鮫の話:戦争の話10000字

文字数 10,821文字

 夏休みに田舎のじいちゃんちの縁側で寝転がっていた。
 開け放たれた障子の先の庭から涼しい風が吹いてきて、風鈴をチリンと鳴らして鼻先をかすめた。外からはジィジィというアブラゼミの声が聞こえていたけど庭先は明るすぎて、捕まえにに行きたいけど躊躇する。

 猛暑だ。
 外は太陽が面制圧している。俺は(ひさし)バリアの影の内側にごろんと転がって偵察をしているのだ。今は一進一退の攻防。くっきり分かれる明と暗。あの明るいところに出ていってしまえばじゅうじゅう焼かれてしまう。
 結局の所、外は暑そうだから後にしようかというような、半端な感じでゴロゴロしていた。 

佐吉(さきち)。遊びにいかんのか?」
「午後からカンちゃんと海に泳ぎに行く」
「そうか、気をつけてな」
「じいちゃんも行かんか?」
「わしは海は好かん」

 そういえばじいちゃんとは山にはよく行くけれども海には行ったことがない。浮き輪に空気を入れてくれるのに。

「なんで好かんの?」
「鮫が出るからよ」
「鮫なんて出ないよ。出たとか聞いたことないもの」
「そうよなぁ」

 それはわかっとるんだが、とじいちゃんはぽつりと呟いて縁側の外の入道雲を眺めた。

「わしは入道雲がでとる間は海にはいかん」
「入道雲? なんで」
「ううん」

 じいちゃんはいつもガハハと明るいのに、なんだかいつもと違う様子で顔をクシャッとした。

「そうやなぁ。昔なぁ、じいちゃん戦争の時に船に乗っとったんだ」
「へぇ」

 じいちゃんも庇の影によっこいしょと腰を下ろした。
 そういえば昔何かでじいちゃんは戦争に言ったと聞いたことがある。でもじいちゃんからこれまで戦争の話を聞いたことはなかった気がする。母ちゃんがいい顔をしないから。

「どんな感じやったん?」
「そうやなぁ。じいちゃんが乗っ取った船は日本のずっと南の方の海に行ってな、ボカチンいうて魚雷でボカンと船に穴が開いて沈没したんよ」
「えぇ? 軍艦やないの?」
「軍艦いうてもいろいろあるんよ」
「そんでどうしたん?」
「沈む前にぴょんと海に飛び降りて急いで泳いで艦から離れるんや。近くにおったら沈没に巻き込まれるからな」
「へぇ。逃げられてよかったね」
「まぁ、そうやなぁ」

 じいちゃんはなんだかよくわからない表情で縁側を見つめた。
 助かったんならよかったんじゃないの?

「助けこなかったの?」
「いや、助けは来た。2日後や」
「へぇ。めっちゃおなかすくね」
「まぁな」

 そう。あれは。



 けたたましい警笛とともに船がさらにガクリと傾く。
 思わず転びそうになるのを手すりに掴まり耐える。
 どこかから、もうダメや! 飛び込め! という声が聞こえた。
 その声に触発されたように急造艦はギギギという不吉な音を立てた。ふわりと浮かぶ鉄さびの香り。もうこの艦は持たない、ということが耳と体に伝わる振動でわかった。

 中学では『生きて虜囚の辱めを受けず』『武士道というは死ぬことと見つけたり』と習った。そうは聞いても机の上と体感するのとはまるで違う。死ぬと思うと体は震え、死にたくないと騒ぎ出す。

 そう思えば行動は早かった。
 ダメなものはダメなのだ。そう割り切った俺は手すりを飛び越え船のヘリに立って両足をしならせ、なるべく遠くに着水するよう飛んだ。
 ばしゃりと大きな音をたて、急いで艦から離れる。艦はまだぼんやり浮いているが、沈むときは一気に沈む。その時の水流に巻き込まれないようなるべく艦から離れるんだ。そう聞いている。
 案の定、大分離れたころで背側に少し引っ張られる感覚があった。振り返ると鑑の船首が空を向き、ずぷずぷと沈んでいくところで、すぐに全てが海の底に沈んで見えなくなった。

