(二・五)ひとりぼっちの抗議

文字数 2,890文字

「かでな、いつまで寝てんの。まこと君から電話よ」
 まことからの電話を取り次いで、美砂がかでなの部屋のドアを叩いた時、既に眩しい朝の陽が昇っていた。時計の針は午前九時を過ぎていた。かでなは仮病による罪悪感に苛まれながらも、ドアの向こうの美砂に答えた。
「ごめん、ママ。わたし風邪引いちゃったみたい。今日は行けないからって、謝っといて」
「風邪。大丈夫なの、かでな」
「うん、ちょっときついけど、もう少し寝てたら良くなると思うから」
「あっ、そう。じゃまこと君には、そう伝えとくよ」
「うん、ありがとう」
 美砂がいなくなった後、かでなはぼんやりとベットで横になっていた。いつしかまた眠りに落ちた。
 再び目が覚めれば眩しい八月の陽が既に天に昇っており、時計はもう十二時を回っていた。ついでにお腹もグーッと鳴いた。そりゃそうだ。かでなは今日まだ何も口にしていないのだから。
「ママーっ」
 かでなは勢い良く、美砂のいるキッチンに直行した。
「あら、かでな。風邪、もう大丈夫なの」
「うん、寝てたら治ったみたい」
「そう。それは良かった」
 微笑む美砂に、かでなは甘えた声で言った。
「でも、お腹ぺこぺこ」
「はいはい。じゃオムライス作るから、待ってて」
「やった」
 かでなは美砂のオムライスが大好物だった。
 出来上がったオムライスを、母娘は仲良く食べた。ぱくぱく元気に頬張るかでなが、美砂には可愛くてならなかった。
 腹を満たしたかでなは部屋に戻り、いざ出陣と米軍基地に乗り込む支度を始めた。時計の針は、午後二時前。米軍基地に抗議に行くなどと言えば、止められるに決まっている。そこでかでなは誰にも内緒で、出発することにした。
「ママ。それじゃわたし、まこと君とこ、行って来る」
「うん。心配してるだろうから、元気な顔見せて上げて」
「はーい」
 仮病の次は嘘の行き先。ほんと悪い子でごめんね、ママ。心の中で美砂に手を合わせながら、かでなは自宅を後にした。かでなの服装はセーラー服。時刻は、午後二時を過ぎていた。

