(七)

文字数 1,903文字

 シメンの稽古が始まることになった。顔に矢傷のあるシメンは、やはり胡旋舞(こせんぶ)より胡騰舞(ことうぶ)が良いと椎雀(ついじゃく)が決め、クシャルの条件は、今までどおり朝の水汲みや食事の手伝いをすること、アトールの条件は、稽古ではシメンを女として一切扱わない、ということだった。

 稽古初日の前日、クシャルが突然、シメンの胸に手を伸ばしてきたので、シメンはびっくりして飛び上がった。
「お前の胸は、汁椀くらいには膨らんできているね。男のように舞を踊るなら、心衣(しんい)(下着の腹掛け)では乳房(ちぶさ)が揺れて邪魔だろう。この布をあげるから、これを胸に巻くんだ」
 そう言って、クシャルがシメンに手渡してくれたのは、幅が一尺ほどの長い布だった。
「これは胡旋舞の舞手たちが心衣の代わりに巻いているんだけど、中に綿を詰めて、胸を豊かに見せるのに使っているのさ。お前は、逆にそれをきつく胸に巻いて、男のようにしないとね」
 欣雨も、半ば好奇心、半ばは本気で心配するようにシメンを見た。
「馬に(またが)るのにも、何かと不都合があるのでは?」
「そりゃそうだ、たまに乗るならまだしも、長い距離を乗るには、皮の(しょう)(したばかま=ズボン)を穿()かなくちゃ」
 クシャルもどうするんだと言わんばかりに、真顔でシメンを見た。
「おかあさんにもらった古着を使って、突厥(とっくつ)の遊牧民が穿()いているのと同じ裳を作りました。長い距離を乗るわけではないので、これで大丈夫です」

 稽古が始まる前、アトールはシメンの髪を短く切らせ、頭にはソグドの三角帽を(かぶ)らせた。こうすると顔の傷も隠しようがない。布を巻いた胸の上に細身の長袖を着、同じく細身の(しょう)穿()いた胡服姿のシメンは、もう小間使いの女奴隷ではなく、ソグド人青年のようだった。
 髪を切られたときには、思わず涙が出た。でもシメンは、この男装が嫌いではなく、むしろ吹っ切れた気持ちだった。今までは日の陰に隠れていたのに、太陽の下に堂々と出てきた感じがして不思議だった。

 この高原の最も良い季節である夏の間、シメンは胡騰舞の稽古に夢中になった。水汲みをしていても、食事の準備をしていても、身体が自然に舞の動きをし、夜、床の上に横になって眼を(つむ)ると、教師であるアトールの動きが浮かんでくる。アトールのことはあまり好きではなかったが、踊り手としてのその躍動感は素晴らしいと思っていた。古傷があるのか、足を引きずることはあったが、飛び上がった時の目線の持っていき方や、指先のしならせ方など、少しでも早く、それらを自分のものにしたかった。

 アトールの稽古は厳しい。踊りの動きを教えるよりも、ほとんどの時間は跳んだり、しゃがんだりという基礎的な動きに費やされ、足腰が立たなくなるまで反復させられた。動きに遅れると(むち)が飛ぶし、ふらついていると押し倒される。それはシメンにも容赦なかった。いや、男と同じに扱うと言った手前か、シメンにはことさら厳しく当たっているようにも感じられた。
 踊りの(かた)をやるようになると、指導はより細かになり、小言もしつこく繰り返されるようになった。
「これは、お前たちのためだからな、お前たちをなんとか胡騰舞の名手にしてやりたいんだ」
 そう言うのが、上手にできない奴隷を(なぐ)りつけるときのアトールの口癖だった。「全然わかってないじゃないか」と練習の努力を否定され、褒められることはなかった。完璧を求めるあまりの熱心さなのかもしれないが、うまくできたらできたで「俺の教え方がうまいんだ」と言われるのは、疲れた身体をより重たくするように感じた。
 城外の砂地を長い時間走らされ、時には砂丘の上からでんぐり返しで転げ落ちる練習もさせられた。そんな時は、この練習は本当に必要なのだろうかと思った。ほとんどのことが上手にできたシメンだったが、トンボ返りだけは苦労した。落下しないように、腰に巻いた紐を木と木の間に渡した綱に()わえ、後ろ向きに飛び上がっては着地する練習を、綱が擦りきれるまで毎日毎日やらされた。うまくできないとアトールが出て来て、両手でシメンを抱え上げ、放り投げるようして回らせるのだが、その持ち上げる手がシメンの胸や内腿(うちもも)、ときには股間にさえ触れているようで、シメンはゾッとすることがあった。
「しょせん女は女だ。こんなこともできないなら、さっさとクシャルのところへ帰れ。お前がいるだけで、みんな迷惑してるんだ」
 最後は、いつもこう言い放ってシメンを置き去りにし、他の男児だけで稽古を続けさせた。恥ずかしさと悔しさで涙が(にじ)みそうになっても、シメンは耐えた。今までの「通り過ぎるのを待つ」、「出しゃばらない」に加えて、「私は男だ」と思い込むことで、屈辱を乗り越えようとした。
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