 そこにはもう、何もない。
 もとより何もなかったかのように水面は静かで、もはや艦が存在した痕跡は漂う油膜と時折ちゃぷりと揺れる何かの破片しかなかった。

 存在していた痕跡がない。その事実に恐怖が襲う。
 俺もこのまま何もなくなってしまうのか。
 おそらく顔を水につければ海中に沈みゆく船が見えるのだろうが、それは俺の少し先の未来のようにも思えてとても確認するような気にはなれなかった。

 そういえば艦とは敵を殲滅するものだ。防御など考えない。防御は惰弱な精神だ。ボカチン食らったらそれで終いよ。実に明快である。これぞ日本男児。乗艦前に誰かからそう聞いたのをぼんやりと思い出す。
 乗艦前にはそういうものかと思っていたが、やはり沈没というものはひと味違うのだ。その恐怖は身に降り掛かって初めてよくわかる。

 目に映る水平線からは薄い空色に白い入道雲がもくもく広がり、水平線の下は少し濃い藍が漂っている。俺の気持ちと随分異なるその妙に楽観的な光景を空恐ろしく感じ、きょろきょろと周りを見渡した。そしてその藍の合間に時折ぷかぷかと頭が浮かんでいるのをみてホッとした。おそらく同じように海に飛びこんだ者だろう。

 少し落ち着き、助けはあるかと思って眺め回してみたが、少し離れたところではまだ戦いが継続していた。いくつかの艦から煙が上がっている。そしてようやく塩の香りに混じって焦げた匂いが漂っていることに気がついた。

「おい、こっからどうなるんや、助けはくるんかの」
「そうやなぁ、沈んだんはわかっとるやろうし、来るんちゃうんかなぁ」

 海の表面のそこここから、ぽつりぽつりとやけに遠い声が聞こえた。だいたいの者が俺と同じように顔だけ海に出して浮いているのだろう。時折波が顔にかぶる。上を向いていると上に声を出すしかない。何もない空に茫洋と広がる声は海水面上に揺れる耳には届き難い。ただでさえ波間でかき消えるその声は随分心もとなかった。

 けれども数を数えると思ったより多い。
 鑑には52人が載っていたはずだ。存外、逃げ出せた者は多かったらしい。俺が一人でないことにほっとした。さすがに一人だけ逃げたというのは困るのだ。敵前逃亡は死罪である。そうでなくとも戻ったときに、みんなお国のために死んだのになんだそのザマは、腰抜けめと罵倒される末路しか見えない。
 だからあの『飛び込め』という声がなければ俺も踏ん切りがつかなかっただろう。そしてきっとそういう者は多い。

 俺も、と思って半端に声を上げたらとぷりと水に沈んだ。そうだ。人というのは何もしなければわずかにだけ水に浮く。それは肺に入れた空気の分だけ浮いているのだとか。だからそれを吐いてしまえば沈んでしまう。だから溺れたら叫んではならない。
 混乱しながらがぷがぷと水を飲んでいると、あの『飛び込め』と同じ声が聞こえた。

「大きい息吐いたら沈むでぇ。こっち集まろや」

 その声に随分ほっとした。方向のわからぬ航海に羅針盤を得たかのようだ。
 そして光に集まるようにぷかりぷかりと漂う顔が寄り集まった。

 驚いたことに声の男は一兵卒だった。
 本来は指揮や命令などできる立場ではない。
 けれどもその男は『沈んじまったもんはもう関係ねぇ』と無邪気にガハハと笑った。
 そしてそれはそうかもしれない、と思った。

 結局の所、階級など艦の上の話だ。このままであれば皆、等しく魚の餌である。ともすると叫びだしそうになる足元の定まらなさの中で、その笑いは妙に力強く感じられた。命綱のように。

 男の名前は吾郎(ごろう)というらしい。
 田舎は富山の漁村で小さい頃から漁船にのって家の手伝いをしていたそうだ。大きさは違えど、だからあの艦がもう駄目なところが損傷したことがわかり、死んじまえば海の藻屑、という考えであのように叫んだらしい。
 なるほど、と思いつつ、おそらくこれは本来は逃亡教唆にあたるのだろうなと思う。そして今後救助された時、誰かが密告しなければよいが、と思った。その時はまだ楽観的に考えられたのだ。

