(一・四)ノート

文字数 3,975文字

 誠は、美砂江の看病をする傍ら、香出菜が残したノートを読んだ。貪るように、隅から隅まで。残念ながら自分宛のメッセージは何ひとつ見当たらなかったけれど、その内容は誠を驚嘆させた。なぜなら十六歳の少女が記したにしては、余りにも荒唐無稽かつ専門的用語が羅列されていたからである。
 幾ら被曝による幻覚症状の中にあったからといって、はたして香出菜さんにこんなことが書けるものだろうか。誠はただただ、不思議でならなかった。
 もしかして原子爆弾による被曝とこのノートの内容に、何らかの因果関係でもあるのではなかろうか。ふとそんなことに思い至った誠は、このノートを是非一度誰か他の人に見てもらわねばと思った。そして客観的にこの内容を吟味、精査してもらいたいと。
 そして八月下旬、晩夏の日のお昼のことだった。
「お母さん、ご機嫌は如何ですか」
「誠さん、本当にいつも済まないねえ。今日は珍しく朝から一日中ずっと調子が良くて。これも誠さんのお陰、ありがとう」
「そうですか、それは良かった。ではお母さん、自分は少し出掛けてきたいのですが」
「ああ、それはもう遠慮なく、お好きなように」
「では、お言葉に甘えて出掛けて参ります。日没までには必ず戻りますから」
「はいはい、行ってらっしゃい」
 寝床から美砂江に見送られ、誠は綾瀬家を後にした。その手には風呂敷に包んだ、例の香出菜のノートを携えて。

 誠が向かったのは、広島日報という地元の新聞社だった。新聞社のビルは広島駅の隣りの向洋(むかいなだ)駅前にあり、リトルボーイの爆発の被害からは免れていた。誠はここの記者をしている年上の幼馴染、岡本明文なる男に、香出菜のノートを見せるつもりでいたのである。
 受付で岡本に会いたい旨を伝えると、暇だったのか岡本は直ぐに飛んで来た。
「やあ、誠くんじゃないか。実に久し振りだねえ。きみに会えて、嬉しいよ。無事生きていたんだね、良かった、良かった」
 岡本は誠の肩を叩いて、再会を祝した。
「岡本さんも、お元気そうで何よりです」
「ああ。戦争も終わり、日本は負けてしまったけれど、これから新しい時代になるんだから。俺たちの手でこの国の未来を、切り開いてゆかなきゃな」
「まったくです」
 挨拶を済ませると、ふたりはビル内にあるカフェに移動し、テーブルの椅子に腰を下ろした。早速誠は今日会いに来た理由を、岡本に告げた。
「岡本さん、実はあなたに是非見て頂きたいものが有りまして……」
 そして誠は、香出菜のこと、香出菜が記し残したノートのことを簡単に説明し、風呂敷を解いて中のノートを差し出した。
「ほほう。被曝による幻聴の記録だって。単なる闘病記とは違うのかね」
「はい、自分も最初はそう思ったのですが。目を通してみると、これがまったくもって異質なるものでした」
「異質とは」
「ま、ちょっと手に取って、実際に御覧下さい」
「良し、そんなに言うのなら。幸い今日は急用もないし」
 岡本は誠からノートを受け取ると、誠が見守る中読み始めた。

