(九)

文字数 2,473文字

 野原に白や黄色の小さな花が、ちらりほらりと咲き始め、またひとつ冬を越すことができたな、とシメンは思った。ここの冬も厳しいが、命懸けで冬を超える突厥(とっくつ)とは大違いだ。雪や嵐に閉じ込められることも無く、飢えもせずに春が迎えられことを感謝しなくては、とシメンは思った。
 ここでは砂礫(されき)の大地が広がり、突厥(とっくつ)のように青々とした草原が広がっているわけではない。しかし、突厥と同じように、春の空は少し(かす)みながらも、高くどこまでも広がっている。
 南に高く(そび)える山々の稜線は、一年中、雪と氷におおわれている。その名前を教えてくれたのは(らお)欣雨(きんう)だった。
「あの山々は祁連(きれん)山脈と言うの。祁連(きれん)というのは、何百年も前にこの辺りを支配していた匈奴(きょうど)の言葉で“天”という意味よ。だから、李白という唐の詩人は、この辺りのことを『明月(めいげつ)(いずる)天山(てんざん)(明月が天山に出て来た)、蒼茫(そうぼう)雲海間(雲海は見渡す限り青々としている)』なんて詩を()んでいるの」
 欣雨は、もともとは貴族の(らお)家の娘で、読み書きもできれば詩を書くこともできる知的な女性だ。(あん)椎雀(ついじゃく)にせがんで、長安に行くたびに本屋で流行(はや)りの詩集などを買ってきてもらっていた。シメンは天山と聞いて、おやっと思った。
「ここよりずっと西の、沙漠の北方にも天山という高い山があって、隊商(キャラバン)はその山に沿って大食(タージー)(アラビア)まで行くんだって、おかあさんから聞いたことがあります」
 今では、シメンもクシャルのことを“おかあさん”と呼べるようになっていた。
「そっちも確かに天山よ。高くて人が登れないような山は、昔からみんな天山と呼ぶから、ややこしいわね。この詩の後ろの方では『由來征戰地(ここは昔から戦いの地)、不見有人還(生きて還って来た人を見たことが無い)』とも(うた)われるの。(ひど)いもんだわね、長安や洛陽の人から見たら、この辺は胡人(こじん)(ソグド人)や蛮族(ばんぞく)(異民族)の住む最果ての町で、囚人を徴兵した国境守備隊くらいしか住んでない、そんなふうに思われているのよ」
 そう言いながらも、欣雨は嫌そうな顔はしなかった。きっと、椎雀の買って来る本さえあれば、自分の親を陥れた嘘や陰謀に満ちた長安の生活より、こっちの生活の方が気に入ってるのだろう、シメンはそう感じた。

 少し暖かくなった頃から、シメンはイルダに漢語を教えることになった。欣雨を手伝うという建前だったが、シメンの小間使いの仕事を少しでも減らしてやろうという欣雨の心遣いだと思った。それに、イルダも夏には、いよいよ長安に売られていく。漢語の習得を急ぐ必要があったのだ。
 シメンが教え始めた時、イルダはすでに簡単な漢語は話せるし、少しは漢字も書けることを知って驚いた。シメンは、ゆっくりと漢語で話しかけた。
「イルダは、勉強熱心ね。もうだいぶ漢語を知っているけど、あとはどんな言葉を習いたいの」
「私は踊る、言葉はいらない。生活の言葉、教えて」
「わかった。それでは、起きてから、寝るまでの一日を想像しながら、会話をしてみましょう」
 そんな感じで稽古を進めていたが、(あん)椎雀(ついじゃく)の要求はもっと高かった。
「いいか、貴族の旦那に気に入ってもらうには、詩の一つも詠唱(えいしょう)できなければだめだ。そこは、ちゃんと欣雨が教えるんだ、いいな」
 シメンは母から漢字を学んだが、詩となるとまったく知識が無い。椎雀の指示をいいことに、シメンもイルダと一緒に欣雨から詩を教えてもらうことにした。クシャルには欣雨が適当に理由を言って、シメンの時間を確保してくれた。
 
 まず欣雨は、(おう)()の詩を一篇、紙に書いて持ってきた。
「杜甫や李白も人気があるけど、人の見方にこだわりがあって、私はあまり好きになれません。それに比べて、王維は自然を素直に愛し、人の良い所を見るので、私は好きです。例えば王維は、友人との別れに際して、細やかでやさしい気持ちを詠んでいるのですよ」
 そう言って欣雨が朗詠してくれたのは、長安で流行(はや)っているという送別の詩だった。

―  渭城(いじょうの)朝雨(ちょうう)(うるおす)軽塵(けいじん)
   客舎(きゃくしゃ)青青(せいせい)柳色(りゅうしょく)(あらたなり)
   勧君(きみにすすむ)更尽(さらにつくせ)一杯(いっぱいの)(さけ)
   西出陽関(にしのようかんをいずれば)(なからん)故人(こじん)

「これは友が西域に出かけるときの送別の詩です。長安の人は、西に旅立つ人を、長安の北六十里ほどの渭城(いじょう)という町まで見送りに行く習わしがあるので、そこでの光景を詠んだものなの」
「わざわざそんな遠いところまで送りにいくのですか」
 シメンの問いに、欣雨は笑って答えた。
「西域の遠さに比べたら、渭城(いじょう)なんてまだ街中みたいなものよ。そこでは朝、雨が降って砂埃(すなぼこり)もしっとり湿(しめ)り、旅館の前の柳の新緑も雨で鮮やかになっている、そんな様子を()んでるの」
突厥(とっくつ)でも、柳はゲルの骨格に使っていたな」
 的外れなシメンの感想にも、欣雨は真面目に答えてくれた。
「それはきっと紅柳木(タマリスク)のことね、長安の柳とはちょっと違うわ。この“柳”には特別な意味が込められているの。長安では、旅立つ人への(はなむけ)に柳を手折(たお)って贈る習わしがあるから、詩に柳を詠み込んでいるの。そこまで知っていると、ご主人様に喜ばれますよ」

 欣雨は、嬉々(きき)として詩の解釈を教えてくれた。本当は、長安のお屋敷で、貴族の旦那様とそんな会話をしているのが、本来の欣雨の姿だったはずなのに、とシメンは少し悲しくなった。それでも詩の勉強はとても楽しかった。
「『さあ、もう一杯、お酒を飲んでくれ』なんて、すごく楽しそうだな。でも『陽関(ようかん)より西に行ったら、もう親しい友人もいなくなる』っていうのは寂しいなあ。陽関って、どこら辺なの?」
「陽関は、この甘州よりもずっと西の方にある関所です。唐の力は、本当にそんなところにまで及んでいるのよ」
「ここよりはるか西なんて、長安の人から見たら気の遠くなるような遠さね」
「でも、これは悲しい別れの詩ではないの。それほど大事な仕事だから、元気で頑張ってきてくれって、そういう壮行の詩なのよ。送別の席では、送る人も送られる人も一緒になって、この詩を朗詠(ろうえい)して、最後の“西出陽関(にしのようかんをいずれば)(なからん)故人(こじん)”というところは、三回繰り返して歌うの。その遠さをしみじみ共有する趣向になっていて、とても素敵な詩だわ」

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