 その場にいた者は総勢42名だった。同じ艦であったものが28名と随分多い。他はこの海域で同じようにボカチンで沈んだ艦の者らしい。そしてどうやら士官と呼ばれる立場の者はいないようだった。
 おそらく一緒に沈んだか、救命ボートか何かで退避したのだろう。士官というものはその両極端だ。

 どことなくみな同じ立場ということで親近感がわき、自己紹介が始まった。浮かぶ以外他にすることもない。大海の中にたった42人。気を紛らわすことは必要だ。

 聞いてみると半分は漁村の出身、特に俺が乗っていた艦以外からの脱出者の大部分はそうだった。
 やはり海の男というのは何か共通するものがあるのだろうか。

勝二(かつじ)さんは中学校をでとるのかね」
「俺の住んでたところでは珍しくもないんだよ」
「いやぁ大したもんだよ。俺ら小学校もまともにいっとらんもんな」

 俺は軍港の生まれで中学校を卒業した。
 農村や漁村に比べれば町の進学率は高い。農村漁村では人手がいるのと、現金が少ないから学費を納めるのが困難なのだろう。
 父は農村の三男で、軍港に出稼ぎに来て住み着いた。田舎から出てきた意地というものもあったのだろう。御用聞きから始めて小さな店を構え、俺を中学校に入れてくれ、そのおかげで軍港の大きな軍需工場に就職した。これからというところで赤紙に取られた。

 話題は次第に郷里のことに移り変わる。名前を呼び合うことで気心を知れ、嫁が待ってるとか子供がいるとか、だから早く帰りたいという話に花が咲いた。

与兵衛(よへえ)! どこ行った⁉︎」

 突然、波間に悲鳴のような声が響いた。

「おいどうした⁉︎」
「さっきまで話してた与兵衛の声が聞こえねぇ!」
「どこにいったっていうんだよ!?
「わかんねぇ! けどさっきまですぐそこにいたんだよ!?

 与兵衛?
 たしかに先ほどまでそろそろ子どもが産まれると話していた男の声が聞こえない。妙にのんびりした声の男だった。
 そこかしこで与兵衛を呼ぶ声がする。
 一体何が起こった?
 わからない。そもそも足場がないから見回すことすら難しい。足を蹴っても力なく水をかき分けるだけだ。
 急に不安が増した。得体が知れない。

「手を繋いで輪になろうや。その与兵衛は流されたか、沈んだか。けど手を繋いでいればなんかあったらわかるやろ」

 吾郎が呼びかけた。 
 ぞろぞろ集まり、手を繋ぐ。ぷかりぷかりと波間に顔が浮かぶ。

「これで全部か?」
「ひ、左回りに点呼! 1!」
「2!」
「3!」
 ……
「38!」
「……」
「……」
「……38?」

 いつのまにやら人が4人減っていた。
 暖かな水がゾクリと冷たくざわめいたような気がして、両の手に繋がる他人の手を強く握りしめた。暖かかった。そして温かいと思っていた海が、実は人の体温より随分と冷たかったのだと知った。

「温かいとは言っても海だ。体力が奪われてるのかもしれねぇ。静かに耐力を体力するほうがええかもしれん」
「そうだが……」
「話をしたいのはわかる。けど隣のやつと聞こえるくらいがええな」

 それからはなんとなく静かになり、遠くで聞こえるホゥホゥというカモメの音とちゃぷちゃぷと揺れる波音以外は、ノイズのようなほそぼそとした声が響くのみだった。

「なぁ、勝二さん、だっけ」
「うん、お前は佐吉(さきち)だったかな」
「そうそう、俺も海町の生まれでよ。実家が釣り船屋なんだ」

 佐吉と名乗るその男はある程度人口のある町の釣り船屋の次男のようだ。漁師というよりは接客業。商家やらなにやらの旦那を載せて釣りをさせたり飲ませたりして接待していたそうだ。
 先程まで響いていた漁村の荒々しい話と違って、なんとなく町の匂いがする佐吉の話は両親を思い起こして少しホッとしたのを覚えている。

 翌朝、未明。
 叫び声で目を覚ました。
 まだ真っ暗だ。
 何だ? 何があった?

