第1話:塚田家の先祖の話1

文字数 2,644文字

 ここは、東京から比較的近い、埼玉県上福岡市。塚田家は、元々、江戸時代から庄屋を務めていた。江戸時代から川越から現在のふじみ市、志木市、戸田、川口を抜けやがて、隅田川に入った。そして千住大橋、浅草、両国橋のたもとから日本橋に通じて船で大きな荷物を運ぶ巨大な運送路だった。塚田家は、その新川岸川の船荷の運搬を取り仕切りっていた。

 その荷物の運搬で巨万の富を蓄え、地元の庄屋として名の知れた新川岸川の廻船問屋として、長期間にわたりこの川筋の豪商として名を馳せていた。そのため川越、福岡あたりでは塚田大尽と呼ばれて多くの分家が船の往来の仕事に従事していた。当初は年貢米の輸送を主としていたが時代が進むにつれて人や物資が頻繁に往来する様になった。

 舟の種類は並船、早船、急船、飛切船などがあった。並船は終着地の浅草花川戸まで1往復1週間から20日かかる不定期の荷船。早船は乗客を主として運ぶ屋形船。急船は1往復3-4日かかる荷船。飛切船は、今日下って、明日には、上がる特急便でした。通常「高瀬舟」で70から80石積み九十九曲がり三十里を川越方面からは俵物、米・麦・穀物、さつまいもや農産物、木材などを運んだ。

 江戸からは肥料類など主に日用雑貨を運搬していた。川越では旭橋を中心とした上・下新河岸、扇河岸、寺尾河岸、牛子河岸を合わせて川越五河岸と呼ばれ船問屋や商家が軒を並べ、日夜発着の船が絶えなかった。その物資を運搬する馬や車が行き交い大にぎわいした。まさに物資供給の中心地として栄えた商都川越の玄関口だった。

 幕末から明治初年ごろが舟運の全盛期だった。その後、鉄道が開通し洪水防止のための河川改修により水量が不足し舟の運航ができなくなり舟運は1931年に終わりを告げた。塚田家の人達は1900年頃の鉄道の発展を見て、いずれ舟運の時代を終わると考えた。そこで早めに、この商売の権利を他人に売り渡し大きな財産を得た。

 その大金で大戦景気、大正バブルに乗ってイギリスやロシア帝国などの連合国側の同盟国や友好国は不足する軍需品などの供給を日本に求めた。塚田家の先祖達は求められる商品を彼らの莫大な財産で日本中から買い集め同盟国に売りまくり大儲けした。更にアジアからヨーロッパ製の商品が後退した後、アジアで需要の高い商品を日本国内で大量に買いアジアに輸出業者と組んで売りまくり大金持ちになった。

 その後、欧州で船が足りないとわかると日本で景気の悪い船会社からボロ船を現金で買い集めた。そして船を欲しがる諸国へ法外な高値で船を貸し出したり売却し富を更に増やしてた。同時に船会社や鉱山会社、商事会社の株を買い集めた。船会社では好景気で年5割や年7割などの配当をする会社もめずらしくなかった。そのため日本の株式市場も活況を呈し大儲けした。しかし商売の勘の鋭い塚田勝一は、いつまでも小国日本の好景気は続かないと踏んだ。

 そこで株価が下げ始めると持っていた大量の株式や商品、船などを一気に売った。そして1923年「大正12」年9月1日正午前の関東大震災で、がれきの山となった帝都・東京を横目で見て、武蔵野に居を構え大きな被害を受けずに生き延びた。この頃、旧華族や政治家、高級官僚達が持っていた、金、宝石、乗用車、壊れずに残った武蔵野の大邸宅や東京の土地を塚田家の先祖が買いあさった。

 関東大震災で被災した富裕層達が食料の確保のために武蔵野、千葉、埼玉の広い土地を手離さなくなるのを見て塚田宗一は彼らの足元を見て超安値で買いたたいた。そして手に入れた金、銀、宝石、美術品、掛け軸、豪華な着物、反物などを武蔵野から近い埼玉の多くの蔵に入れ保存した。頑丈な錠前をつけ管理人を住まわせて守った。更に1930,31年「昭和5、6年」の昭和恐慌の時も持っていた金で富裕層の高価な金品、財宝、土地を買い集めた。

 つまり需要が高まり価格が上がると売って供給が増えると安値で買うという経済の常道で大金持ちが,更に大金持ちになった。しかし決して金で貴族院議員の様な地位や名誉を欲しいとは、全く思わず、ひたすら富を蓄える事に情熱を燃やし続け巨万の富を作った。やがて1935年「昭和10年」が過ぎて、軍国主義の時代が来ると息を潜めて静かに暮らし続けた。塚田一族が食うものに困らない様、大勢の小作人に給料を払って雇った。

 そして地元名産の川越のさつまいも、お米、麦、野菜、鶏肉、卵を確保するため、彼らを働かせた。そうして塚田宗一と息子の塚田勝一が、塚田一族が不自由のなく生きていけるようにした。戦争が始まると1941年「昭和16」年から都心や工業地帯は米軍B29の空襲で危ないと考えた・そこで秩父の山奥に小作人をひき連れて夜中に高価な金、銀、宝石、財宝などを荷車に乗せ一晩のうちに運んだ。

 そして秩父の農家の蔵を借りて一気に運び込んだ。その後、川越が危ないとわかると塚田一族に安全な山間部、秩父に行くように指令を出した。そのてめ地元の人に金を払い田畑を借りて、小作人を雇い、米、麦、野菜、鶏肉、卵を確保して生き延びた。その後、B29の爆撃が激しくなり焦土と化す都心部を見ながら栄養失調になる事もなく秩父の荒川で川魚をとって1945年「昭和20年」の終戦を迎えた。

 終戦後も世の中が落ち着くまで秩父に住んで時の過ぎるのをひたすら待っている1946年、父の塚田一郎が生まれた。1950年「昭和25年」夏、朝鮮戦争が起き、建築に必要なセメントが売れると考え、秩父セメントの株を大量に買った。また値上がりする前にセメントを大量に買って秘密裏に倉庫に保管した。その後セメント価格が上昇し始めると少しずつ高い値段が崩れないように上手に売った。

 先が見えないので1年で売り切ろうと考えていたが、実際には2年間特需が続いた。そこでも十分な利益を得た。また秩父セメント株も下がり始めると一気に売り切り富を増やした。その後、1953年3月5日、ソ連のスターリン死亡時のスターリン・ショックで当時の株価が3月4日の株価378円が340円に急落した。これを見て祖父の塚田勝一が日本の東京海上、平和不動産、新三菱重工の株1億円購入した。

 その後、神武景気、岩戸景気と続き上がり始めるとすぐに全株を一気に売り、5億円を手に入れた。その後、再度、株が上がりだすと思い4億円で日本の主要株を買った。翌年、1968年4月8日、父,塚田一郎が、近所に住む、塚田富子と結婚した。
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