渡河した。これだけでも、追っ手を半刻ほど遅らせることができるだろう。
 
 川を渡った後、敵を欺くために馬渡しの瀬より離れた丘で馬を休ませた。テペが誰にともなく言った。
「先発隊は、狼煙(のろし)に気付いて出発した後のようだな」
 丘の上からも先発隊が見えないことに、アユンもホッとしていた。足手まといになる荷馬車や老人たちには、少しでも先に行って欲しかった。叔父のタクバンは、ゲイック・イルキンに気を使ってか、これまでは、戦でもなんでもあまり前面に出ることは無かったが、先発隊の隊長を任せて良かったとアユンは思った。

 さらに高みに上って後方を見張っていた兵士が叫んだ。
「三十里(約15km)後方に敵発見」
「いよいよ追い付いてきたか。馬渡しの瀬とは反対方向に大逃げするぞ」
 アユンは敵を(あざむ)き時間稼ぎをするため、目的地の岩山とは違う方向に迂廻して進み、敵から見えなくなる山陰(やまかげ)に入ってから、岩山に向かって馬を走らせた。これで、先発隊の馬車も敵に追い付かれずに、岩山に到着できるだろう。道なき草原も、アユンたちには走りなれた庭のようなもので、遠くの山や太陽を目印に、自在に馬を走らせ続けた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み