「おい、誰がいるんだッ! 誰がッ!」
「吾郎さんッ!? 吾郎さんはどこに行った!?

 誰……? 吾郎……?
 なんのことだ。

 体は鉛のようにぐったり重く、手足の感覚は乏しい。何かぶるぶると体が震えているような。思わず口を開けて塩水が流れ込み、俺は思い出した。そうだ、海の上だ。思わず手を強く握った。
 そうすると右手は誰かの腕と繋がり、左手は何もない。
 あれ?
 思わず右手を引くと、うぅ、とうめき声があがった?

「佐吉? 佐吉大丈夫か?」
「んあ……、何が……?」

 朦朧とした声。

「佐吉? 佐吉、大丈夫か!?
「う、う、寒い。気持ち悪い」
「佐吉、しっかりしろ、大丈夫だ‼ おい‼」

 濃紺の薄暗い海水面にほんわりと赤紫の色がかかり、広がっていく。まるであの世のような不思議な光景。見上げると一つの方向がうっすらとオレンジ色に発光していた。なんだか禍々しいが、そこからゆっくりと熱が伝わってくる。そうだ、夜明け。
 南の海とはいえ夜の間に少しは水温は下がるのだろう。だから俺たちの体温もつられて下がったのだ。つまりこれは低体温症の症状。聞いたことがある。

「佐吉、しっかりしろ。すぐに海はあたたまる。」
「ぅ、あ。勝二、さん?」

 佐吉の顔色は少し青いように見える。いや、夜明けだからそう見えるのだろうか。夜の間に死神に魂を吸い取られたような、そんな面持ち。

「おい、吾郎さんはどこだ!?
「他に誰がいるんだ!?

 再び、あたりが騒がしいことに気がついた。そして俺の左側にいた泰平(たいへい)という男がいなくなっていたことを思い出す。寝ている間に手を離してしまったのかもしれない。

 昨夜、そうだ昨夜。
 俺はいつのまにか寝てしまっていた。沈没の衝撃とこの揺らぐ波で疲れ果ててしまっていたのかもしれない。泰平は俺とは反対側の男と話していた。確かそいつは……富吉(とみきち)、だったかな。
 そう思うと俺は声を上げていた。

「泰平さん、冨吉さん、いるか!?
「おらぁ富吉だぁ。そっちは……勝二さん、だつか? 泰平? そういえば泰平はどこだ?」

 泰平はいなくなっている?
 手をつないだままの佐吉を伴い、富吉の近くに向かう。声の起点ではやはりぷかりぷかりと顔が浮いていた。

「勝二さん、泰平はおらんようなったんけ?」
「あぁ、起きたら手を離していた。そっちもか?」
「いつの間にか寝てもうてた。……反対側におったやつはさっき声が聞こえたけぇ大丈夫や思うけんど、どうなっとるんや?」

 おどおどした不安に満ちた声。
 俺は再び皆を呼び集めることにした。昨日吾郎がやったのと同じように。

 吾郎は見つからなかった。
 命綱が切れたような、そのような喪失感。
 そしてそれを取り戻そうとして再び手をつないだ。その頃には太陽は海からするりと離陸し、海面全体を明るく照らし、その温度を上昇させ、その結果、佐吉の震えは収まっていた。

「……22人、か」
「……みんなどこにいっちまったんだべぇ」
「……可能性は2つある。1つは寝ている間に流れていってしまった可能性。もう1つは体力が尽きて沈んでしまった可能性。夜が明けるまで体調が悪くなった者もいるだろう。おれも少し気持ち悪くなった」

 それぞれ思い当たることがあるのだろう。
 ざぷんざぷんという波の音だけが響く沈黙。
 けれどもそれに耐えかねるように声が上がる。

「……どうしたらいいんだよ!」
「そうだよ、助かったんじゃねえのかよ!」
「落ち着け、あわてても仕方ねぇ、あのままだったら艦に飲まれて一緒にお陀仏だっただけだろうよ」
「やけど!」
「また手を繋ぐしかないだろ」

