(一・一)広島

文字数 2,594文字

 すっかり真夏を思わせる一九四五年六月初旬のこと。場所は広島駅前の広場。まだ第二次世界大戦の真っ只中、広島の街はいつ来るやも知れない敵国の奇襲攻撃にぴりぴりとしながらも、人々は祖国日本の勝利をひたすら信じ願いつつ、健気に顔を上げ前を向き、力強く日々の生活に精を出していた。
 とは言っても既に枢軸国の敗色は濃厚。ドイツはヒトラーの自殺とベルリンの陥落、イタリアはムッソリーニが銃殺され、日本に於いても米軍が沖縄上陸を果たしていた。それに伴い連合国首脳たちの最大の関心は、如何にして日本に降伏させるかへと既に移行していた。
 しかしそんなこととは夢にも知らず、混沌とした駅前の雑踏に紛れながら、セーラー服に身を包んだその少女はひとり黙々と歩いていた。少女の名を綾瀬香出菜(あやせ かでな)と言い、現在十六歳、広島高等女学校五年に籍を置いていた。正義感が強く、きりっとした顔立ちはよく男勝りと皮肉られていた。
 その日の香出菜は、上は衣更えしたばかりの水色の襟の白いセーラー服、下は紺のモンペを穿いていた。それに照り付ける初夏の日射しを避けんとして、向日葵の飾りが付いた麦藁帽子を被っていた。ところが何処から吹いて来たのか一陣の風が、駅の通りを急ぐ人波目掛け、砂ぼこりを立てながら襲って来た。
 砂ぼこりを避けようとして咄嗟に香出菜は目を瞑り、両手で顔を覆った。その隙にところが風は、香出菜の麦藁帽を頭から奪い去った。麦藁帽子は見る見る、遠方へと飛ばされて行く。
「あっ、待って頂戴」
 大声で叫びながら、香出菜は慌てて後を追い掛けた。帽子はしばらく駅前の雑踏の頭上をクルクルと漂っていたけれど、やがて力尽きたように地面に落下した。するとそこへひとりの若い男が通り掛かり、香出菜の帽子をさっと拾い上げたのだった。男は、軍服を身にまとっていた。
 はあ、はあと息を切らしながら駆け寄って来た香出菜に、若き軍人はにこっと微笑み掛けながら、つかまえた帽子を差し出した。
「お嬢さん、あなたのですか」
「はい」
「では、どうぞ」
「まことに、ありがとうございます」
 香出菜は深々とお辞儀した後、自分の帽子を受け取った。しかし相手は意外な言葉を発し、香出菜を戸惑わせた。
「まこと、ですか」
「はい。まことに、ありがとうございます」
 ところが若き軍人は、急にくすくすっと笑い出すではないか。香出菜は、失礼な人ねえと訝しがりながら尋ねた。
「まことがどうにか、なさいましたか。軍人さん」
 すると待ってましたとばかりに、軍人は答えた。
「失礼致しました。実は何を隠そう、僕の名が、誠でして」
 まこと。香出菜は相手の顔をじっと見詰め返した。
 その若き軍人は名を徳山誠と言い、自ら戦場に赴かんと軍隊に志願した、若干二十歳の陸軍二等兵だった。
「あらまあ、そうでしたか。これは行き成り呼び捨てになどしてしまって。どう、致しましょう」
 香出菜はぽっと顔を赤らめ俯いた。それは戸惑いばかりではなく、相手が凛々しい美男子だったことも大いに影響していた。事実香出菜の胸はときめいていた。それは、初恋にも似た感情だったのだから。
 一方誠の方も、香出菜の瞳と笑顔に一目惚れしていた。
 お互いに恋などしているご時世ではないこと位百も承知してはいたものの、何時如何なる時も抑え切れないのが若人の恋というもの。広島駅前の絶えぬ雑踏に紛れながら、若いふたりは互いに見詰め合わずにはいられなかった。これが香出菜と誠の出会いであった。

 それからふたりは幼馴染が再会したかのように、急速に親睦を深めていった。とは言っても時代が時代、派手なデートなど出来る筈もなかった。そこでふたりは、休日にひっそりと逢瀬を重ねた。広島駅前から路面電車沿いの通りを歩いたり、広島市民公園に寄ったり、たまゆらの丘と呼ばれる小高い丘に登って、木陰で取り留めの無い会話にうつつを抜かしたり。
 その当時広島高等女学校の生徒は、近くにある株式会社広島製糸工業の第二工場にて軍服を縫う作業に従事しており、香出菜も例外ではなかった。その工場の休業日にふたりはデートし、香出菜はセーラー服、誠は軍服姿で、あたかも兄妹の如く振舞っていた。またふたりが会う時、ふたりの縁を結んでくれたあの向日葵の麦藁帽子を、香出菜は忘れず持参した。
 綾瀬家は香出菜の父、虎之助が仕事中の事故で既に他界しており、兄の孝造もまたラバウル戦線に出征し、異国の地で二十一歳の若さで戦死していた。その為家に男手はなく、母親の美砂江と香出菜の女二人切り。日々心細い思いの中で、戦時を生きていた。
 そんな綾瀬家だったから美砂江にしても、十六の娘に恋人なんて時期尚早ねとは思いながらも、誠の出現を決して悪くは受け止めていなかった。むしろ心強くさえ感じ、家にも連れて来るよう香出菜に催促する程だった。そこでデートの帰りには必ず綾瀬家に寄り、晩餐を三人で共にした。その後誠は広島駅から南に一キロメートル離れた陸軍の寄宿舎へと帰ってゆくのが、しばしの日課になった。
 けれど何時の世も真夏の夜の夢が永く続いたためしはなく、香出菜と誠にしてもそうだった。なぜなら誠にも、刻一刻と出征の時が迫っていたからである。それは八月五日だった。
 六月中旬梅雨入りと共に、日々雨が続いた。にも拘らずふたりは、惜しむように豪雨の中でデートを重ねた。むしろ人目を避けられる分ふたりには有難く、相々傘などして親密の度を深めた。傘に隠れて、初めての口付けも交わしたふたりだった。
 七月梅雨が明けると、残された一分一秒を惜しむように、若きふたりはむさぼるように逢瀬を重ねた。けれど七月も下旬を迎え、残り後十日を切り、一週間を切りすると、焦りばかりが香出菜の心を掻き乱した。もう直に誠さんと会えなくなってしまう。その為折角誠と顔を合わせても、香出菜の顔は一向に晴れず、痛々しい程陰鬱な表情ばかりを浮かべていた。人目を避け誠の肩に縋り付いては、香出菜の涙が誠の軍服の肩章を濡らした。
 けれどこればっかりは、幾ら誠でも、美砂江でも、どうにもならなかった。どんな慰めの言葉も、いとしき誠の抱擁も、香出菜の涙を止めることは出来なかった。ただ三人で手を取り合い、運命を恨むばかりだった。
 そして遂に誠の出征の時が訪れた。誠は本土決戦に備え、先ず山口県の岩国基地へと赴かねばならなかった。
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