(六)

文字数 2,278文字

 大地は一面の緑に覆われ、緩やかに起伏している。アユンたちは、千六百里(約800㎞)の距離を、羊を追いながら二ケ月以上かけて、烏蘇米施可汗(オズミシュ・カガン)の拠点までやって来たのだった。
 アユンが暮らした黄河の北とは異なり、沙漠が見えない。代わりに背の高い樹林がところどころに見える。羊たちが点々と、遠く、どこまでも草を食んでいる情景は、平和だった日々を思い出させた。しかし、気候はと言えば、夏が近いこの季節でも肌寒く、夜は毛皮を着こむほどだ。アユンが過ごしてきたのは、突厥の中では最も唐に近い南の方なので、ここでは冬の寒さがどれほどになるのだろうかと心配になった。

「まずは、ビュクダグ・イルテベルのゲルを訪ねよう」
 イルテベルというのは、イルキンよりさらに大きな、有力部族長の称号だ。ビュクダグは、戦ともなれば四千の部隊を預かる格上の存在で、アユンたちも、大会戦ではその指揮下に入った。
 アユンはビュクダグのゲルを二回見たことがある。一度は、巻狩りの最中に誤ってビュクダグの子、キュクダグに矢を射かけてしまったことを詫びるために、訪問した時だ。そのゲルは、七、八十人は収容できそうな大きなもので、絨毯(じゅうたん)が敷かれ、さまざまな色の生地が張り巡らされ、卓の上には硝子(がらす)の酒器や銀器がたくさん並べられていた。
 もう一度は、大会戦を前にして、ビュクダグが夏祭りに、副官のティルキや百人隊長のラコンなど、主だった幹部を引き連れて来訪したときだ。その時は、移動用のゲルだったが、それでも五十人は入れそうな巨大なゲルが設営されていた。
「あそこにビュクダグの旗が見えるぞ」
 テペが指し示す草原の向こうには、その二つの大きなゲルが並んで設営されていて、探すのに手間はかからなかった。さらに遠くの丘の上に見える巨大なゲルは、おそらく可汗のゲルだろう。
「俺達はこうして苦労しながら流離(さすら)って来たというのに、こっちは何も変わってないようだな」
 テペの不満そうな言葉に、年上のサイッシュが、(さと)すように話した。
「ビュクダグの部族も、本当は苦労してここにたどり着いたんだろう。あの大きなゲルも、分解して馬車で運べば、遠く離れた場所にまた同じように建てることができる。敗軍の将のものとは思えない立派なゲルが、こうして変わらずに立っているということが、まさに遊牧民の遊牧民たる所以(ゆえん)だな」
「ああ、それは良くわかる。俺たちは、町とか城とか、動かないものを欲しいとは思わない。自分たちが動けば良いのだからな。それにしても、ウイグルの奴らは何が欲しくて、俺達を追い出そうとしているんだ」
 テペの疑問には、アユンが答えた。
「羊が欲しいわけでも、草原が欲しいわけでもない。突厥に代わって、唐の皇帝から上納品をたっぷり巻き上げたいんだ。リョウから聞いた話だがな」

 兵士として使える若者だけでも二百人以上を引き連れて馳せ参じたアユンたちを、ビュクダグは大喜びで迎えてくれた。ビュクダグは先の大会戦で大怪我を負ったと聞いていたが、相変わらず太った身体で、狼や鹿の透かし彫りのある椅子に座っていて、傷はすっかり治癒したようだった。
「ゲイックのことは残念だった。アユンが部族長を継ぐと聞いたから、わしからもゲイック同様、イルキンの称号をもらえるよう頼んでみよう」
 ビュクダグの隣にいた息子のキュクダグが人懐っこい笑顔を浮かべた。
「アユンとは歳も近いし、これから一緒になって戦えると思うと、嬉しいぞ」
「俺が誤って矢を射たネケルはどうした?」
「あの矢傷は治ったのだが、残念ながら先の大会戦で戦死した。俺の身代りになった……。だが、アユンも知っている副官のティルキや百人隊長のラコンは元気だ。今度、会わせよう」
 若い二人の会話を(さえぎ)るように、同行していたタクバンが前に出てビュクダグに話しかけた。
「お久しぶりです、と言っても覚えてないでしょうが、私はゲイックの弟、アユンの叔父のタクバンと言います。イルテベル(部族長)もここでは何かと大変でしょう。我々も数こそ減ってしまいましたが、兵士も、若い女の働き手も、たくさんおります。これからは、何でもお手伝いさせて頂きますよ」
「おお、それはありがたいことだ。そう言えば、アユンの称号の前に、先の会戦の褒美(ほうび)をもらえるように話を通しておいた方が良さそうだな」
 言葉には出さなくとも、タクバンの話の裏にある褒美の要求を、ビュクダグはたちどころに理解したようだった。大会戦では、多くの者が死んだ。戦に負けても、馳せ参じた部族の長には褒美を出し、戦死者にはその部族長を通じて報償を出すのが、(ゆる)い部族連合体である遊牧国家の掟だ。そうしなければ、その地位を維持できなくなるからだ。
 大きな敗戦と可汗(かがん)の死が重なって、ビュクダグからの報奨は届いていなかった。新しい可汗からビュクダグに褒美が出たのかどうかは分からない。笑顔とは裏腹に、余計な出費が増えることを苦々しく思っているのかもしれない。あるいは、新可汗から、アユンたちの合流を理由に、もっと(しぼ)り取れると思っているのかもしれない。アユンにはどちらともわからなかったが、大人たちは笑顔の陰で、そういった駆け引きを瞬時にしている。俺にはできないな、と思った。

 それからさらに二月ほど経ったが、大きな戦は起きていなかった。突厥の本拠は、だいぶ東北に追い詰められたとはいえ、ここにはまだ、ウイグル軍や唐軍の直接の脅威は及んでいない。アユンたちと同様、ウイグルに追われて西から逃げて来た部族民も多く、むしろ(にぎ)わいを感じるほどで、アユンは違和感を覚えた。
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