 手を繋ぐ、か。
 誰かが声を上げたのを機に俺は追随する。

「襟紐で手をくくろう。そうすれば簡単には離れないはずだ」
「襟紐で?」
「そうだ。くっついていれば漂流しない。万一溺れようとした時は助けられる」
「……それなら」

 事業服(作業服)には首元で結ぶ紐が付けられている。それぞれ外し、自らの手首に引っ掛けて結んだ紐の端っこを隣の者に渡して結んでもらう。
 縄の技術は海兵には必須だ。水中での作業でもあっというまに終わり、再び円陣を組んだ。昨日と比べて随分小さい。小さい範囲で顔がぷかりぷかりと浮いている。とても奇妙な光景だ。お祭りのお面がたくさん水面に浮いているような。カラッと晴れた空の下に浮かぶその奇妙な様は妙に印象に残った。そして入道雲がにょきにょきとこちらを覗き込んでいる。

 昼が来る。
 遮るもののない海の上で直射の日光にさらされる。暑い。じりじり顔が焼けていく。

 助けは、早く助けはこないのか。時折水面からうめき声が聞こえる。もはや誰も話すものはいない。たまに手が繋がったロープがくいくいと引っ張られ、引っ張り返す。それが精一杯だ。

 暑い。
 南国の太陽は熱い。
 体表面がじりじりと焦げ、水疱ができその場所の皮膚が引っぱられて盛り上がる。それを避けて滴り落ちる塩っぱい汗が目に染みた。
 何よりも耐え難いのが周囲に水に溢れていることだ。
 だがこの水は飲めない。塩水だからだ。

 先程誰かが耐えきれずに飲み、沈んでいった。一旦飲み始めると止まらないのだ。そして飲めば飲むほど乾き続けて体力が奪われる。こうなってしまえばもう助けられない。というより助ける余裕がない。しかたなくロープを外して、輪が一つ小さくなった。
 俺の隣は佐吉と富吉で、時折二人のため息が聞こえる。
 反り返って額だけ動かして水面につける。日焼けの水疱が染みる。皮膚に海水が付着するのもよくないのだろう。けれども冷やさなければ顔の表面が熱を持ち続ける。海水につけると酷く腫れ、痛みが増す。
 俺はもともとそれほど皮膚が強くない。苦しい。
 頭がぐらぐらする。熱中症かもしれない。

 昨日船が沈んだのは午後3時ごろで、すでに暑さのピークが過ぎていた。早く助けがこないか。助けが。そう思いつつ、太陽の高さでまだ正午すら過ぎていないことに気がつく。
 糞。朝は寒かったのに今は暑すぎる。ここは地獄の釜の底かよ。胃の腑がひっくり返りそうだ。気持ちが悪い。

「……腹減った」
「耐えろ、助けはきっと来る」
「……水が飲みたい」

 佐吉から小さな声がする。
 気力だ。全ては気力だ。諦めたらそこで終わりだ。きっと、きっと助けが来る。そう信じるしかない。

「勝二さん、おらぁもうダメだぁ」
「富吉さん、諦めちゃだめだ。意識をしっかり保て」
「いんやぁ、おらぁ、もう嫌だぁ。こんなことなら船と一緒に沈んどったほうがなんぼうかましだったよぉ」
「そんなこと言うな」

 そうだ、諦めたら終わりだ。けれどもそう強く思っていても強烈な日差しに脳はやけ、耳に入る海水で何がなんだかわからなくなる。
 朦朧としていると突然水滴が顔に叩き込まれて目を覚ました。体が波に揉まれて上下する。

 スコールだ。
 叩きつけるように落ちる雨。
 急いで口を開く。随分と久しぶりに感じる水分。カラカラに乾いて割れた唇に染みる。けれども雨。真水。口を開き流れ込む水を咀嚼する。もっと。雨は口の中に降り注ぐけれども飲むと言えるほどは一度にはたまらない。もどかしく口を動かしていると左腕のロープの先の感触がないことに気がついた。

 ……しっかり結んだはずだ。しっかりと。
 ザザザザという機関銃のようにうちつけるスコールの音で、俺の叫び声はどこにも届かなかった。
 ふと、気づくと冷たい星が広がり、大きな月が出ていた。
 夜なのに明るい。なんだかこの世のものではない場所に紛れ込んだような心持ち。
 右手を引くと、反応が帰ってきた。
 佐吉はまだ、生きている。