『産業革命の時代より、完全なる我々の経済奴隷或いは巨大な地球牧場の家畜と堕したる人類市民の諸君に告ぐ』
 はあ、何だこれは……。訝しがりながらも、岡本は先を読み進めた。
『これはすべて、我々の計画である。これ、とは直近では原子爆弾リトルボーイの爆発であり、これを理由とした第二次世界大戦の終結であり、時を遡れば第二次世界大戦の開戦でもある。詰まり我々が第二次世界大戦を開始させ、我々がリトルボーイを製造しかつ爆発させ、これにより第二次世界大戦を終わらせるのである。ではこのような人類未曾有の事象を計画し、かつ実行せんとする我々とは一体何者なのか。我々はこの地球と人類の頂点に君臨する、国際平和委員会である。この地球上に起こるすべてのことはみな、我々委員会が遂行する極秘計画の一部に過ぎない……』
 岡本はノートから顔を上げ、誠をじっと見詰めた。
「何だね、これは。誠くん」
「はい」
「俺には空想好きな青年の、小説もどきとしか思えんのだが」
 誠は頷いた。
「はい。自分も初めはそんな印象を抱きました。しかしですね、岡本さん。これを著したのは、何を隠そう十六歳の少女であり、かつ彼女は終戦を迎える二日前、既に死去しているのです。詰まりこれが書かれたのは、終戦より明らかに前ということになります。なのに、終戦のことがはっきりと書かれているではありませんか」
「成る程。ああ、そうだね。言われてみれば、確かにそうだなあ。丸で軍事作戦計画書か、でなければ予言書のようだ」
 岡本は腕を組み、ノートを凝視せずにはいられなかった。
「確かに、何か怪しい機密文書のような気もするなあ」
 そうでしょう、と言わんばかりに誠は頷いた。
「もうちょっと、読ませてくれ」
 言うが早いか岡本は、誠の存在も忘れ、さっさとノートの文字に目を落とした。
『第二次世界大戦に於ける我々の計画、そのひとつが原子力の実用である。我々はなぜ人類史上初の核兵器、原子爆弾を製造したのか。核分裂という天啓を受けた我等の同志の手によって、原子爆弾の開発、所謂マンハッタン計画は着実に進められた訳であるが、我々の第二次世界大戦に於ける最終目的は、あくまでも原子力という新たなエネルギーによる新世界の創造である』
 新世界の、創造だと。岡本は首を捻った。
『核兵器とは、そのひとつのツールであり、核兵器を第二次世界大戦に於いて使用すること即ち原子爆弾を現実に戦場で爆発させることは、原子力エネルギーの威力を全世界に知らしめるデモンストレーションであり、原子力ビジネスのひとつのショーに過ぎないのである。これによって我々は、原子力が如何に既存のエネルギーを遥かに超越した巨大かつそれでいて如何に効率的なものであるかを人類に知らしめ、永く続いた第二次世界大戦にピリオドを打ち、人類を輝かしき新時代へ導かんとするのである。
 では第二次世界大戦後の新世界とは一体どんな世界であるのか。否我々の手によってどんな世界と為すか。おおまかに言えば、世界を東西の二つに分け、互いに争わせるのである。と言っても殺し合いではない。言わば経済とイデオロギーによる戦争である。一方を資本主義陣営、もう一方を共産主義陣営と為して競わせ、その競争の中で更に人類は進化を遂げるであろう。恐らくは目映いばかりに燦然と光り輝く物質文明の時代が到来することと思う。
 だがその時代も決して永くは続かない。なぜなら我々の計画は、常に次なる人類進化のステージを準備しているからである。具体的には次なる戦争へのシフト即ち第三次世界大戦への準備に、着手するのである』
 なに、第三次世界大戦だと。まだやっと第二次世界大戦が終わったばかりだと言うのに。岡本は再び、首を捻らずにはいられなかった。
『ではここで第二次世界大戦の計画に戻るが、我々はなぜマンハッタン計画の果実であるリトルボーイとファットマンをここ日本の地、広島と長崎で爆発させたのか。それは今後の我々の計画上、日本という国が重要な役割を担うからに他ならない。来たる第三次世界大戦の開戦に於いて、日本こそがそのトリガーとなるからであり、そのキーワードは、mikasaである……』
 キーワードはmikasa。はて、mikasaとは……。
「誠くん」
 岡本はノートから顔を上げ、誠の顔を見詰めた。
「どうでしたか、岡本さん」
 問う誠に、岡本は頷いた。
「確かに、これはただごとではなさそうだ。しかし本当にきみの知り合いの少女が、こんな物を書いたのかね」
「それは、間違いありません」
「やっぱり、そうなのか」
 そして岡本は続けた。
「なあ、誠くん。もし差し支えなければ、このノートを二、三日俺に貸してもらえないか。是非とも、うちのデスクに見せたいんだよ」
「ええ、結構ですとも」

 こうして香出菜のノートは、誠から岡本の手に渡った。岡本は誠への言葉通り、オフィスに戻ると直ぐに上司の立野辰男という男に香出菜のノートを見せた。
 一方、岡本と別れた誠は広島駅前に戻ると、いつものように広島市民公園の配給の列に並んだ。時は既に日没前だった。
 無事配給の食料を受け取った誠は、とうに日の沈んだ街を美砂江の待つ綾瀬家へと急ぎ足で帰路に就いた。路地は暗く、行き交う人の影も少なかった。ところが何処からともなく一人の男が現れたかと思うと、男はすーっと誠の背後に迫った。やくざ風の男であった。誠は警戒した。けれど時既に遅し。男は誠の前方に躍り出るや、隠し持っていた出刃包丁を取り出し、誠の胸にさっと突き刺したのである。
 誠の胸から大量の血が溢れ出した。誠はじっと男の顔を見詰めたまま、男の体にしがみ付くようにその場に倒れ込んだ。誠の死を確かめたその男は、暗闇に紛れさっさと立ち去った。これが誠の最期の瞬間であった。誠は痛みの中で、けれどこれで香出菜の元へゆけると、むしろ安堵した顔で死へと赴いたのであった。
 続いて同じ頃、広島日報の岡本は仕事を終え帰宅途上にあった。岡本は広島駅前で足を止め、鞄の中からワンカップの日本酒を取り出した。それはデスクの立野辰男からもらった物だった。酒好きの岡本は、それを一気に飲み干した。
「ううっ」
 ところが岡本は突如顔面蒼白となり、苦しみもがきながら駅の雑踏の中に倒れ込んでしまった。心配した通行人の一人が岡本に声を掛けた時、けれど岡本は既に息絶え、帰らぬ人となっていたのである。
 その頃、誠が殺されたなどと夢にも思わぬ美砂江は、誠の帰りをひたすら待っていた。けれど何時になっても、誠は帰って来なかった。かと言って捜すことも出来ず、美砂江はひとり孤独に途方に暮れた。
 その後美砂江は秋の終わり、被曝を原因とする白血病になり、誰に看取られることなく死去したのであった。
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