 向かうは米軍の嘉手納基地。途中嘉手納海岸を通って、徒歩で約二十分かかった。いつものようにお気に入りの麦藁帽子を被り、赤いショルダーバッグには、タオル、水を入れた水筒、傘、それから腹が減った時の為にチョコプリッツとキャラメルと黒砂糖も入っていた。
 しかしひとりでとぼとぼ歩いているうちに、段々と弱気の虫が襲って来た。わたし一人じゃ、どうせ門前払いだろうな。でも兎に角訴えるだけ訴えて、日没前には帰ろう……。
 青い空、透き通る海のさざ波。嘉手納の海は、いつにもまして穏やかだった。波打ち際にしばし佇んだ後、かでなはまた歩き出した。基地全体を囲んでいる有刺鉄線のフェンスが見えて来た。基地を飛び立つヘリも見えた。灼熱の陽射しを浴びながら聴く戦闘機の爆音の威力は、遠くからでもくらくらと眩暈がする程だった。
 くっそーっ。ここまで来て、負けてたまるか。かでなは基地の玄関である通用門へと足を向けた。どきどき、どきどきっ……。弥が上にも心臓の鼓動が高鳴った。
 通用門は開いていたが横に守衛室があり、敷地内に勝手に侵入しようとすると呼び止められる。かでなは怪しまれないよう、直ぐに守衛室の窓口に立った。
「誰、何の用かな」
 応対したのは若い男だった。言葉は勿論、英語。かでなは臆せず英語で返答した。
「わたしは、嘉手納高校の松堂かでな」
「かでな、高校生のきみが一体何の用だね」
「他でもない。昨夜のヘリ墜落事故の件で、抗議に来たのよ」
「抗議だって。たったひとりでかい」
「ええ、そうよ。担当の司令官に会わせて」
 駄目元で言ってみた。すると意外な答えが返って来た。
「分かった。直ぐにこっちに来させるから、待っててくれ」
 おお、凄い。
「OK」
 しばらく窓口の前で、突っ立って待っていた。通用門は納品業者の出入りが激しく、トラックが次々とやって来ては出ていった。
「お嬢ちゃん、ちょっとどいてくれ」
 いつしか脇に追いやられ、そこでじっと待ち侘びていた。しかし幾ら待てども、一向に来る気配はない。
「ねえ、まだ」
 痺れを切らしたかでなは再び窓口に立ち、問い合わせた。
「ああ。まだ昨日の対応に追われてて、なかなか来れないんだって」
「ええ、ひどい。さっき待っててくれって、言った癖に」
「済まないね」
 それでもかでなは辛抱強く待ち続けた。陽が暮れ始めた。しかし待ち人の姿はなかった。
 あーあ。結局これって、門前払いとおんなじじゃない。かと言って守衛室の人たちに怒鳴ったところで、どうなるものでもない。面倒臭いから、今日のところはもう帰っちゃおうかなあ……。
 そしてかでなは遂に諦め、家路に就くべく、とぼとぼと守衛室並びに米軍基地を後にした。途中夕暮れの嘉手納の海辺に差し掛かった。さっさと帰らなきゃと思っていたから、足を止めるつもりはなかった。ところがお腹の虫がぐーっと鳴いた。
 緊張してたからかな、お腹ぺこぺこ。かでなは砂浜に腰を下ろして、水筒とチョコプリッツを取り出した。砂の上であぐらを掻いて、波打ち際に響く潮騒に耳を傾けながら、かでなはプリッツを頬張った。
 ああ、おいしい。呑気に食べ続けるかでなだった。しかしその背後には、魔の手が忍び寄っていた……。

 その時まことは虫の知らせか、ふとかでなのことが気になって、松堂家に電話を入れた。
「今晩は、まことです」
 電話口に出たのは、美砂だった。
「ああ、まこと君。かでなまだ、そっちいる」
 えっ。何気なく尋ねた美砂の言葉に、まことはびくっとした。胸騒ぎに襲われた。声が上擦った。
「かでなさんなら、こっちにはいませんよ。今日かでなさんとぼく、会ってませんから」
 えっ。今度は美砂の方がびくっとなった。
「嘘。だってあの子、あなたのとこ行くって出ていったのよ」
「えっ。それって、いつ頃の話ですか」
「確か、二時前よ」
 午後二時前。どきどき、どきどきっ……。まことと美砂の互いの心臓の鼓動が、電話線を通じて重なり合うようだった。美砂は動揺し、その声は不安に震えていた。
「じゃ、あの子、何処行ったの。今、何処にいるのかしら」
「かでなさんから、連絡はないんですか」
「ううん。何にも」
 美砂は受話器を握り締めながら、かぶりを振った。
「兎に角ぼく、今からそっちに行きます。一緒に捜しましょう」
「そうね。じゃ、わたし、待ってるから」
 かでなが無事であることを祈りながら、美砂はまことの電話を切った。それからすぐさま那覇の観光ホテルに勤務する夫即ちかでなの父親、晴人(はると)に電話した。かでなに関する経緯を伝えるや、晴人もまた動揺した。
「分かった。何とか都合つけて、そっちに戻るから」
「お願い。わたしは、まこと君と近所を捜してるから」
「頼んだよ」
 そして美砂と晴人は電話を切った。
 一方まことである。自宅を飛び出したまことは急ぎながらも、ふっと思い付いた。もしかして、かでな。昨日の墜落事故の件で抗議をしに、たったひとりだけで米軍基地に行ったのでは……。
 まことは松堂家に向かう前に、夕映えの嘉手納海岸へと行く先を変更した。
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