 声を出して呼びかけようとすると、焼けるように喉が傷んだ。スコールが降ったのはどのくらい前だろう。わからない。けれどもスコールの水の量では足りなかったのかもしれない。けれども次の太陽が登るまでは、夜の湿気が喉を癒やすだろう。ひゅぅと息を吸い込めば、わずかな水分を取り込むことができた。

 少し回復した。
 俺は手と紐をたどってゆるゆると泳ぎ、外れそうな紐をつなぎ直し、一周りすると人数は16人に減っていた。浮かんでいる者はみなぐったりとしていたが、月の光を反射するその目は、『俺は必ず生きて帰るんだ』という強い意思に溢れていた。
 そうだ。やはり意思こそが大切なのだ。
 お互い声は出せないようだったが、小さく頷きあった。

 これからまた夜が来る。
 体温が下がる。
 最初の夜を乗り越えたのだ。きっとこの夜も乗り越えられる。
 俺は新しく左隣となった栄作(えいさく)と紐を結び直した。
 眉の太い目の力の強い男だ。
 この男であればおそらく、弱音を吐いたりはしないだろう。俺はほっと息を吐いた。
 昨晩の佐吉の言葉は別になんとも思わない。喉が乾いたのも腹が減ったのも俺が同じように感じていたことだ。けれども正直なところ、昨晩の富吉の言葉は俺の心を酷くかき回していた。

 ……船と一緒に沈んどったほうがなんぼうかましだったよぉ

 その言葉が心に棘のように刺さっている。
 いや、そんなはずはない。生きてこそだ。俺は生きて帰るのだ。生きて、工場に戻って、たくさん働いて、結婚して。未来を、訪れるはずの未来それだけを 胸に強く掻き抱く。

◇◇◇

 夜中、何時かはわからない。
 突然急に左腕が強く引っ張られた。頭が水に埋まった。
 慌てて水面を目指して泳いだ。方向はわかった。大きな月が頭の上で水面をゆらゆらとゆらしていたから。
 ぷは、と空気に逃れ出て口を開く。ぜぇはぁと目減りしていた酸素を肺に取り込む。そして少し冷静になった頭で考える。

 何があった?

 なにか妙に、どろりとした心持ち。
 左側、栄作に何かあったのだろうか。左腕を引っ張ると少しの抵抗があった。妙に動きが鈍く軽いが、何かには繋がっている。
 体力が尽きたが持ち直したのだろうか。
 もし尽きたのであれば俺と反対隣の者とで引っ張り上げる予定だった。だが、おそらく持ち直したのだろう。そうだ。そうに違いない。俺も限界だ。体は冷えて手先の指の感覚がない。頭が重い。
 ……海が冷えているのだ。
 頭が働かない。
 全ては明日、明日と思って目を閉じた。

 朝。
 俺は恐慌に陥った。
 なんで、何故、何が。
 明るい陽の光のもと、左腕の紐を引っ張って引き上げて目にしたのは栄作の頭部ではなく肩口から引きちぎられたと思しき右腕。まさか。急いで紐をほどきそれを海中に沈める。

 ひぃあぁああぁぁ

 栄作の反対側からか細い悲鳴が上がった。
 泳いで近づくと、そちらには肘から先が付いていた。
 男がガクガクと震えている。動けないようだ。その紐をほどこうとして、自分の指先も酷く震えていることに気がついた。

 ぐるりと一周りすると、人数は9人に減っていた。人の肉に繋がった紐はなかったが、紐の先端が食いちぎられたようなものがいくつかあった。
 声がでないから唇をぱくぱくと動かして会話する。そうすると、ちぎれた紐の者の唇からは、やはり夜中に海に引きずられたという内容が伝わった。
 ぎ、ぁ、という言葉にならない呻きが俺の喉の奥をうごめいた。

