(三・七)観音崎行きバス

文字数 2,104文字

 二〇〇五年八月五日
「カデナさん、俺大変なことになっちゃった」
 眩しい八月の陽が、部屋の窓から差し込んでいた。この日は金曜日で、午前中自宅にいたカデナの携帯に、マコトから着信が入った。
「何。どうしたの、大変なことって」
「それがさ、俺、選ばれちゃったんだ」
「何に」
「だから。明日の三笠の、花火の打ち上げ」
「えっ、どういうこと」
「だから、花火打ち上げんのに、三笠の艦砲の発射ボタンを押す、その役」
「えっ、ほんと」
「まじ」
「凄ーい」
「そうかな」
「そーだよ」
 照れるマコトに対して、カデナはもう大はしゃぎ。
「でも、何でマコトちゃんが選ばれたわけ」
「分かんない。どうせ上のやつらが超てきとうに、あみだくじか何かで決めたんじゃないの」
「でも兎に角、良かったじゃない。なんかカッコ良さそうだし。頑張って、マコトちゃん」
 カデナの声援にも関わらず、マコトはため息。大舞台への緊張で、憂鬱気味だった。
「そこでさ。下見に、これから三笠公園に行かない」
 マコトは本番を明日に控え、今日は海上自衛隊の勤務は休暇を取っていた。
「えっ。うん、いいよ。行こ、行こ」
 カデナは快諾し、自宅で和貴子とランチを食した後、颯爽とデートに出掛けた。

 いつものようにカデナはセーラー服、マコトは海上自衛隊の制服。ふたりはJR横須賀駅前で待ち合わせした後、前回同様バスで目的地へと向かうことにした。三笠公園でのデートは、これが二回目だった。
 夏真っ盛り。ぎらぎらと照り付ける陽射しの下、ふたりは三番乗り場の停留所の日陰になったベンチに腰を下ろした。今日は他に観音崎行きのバスを待つ客はいなかったから。
 若いふたりの頬に、穏やかな風が吹いていた。この時間帯、バスは約二十分間隔で運行している。
「……まもってあげたいあなたを……」
 バスを待つ間、カデナは風に長い髪を揺らしながら、マコトから教えてもらった『男の子のように』を幾度となく口遊んだ。
「相当気に入ってくれたみたいだね、その曲」
「うん。わたしこの曲、大好き。今度思い切って、髪ショートにしちゃおうかな」
「えっ、まじで」
 ロングヘアのカデナしかイメージ出来ないマコトは、吃驚。でも気を取り直して、カデナに笑みを送った。
「うん、いいかもね。案外似合ってたりして」
「そうかな。じゃ期待にお応えして、明日の朝早速、美容院に行って来る」
「え、そんなに急に……」
 笑い合うふたりの間を、潮風が駆け抜けてゆく。
 バスは遅れているのか、予定時刻を過ぎてもまだ来なかった。ふたりは見慣れた横須賀湾の海を眺めながら、眩しい光と風の中でバスを待っていた。このままずっと、いつまでも待っていられると思える程に、それは穏やかな午後だった。ふたりでいることは、ふたりにとってそして何よりの幸いであった。
 そんなふたりの停留所のベンチの前に、遂にバスがやって来た。乗車すると、ふたりの他に客はいなかった。それでもバスは遅れて来た為、カデナとマコトを乗せるや排気ガスを撒き散らしエンジンを唸らせながらさっさと発車した。
 エアコンの効いた車内で、ふたりの汗は直ぐに引いた。ふたりだけのバスは貸し切り状態。カデナとマコトは最後尾の五人掛けシートの両端にそれぞれ坐り、窓ガラスに顔を当てた。
 駅前を出発したバスは、しばしヴェルニー公園の横を海を眺めながら走った。ふたりはどちらともなく、窓を開けた。但し全開すると風が強過ぎるから、半分だけにとどめて。それでも潮風は気持ち良かった。空は青く、その空を映した海もまた透き通る程に青かった。真夏、正に八月の空と海だった。波が煌めき、水平線は遥か彼方。カモメが飛び交い、ウミネコの鳴く声が寂しげに耳に木霊する。
 しかしあっという間に海は車窓から消え去り、風景は横須賀は中央街の街並みへと移った。
 二分後、バスは汐留停留所で停まった。老人たちが数名乗り込んで来た為、カデナとマコトはさっさと窓を閉めて二人掛けシートに移動し、並んで坐った。前方のシートに腰掛けた老人たちの他愛無い世間話と談笑が聴こえる。バスは動き出し、市のメイン道路へと進んだ。人と商店街と車しか見えず、窓を開けても排気ガスの臭いばかり。我慢しながら、カデナとマコトは通過する街のノイズに耳を傾けた。
 二分も経ずしてバスは、本町一丁目の停留所で停まった。反対車線は渋滞していたが、カデナたちの進む方向は空いていた。商店街で買い物を済ませた老人たちがどどっと乗り込んで、バスのシートは一挙に埋まった。次で下車するカデナとマコトは席を譲って、吊り革にぶら下がった。
「ありがと。いいね、若い人は元気で」
 老婆にお礼を言われ、照れまくるふたり。
「何処まで行くの、あんたたち」
「三笠公園です」
 マコトが愛想良く答えた。そうこうしている間に、バスは三笠公園最寄りの大滝町の停留所に到着した。
「楽しんでらっしゃい」
「行ってきまーす」
 手を振る老婆にふたりは元気に答え、バスを降りた。
 バスが立ち去るや否や、カデナとマコトを猛暑が襲った。耳には激しい蝉時雨の交響楽。晴れ渡った八月の道をふたりはとぼとぼとぼとぼ、汗を拭いながら三笠公園へと歩いた。
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