第37話 生き宮(みや)

文字数 1,995文字

いくつもの衣擦れの音が耳に囁き、人の気配はしないのに、沢山の人が周りを歩いている音がする。
身体は軽く、まるで水の中にいるように奇妙な浮遊感がある。
風はないのに風が吹き、近くをさやさや水の流れる音がしてメイスは目を開けた。

そこは夕暮れのように薄暗く、空は雲一つ無いのに星がない。
怪訝な顔で起き上がり周りを見回すと、人々が濃い霧がかかった川に向かって脇目もふらず歩いて行き、そしてその霧の中に消えていく。
メイスは不思議とそれが恐ろしいとも思えず、ただ淡々としばらく見入っていた。

「ここは……死後の世か?な?」

「いいや、厳密に言えばその一歩前だな。」

女の声に驚き、思わず振り返る。
そこには、見事な黒髪を腰まで伸ばし、まるで一枚の布の真ん中に穴を開けてただそこから頭を出したような、奇妙な白い服を着た10才ほどの少女が酒瓶を持ち、ひどく不機嫌な顔でメイスを見下ろしていた。

「わしはお前の師匠じゃ。
向こうで楽しう酒盛りしておったのに、貴様のためにフレアに呼び出された。
よってわしはたいそう不機嫌である。」

「はあ……師匠……様?ですか??」

「貴様はド!素人ではあるが、受け入れる入れ物としては大きいようじゃ。だが、それはただの入れ物でしかない。
今の貴様はなんでも来いの、ただの(おけ)
ゴミだろうが汚物だろうが、えり好みも出来ず、ただ、だば〜んと受け入れることしか出来ぬ。
思い当たることがあろう。」

「は、はあ。」

確かに、リューズ様の元では、あの方の力を受け入れたり身体をお貸ししたりはしていたし……

ふと、あの森で身体を乗っ取られた時の恐怖が思い出されて身震いした。

「あります、恐ろしい目にあって……自分では、どうしようもありませんでした。」

少女はフンッと鼻を鳴らし、酒瓶からぐいぐい酒を飲む。

「うむっぷは〜!そうであろ!
入れる物はなんでも良い訳じゃない。貴様は青の巫子。聖なる青き炎を宿す生き宮でなくてはならぬ。
その神聖なる宮にゴミなど入れてはならぬのじゃ!
じゃから、わしがお前の木桶を金の鍵付き宝物庫にしてやる!
ここには時という物がない。じゃが、サクサク覚えぬとわしが宴に戻れぬ。
よいな!基礎からみっちりサクサクやるぞ!
休みは無しじゃ!」

「で……も、私が、本当に巫子様になれるのか……私は……汚れているのです。きっとなれません……」

うつむき、小さな声でうなだれるメイスが、自分の身体を抱きしめる。
魔導師の塔で夜、時折あの魔導師達に女の代わりを強いられた。
痛みよりもひどく屈辱的で、悲しくて悲しくて、絶望しか感じなかった。
いっそ死んでしまおうと井戸に身を投げた時、井戸の中の暗闇で暗い声に救われたのだ。


「それで相手を殺したか?」


ドキッとメイスが飛び上がった。

顔を上げると、少女は燃えるような青い瞳を見開き、メイスの目をじっと微動だにせず見つめている。
まるで引き込まれるような恐怖を感じ、メイスは思わず後ろにひっくり返った。

「こ……殺してなんか、いない……けど……
あ、あいつらが憎い!憎いから!
僕にはあいつらを罰する権利がある!
怖かった、誰も助けてなんかくれない。怖くて悔しくて。こんな事、巫子様のお前に……
身分の高いお前なんかに。
僕がどんな目にあったのか、お前になんかわかる物か!!」

「わからぬ。
だが、お前の中にある底深い悔いと悲しみは見える。
それはドロドロとお前の中で澱のように沈んで、澄んだ心を少しずつ濁している。
それはお前が自分で、少しずつ取り除いて行くしか無かろう。」

「そんなこと、できる物か!」

「うい奴よ。お前はまだ、生を受けて何年だ?
人としてはまだまだ、先が長い。
過去の禍根はゆっくりと、明日、また明日と日々を明るい方を向いて癒やして行け。
人は過ちだらけじゃ、聖人君子などどこを探してもおらぬ。
憎しみも悲しみも、それはお前が生きている証拠じゃ。
だが、殺した者は、お前の苦しみを知っても悔いることも詫びることも出来ぬ。
お前が殺さず堪えたのは、のちのち慈悲にも繋がろう。
すべてのことが、お前の血肉になる。
人生日々修行よ。

よいか、青の巫子は聖なる火の入れ物、お前はそれを管理できればそれでよい。
お前は、お前であればよいのじゃ。
あとは赤の火の巫子と仲良う、そして神殿を建て直し、次代の巫子へと受け継ぐ地盤を作らねばならぬ。
火を継いで行くのじゃ。
大切な、聖なる火は生者と死者の灯火、闇を灯す明かり。そしてけがれを払う浄化の火。
それを断ってしまったから世が乱れた。

さて、修行の始まりじゃ。
お前が巫子とも呼べる代物になるまで、わしは断酒するとしよう。
よって早う覚えぬと、わしはどんどん機嫌を損ねるのでよいな!これはわしとの戦じゃ!
わしの名は、青の巫子マリナ・ルー。赤の巫子リリサレーンが相棒じゃ。」

少女が酒瓶を置き、メイスに手をさしのべる。
メイスは恐る恐るその手を取り、明るくニッと笑う少女の優しさに安堵した。
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