 鮫。
 鮫がいる。
 夜中に人を食っている。
 俺を食おうとしている。

 その事実に叫び出したくなったが、枯れ果てた喉からは既に音は出なかった。
 そうだ、最初の夜。あんなに人が消えるのはおかしいのだ。
 潮が流れるとしても俺たちは固まっている。大人数が遠くに流されていくとは思えない。まがりなりにも俺たちは海兵だ。体は鍛えているからそうそう弱って沈むとも思えない。そうすると、消えた理由は鮫だ。
 寝ている間に鮫に食われたのだ。
 一人、一人、順番に。
 ひどく、気になる。波の揺れが、まるで鮫の近づく予兆のように、この青い南の海と太陽、そして白い入道雲がまるで白昼夢のように禍々しく恐ろしく感じられた。

 すでに太陽で海は暖まっていたのにまるでその海底が凍土にでも繋がっているように、きゅぅと温度が下がる気がした。そして、足首にぬるりと何かが触れた……気がした。

 思わず海中に首を突っ込むと、そこには何もいなかった。
 海の上と同じようにただただ青く、そして少し先に海底が見えた。そしてそこには色とりどりの、サンゴ礁とでもいうのだろうか、奇妙な植物が生え、小魚が出入りしているのが見えた。そしてその凹凸によってできる複数の影。
 それが動いて、いるような、いないような。

 鮫、鮫だ。あの影は鮫に違いない、鮫かもしれない、わからない。
 俺の落とした栄作の腕はもうどこにも見当たらなかった。食われたか。いや、俺たちが海面を移動したのかも。

 逃げたいと思った。
 けれども俺に何ができるというのだ。
 島影は見えない。泳ぐあてはない。
 体力は失われている。もはや動くのも困難だ。どこに逃げればいいというのだ。
 そうだここでは階級なんて関係ない。等しく水面に浮く肉なのだ。体を小さくするしかない。けれども海底からは丸見えだろう。

 どうすれば。
 わからない。
 どうすれば。
 わからない。
 どうすれば。
 わからない。
 わからない。
 わからない。

 俺の精神は変調をきたした。
 こんな足の先に何も触れないような、自らの足で立つこともできない不安定な水の只中で、俺の支えになれるものはもはや佐吉だけだった。他には何もなかった。
 ふわふわ揺れる佐吉と目が合う。
 佐吉の目は不安定に揺れながらも生きることを渇望している。よかった。同志だ。少しほっとした。
 俺は、俺たちは生きるんだ。生きて家に帰るんだ。
 必ず。

 俺は唇を動かして佐吉と会話を試みた。
 本当に通じているのかはよくわからないが、佐吉もぱくぱくと口を動かした。なんとなく、家族の話をしているのだな、そう思った瞬間、佐吉が海中に没した。
 そして佐吉に引きずられた俺の体も。
 佐吉の腰に大きな黒いものが喰い付いてそこを起点に海を赤く染め、目を見開いた佐吉の口からこぽこぽろ泡がこぼれ落ちるのを見た。
 それが俺が記憶している最後。

◇◇◇

「じいちゃんが落ちた海はなぁ、鮫がおったんや」
「えぇ、怖い。ジョーズみたいなん?」
「そうやなぁ、何人か食われた」

 そっか、じいちゃんはそれで鮫が怖いのか。
 でもこの辺の海には鮫いないから大丈夫だと思うんだけど。

「まぁ、じいちゃんもこの辺に鮫はおらんと思う。でも海は全然ダメだ。特に夏の暑い海は色々思い出すからな」

 じいちゃんはなんだか妙に悲しそうな顔をした。
 死んだ中に友達でもいたのかな。可哀想。

「うーんそっか。残念。でもじいちゃんは生きててよかった」
「そうやなぁ。気がついたら本土の病院で戦争は終わっとった」
「そうなんだ」
「終わってなかったら敵前逃亡とかになっとったかもしれんなぁ」
「えぇ? 船が沈んだんなら仕方ないじゃん」
「そうやなぁ。今の常識やとそうなんやが、昔はちがってな」
「うーん、そうなんだ。よくわかんない」

 それ以降、じいちゃんは何もいわなかった。
 海、嫌いなんだな。
 そう思っているとカンちゃんが呼びに来た。
 だから水着を持って縁側から外に飛び出す。
 やっぱあっつい。
 まじ火傷しそう。
 入道雲がもくもくしてる。

「佐吉、気をつけてな」
「はーい。いってきまーす」

ーFin
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