(二・二)かでなとまこと

文字数 2,205文字

 ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……。
 ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……。
 六月初旬の嘉手納の海は、既にもう真夏の暑さであった。その日かでなは母親の美砂と、日暮れ前の嘉手納海岸を散歩していた。かでなは両親に大切に育てられた、松堂家の一人娘である。
 サーフィンで焼いたその褐色の逞しい二の腕が、美砂もまた男勝りであることを物語っていた。顔のしわを潮風になびくロングヘアとサングラスで隠せば、かでなと姉妹かと見間違う程にまだまだ若々しい。人として女として美砂は人生の先輩であり、かでなの良き相談相手でもあった。
 照り付ける日射し対策グッズが美砂はサングラスであるのに対し、かでなは麦藁帽子だった。その麦藁帽子には向日葵の飾りが付いていた。海岸を吹き抜ける潮風は荒々しく、かでなは麦藁帽子が吹き飛ばされないよう、しじゅう手で頭を押さえながら歩かねばならなかった。美砂はセーラー服と麦藁帽子のかでなの姿が愛らしく、いとおしくてならなかった。いつまでも変わらず、あどけない少女のままでいてくれたらと美砂は願う。けれど少女もやがて大人になり、恋に落ちるものである。
 こんな暑さの中、詰襟の制服を着たひとりの男子学生が海岸の反対側から歩いて来るのが見えた。誰だろう、知ってる子かな。かでなは、相手が誰か気になった。まだ遠過ぎてぼんやりとしか見えない。距離が近付き、相手の制服が自分と同じ県立嘉手納高校のそれであることが分かった。ますます気になるかでな。
 もしかして、あいつかも……。かでながそう思いながら、うっかり頭から手を離した瞬間、吹き荒れる潮風がかでなの麦藁帽子をさっとさらっていった。しまった。
「待ってーーっ」
 叫びながらかでなは、空中を舞う麦藁帽子を追い掛けた。美砂も続いて、二人して砂浜を走った。しかし麦藁帽子の方も逃げ足が速く、くるくるくるっと気持ち良さそうに潮風に舞いながら、どんどん遠ざかった。そして帽子の行く方角に、さっきの男子生徒がいた。
 男子生徒は咄嗟にジャンプして、かでなの麦藁帽子を見事キャッチした。
「ありがとう、きみ」
 美砂は歓声を上げながら、男子生徒の元へ駆け寄った。ところが肝心のかでなの方は途中で足を止め、ぼんやりとその男子生徒と美砂を見詰めていた。
 やっぱり、洌鎌(すがま)君……。
 その男子はかでなの同級生であり、名を洌鎌まこと、と言った。まことの方もかでなに気付いて、照れ臭そうにかでなを見詰め返した。その頬はまっ赤だった。かでなの頬も伝染したように、紅潮していた。
 まことは、かでなと同じ高校二年生。五月生まれだから既に十七歳で、かでなとは一年の時から別のクラスだった。その為お互い顔は知っていたけれど、まだ口を利いたことは一度もなかった。
 ふたりは黙ったまま、しばし見詰め合った。間にいた美砂が、けれど沈黙を破った。
「娘の帽子、ありがとうね」
 サングラスを取り微笑み掛ける美砂に、まことは恥ずかしそうに答えた。
「ちょうど、ぼくの所に飛んで来たもんで」
「何してんの、かでな。さっさとこっち来て、帽子受け取んなさい」
 振り向いて催促する美砂に、かでなは仕方なさそうに答えた。
「はーい、分かりました」
 目の前に来たかでなに、まことは麦藁帽子を差し出す。
「どうも、ありがと」
 かでなは無愛想に、まことから麦藁帽子を受け取った。
「何よ、それ。ちゃんと、お礼言いなさい」
「はいはい。本当に、ありがとうございました」
「そんな。大したこと、してないです」
 まことの顔は火傷しそうな程、熱かった。
「あれっ。もしかしてきみ、嘉手納高の生徒」
「はい」
「何年生」
「二年です」
「なーんだ。じゃ、あんたと同じじゃない。もしかして知り合い」
「知らない、知らない。だってクラス違うもん」
 かでなは必死にかぶりを振った。
「何で、二クラスしかないんだから、顔位知ってるでしょうよ」
 するとまことがにっこりと微笑んだ。
「はい、顔位なら」
「ほーら。知ってるってよ」
 こうして母美砂を介して、かでなはまことと知り合いになった。
 ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……。
 ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……。
 いつのまにか嘉手納海岸は、空も海も夕焼けに染まっていた。

 洌鎌まこともまた、なぜか広島の原爆リトルボーイに対し、生まれながらに特別な感情を有していた。しかしそれはかでなの持つ恐怖心とは明らかに異なった。まことの場合、広島の原爆を思うとなぜか激しく胸が痛むのだった。あの八月六日燃え盛る広島の街の中に、どうしてもぼくは、何か大切なものを忘れて来てしまった気がしてならない……。
 そしてかでな同様、幼い頃より悪夢にうなされても来た。あたかもリトルボーイ爆発直後の広島の街で過ごした経験があるかの如き、それはリアルな廃墟の街並みの夢だった。しかもその夢の中には決まっていつも、人波の中に立ち尽すひとりの男の姿があった。
 その男は夏だと言うのに軍服を身にまとい、暗い悲しげな顔で途方に暮れていた。目に一杯の涙を浮かべながら、男はこう呟いた。
「自分は、きみを守って上げられなかった。香出菜、きみを」
 その男の顔はどきっとする程、まことに良く似ていた。
 かでな、きみを……。まことはいつも、ここで目が覚めた。そして夜明け前の静けさの中で、丸で夢の中の男の悲しみが乗り移ったかのように、まことの胸は激しく痛んだ。
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