(一・三)終戦

文字数 2,106文字

 一九四五年八月十五日
 日本は終戦を迎えた。国民の誰もが無条件降伏に驚き、玉音放送に涙した。その頃山口県岩国基地にいた誠もまた悔し涙に暮れはしたものの、それとは別に広島への熱き想いが彼を駆り立てた。
 早く広島に戻りたい。そして香出菜が無事なのか知りたい。香出菜に会いたい……。

 去る八月五日、誠は出征列車で広島を発つとその日のうちに無事山口に到着した。しかし翌日広島で起きたリトルボーイの爆発によって、誠の部隊は出発を延期し待機することとなった。ところがそのまま、日本は終戦を迎えてしまったという訳である。
 全国から岩国基地に召集された兵士たちは、そのまま故郷に戻るよう命じられた。皆混乱し、また呆然として、戸惑いの中に身を置いた。しかしそんな仲間たちにさっさと別れを告げると、誠は支給された食糧を手に、既に復旧していた山陽本線に飛び乗った。
 広島駅に着いた誠は、直ぐに市街地へと足を向けた。しかし想像を絶する街の変わり様に、目を覆わずにはいられなかった。何ということだ。ショックの余り、しばらくその場に膝をついて坐り込んでしまった。
 けれど香出菜のことを思い出した誠は、はっとして、焼け野原の中に立ち上がった。街がこんな有様で、はたして香出菜は無事だろうか。きみは無事なのか。どうか無事でいてくれ、いとしき人よ……。
 逸る気持ちを抑えつつ、誠は空腹も疲労も喉の渇きも忘れ、通い慣れた香出菜の家へと駆け足で急いだ。誠が綾瀬家の前に立った時はもう日暮れ前だった。辺りに人影はなく、通りで遊ぶ子どもらの姿もなかった。日本はおろか世界中が、しーんと静まり返っているかのようだった。軍服を着た誠は溢れ出る汗に全身びっしょりと濡れながら、玄関の戸を恐る恐る叩いた。
 トントントン。
「徳山誠です。恥ずかしながら、ただ今帰って参りました」
 誠は、大声で叫んだ。すると中から聴き慣れた人の声が返って来た。美砂江である。
「誠さんかい。これはこれは、なんとお早いご帰還だこと」
 しかし美砂江の声は死人のように、沈んでいた。
「お母さん」
「戸は開いているから、勝手に入って来て頂戴」
 勝手知ったる他人の家。美砂江の言葉に従い、誠はさっさと家の中に上がった。そこで誠が目にしたものは、しかし病床に伏したる弱々しい美砂江の姿だった。
「お母さん、いかがなさいましたか」
「ああ、本当に誠さんなのね。会いたかったわ。ごめんなさい、こんな恰好で。どうにも体がだるくてね。ずっとこうなのよ」
 香出菜の死後、美砂江にも少しずつ被曝による症状が出ていたのである。
「お母さん。無理せず、そのままで結構ですから」
「ああ、ここにあの子がいたら、どんなに良かったかしら」
 あっ。美砂江の言葉に、誠はびくっとした。慌てて家の中を見渡した。けれど香出菜の姿は、何処にもない。
 まさか……。恐れる心を払い除け、誠は思い切って美砂江に問うた。
「お母さん、香出菜さんは」
 すると美砂江は誠をじっと見詰めながら、ゆっくりとこう告げた。
「誠さん。あの子は終戦の二日前、死にました」
 えっ。死にました。香出菜さんが、死んだ……。誠はショックを隠し切れなかった。しばし沈黙の後、しかし誠は涙を堪えながら、健気にこう美砂江に述べたのである。
「お母さん、それはお辛かったですね。でももう大丈夫。この徳山誠、出来る限りお母さんの面倒を見させてもらいますから。どうぞ、何なりとおっしゃって下さい」
「誠さん」
 誠の思いやりに満ちた言葉に、美砂江は思わず涙を零さずにはいられなかった。
 その後、美砂江への言葉通り、誠は綾瀬家に居候して美砂江の看病を開始した。そんな誠に美砂江は、香出菜が幻聴の内容を記した、例のノートを渡した。
「誠さん、わたしには何が書いてあるのか、さっぱり分かりません。でもあの子が生前命を削るようにして、書き残したものです。これをあなたに差し上げますから、どうぞ暇な時にでも、目を通してやって下さい」
 誠はそれを香出菜の形見として、言われたままノートを素直に受け取った。

 その日も誠は、美砂江と自分の食料を手に入れる為、広島市民公園で行われている配給の列に並んだ。配給を待つ人の数は多く、夕方から並んでいるにも関わらずまだまだ順番は来そうになかった。とうとう陽が沈み、辺りは闇に沈んだ。誠はぼんやりと夜空を見上げ、地上の騒乱とは無縁に変わることなく瞬き輝く銀河に見入った。その美しさに、誠は香出菜のことを考えずにはいられなかった。
 ああ、なんてことだ。自分だけ生き残ってしまったではないか。心の奥底から込み上げて来る悔恨と己の不甲斐無さとに、誠は身悶える程だった。自分は、大事な人を守って上げられなかった。香出菜、きみを、あなたを、原子爆弾の脅威と殺戮から救えなかった。自分はあなたを守れなかったのだ。何という死に損ない。せめてあなたの身代わりになれたなら、自分はどんなに楽だったろう……。
 この夜から誠は、香出菜の死を自らの十字架として背負うことにより、悪戯に自分を責めるようになった。常に自責の念に苛まれ、もがき続けた。けれどそんな誠の日々が、永く続くことはなかった。
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