壊れ虫:奇妙な矯正6000字
文字数 5,681文字
随分前の話だ。
浜辺で瓶を拾った。
いつだったかな。多分、中学の頃だ。
僕の家は海の近くで家から30分ほど歩くと砂浜がある。とはいっても泳ぐような砂浜じゃない。工場地帯があって、その隣に申し訳程度にある砂浜で、酷く塩っぽい臭いを漂わせる黒い海藻や生臭いちぎれた網なんかがたくさん打ち上げられていた浜辺。よくみると波間には少しの油膜すら漂う。
ようするにそんな、誰も見向きもしない寂れた砂浜。
でも僕はその砂浜に入ると、強い日差しでできた木の陰に隠れるような気分になって、ここだと誰にも見つからなさそうなその薄暗さに妙な安心を覚えて、むしゃくしゃした時や嫌なことがあった時はこの砂浜まで歩いてきて隠れていた。ここだと色々なことをあまり気にしなくていいような気がして。ようはそのころの自分にとってこの世界は少し居心地が悪かった。
それで学校が終わって砂浜に向かうとだいたい夕方になっている。
そう、その日も夕方だった。
落日は浜から見えない山側に落ちるのにその余波は浜にも及ぶ。遠くに落ちた太陽は視界に入る少し遠くの島影をすっかり真っ黒に塗りつぶす。そしてその島を境界に、せっかく空と水面に別れていた風景を赤黒く染まったマダラの雲と雲を反射して同じ色に水面を染め上げる。それはまるで異界のような色合いで、少しはこことは違うどこかに繋がっているんじゃないかと思えた。けれどもその奥の海からびゅうと吹く風はやっぱり生臭さを運んでいた。
非現実的に見えてもやっぱり色々なものはどこまでも繋がっているんだな、と嫌な気分になった。嫌なことから逃れたいと思っても、世の中のおおよそのことは複雑に絡み合っているという事実になんとなくため息をつく。
けれどもその日は様子が少し違った。
湾岸道路に沿って転々と街路灯が植えられているのだけれど、その人工的な灯りを反射して何かがキラキラときらめいていた。
近寄ると少し緑がかったガラスのボトルで、振ると中で紙のようなものがカサカサと動いた。
瓶の口はボロボロのコルクで閉じられている。この中の紙はこの世界の外から来たものだろうか。そんなふうに思ってコルクを抜こうとしたけれど、ふちを引っ張ってもそこからポロポロ崩れるばかり。だから落ちている古そうな枝でエイと押すとコルクは砕けて瓶の中に落ち、瓶からなんだか古い香りがした。
穴から中の手のひらサイズの紙を取り出して開く。
『こんにちは。何か悩みはあるだろうか』
古くて奇妙に生暖かくぶ厚い紙にはそう書かれてあった。
悩み……。面食らう。いきなり悩みといわれても。この瓶の持ち主は一体どういうつもりでこんなものを流したのだろう。
そう思っていると紙はぷるりと震えて文字が糸のように動き、新しい文字が浮かび上がる。
『私を作られた方は私が誰かの役に立つようにと考えられたようだ』
あれ? さっきは『悩みはあるか』と書かれていなかったっけ。そう思うと文字はまたゆっくり移動してと『悩みはあるか』に戻った。
戸惑う。錯覚か何かか? 急に気味が悪くなった。すると、文字がまた変化した。
『気持ち悪ければ、捨てていくが良い』
捨てていく。
なんだかそれは少し気がとがめた。気持ち悪いといえば気持ち悪いのだけれど。それはなんというか、それをしてしまったら。自分が捨てる側に回るのはなんだか癪だった。丁度捨てようかどうか悩んでいたから。
『それであればご随意に』
また変化した。
これは何だ?
『私はこの紙に住まう虫である。紙の上を滑って文字をなしている』
虫。そうすると、紙ではなく文字が意思を持っているのか。変なの。
「どうして瓶に入ってたの」
『前の持ち主が入れて流したのだ』
「どうして」
『不要になったのだ』
不要。
そうか。結局お前は捨てられたんだな。そう思うと何となく親近感が湧いた。
『何か悩みはあるだろうか』
最初に戻った。悩み。悩みはたくさんある。けれどもこの紙に話したところで解決するとも思えない。
『解決したほうがよいのだろうか』
「解決? 解決はしたほうがいいんじゃないのかな」
『解決すると悩みは解消されるのだろうか』
それは、まあそうじゃないかな。
けれども何となく、紙の言いたいことはわからなくもなかった。何かを解決しても、結局のところ他に皺寄せて最終的にまた違う形の悩みとして僕に押し寄せてくるんだ。
なんとなく、そう、自分のピースがこの世界のピースにうまく嵌まらない。けれども僕のピースはここ以外に嵌めるところがない。だから違うピースの隙間に無理矢理嵌め込むように、ぎゅるりと自分を窮屈に捻じ曲げないといけない。けれどもそうやって無理やり嵌めても周りのピースに歪みを与えるだけで、結局のところ全体に不快感を与えるものに成り下がっている。僕がいることによって。
解消する方法はわかっていた。メーカーに不良品の報告をして、ピースを適正なものと取り替えればいい。古い不適切なピースを捨ててしまおう。そうすればきっと、代わりにぴったり合うパズルピースがやってくる。つまるところ、ここに僕があるから全てが歪むんだ。その時の僕はどうしたものかという瀬戸際にいた。
『取り替えたいのかね』
「ずっとそれで悩んでる。一層のことそのほうが良いのかと思って」
『良いか悪いかは私にはわからない』
まぁ、そうか。文字だもんね。
でも僕の歪みはとても大きく、その頃には拭えないほどの気持ち悪さをもたらしていた。奥歯で金属を噛み締めているような。
特に答えを求めずに尋ねた。
「僕はどうしたらいいんだろう」
『歪みが嫌なのであればその部分を削れば良いのではないか』
「隙間が開いちゃうよ」
無理やり詰め込んだ余波で隙間が埋まっているだけだから。
『それならその隙間には私が入ろう』
紙が?
何を言っているのかわからなかった。それに了承の明示もしていなかった。けれども僕と世界の間の歪みはどうしようもないほど大きくなっていて、だから紙の提案に無意識に了承していたのだと思う。
両手に持つ紙の上の文字が不意に左右に分かれて両腕に移動した。紙の上にもう文字がない代わりに、僕の手の甲に文字が浮かんだ。
思わず手をふり払うけど皮膚から文字は消えない。よくわからないものに侵食されているという事態に恐怖心が湧き上がる。僕は何か危険なことをしてしまったのだろうか、例えば悪魔と契約するような取り返しのつかないこととか。
『他は何もしない』
その瞬間、僕のピースの余剰部分が周りのピースの形に合わせて綺麗に切り取られた感触があった。あたかも切り取り線にそって丁寧にハサミを入れられるように綺麗に切り取られた感触。そして切り取られた僕の切れ端と紙が混じり合って他のピースとの間にできた隙間にすっぽりと嵌まり込んだ。
その瞬間、これまでのことが全て嘘だったみたいに、僕が存在することで僕と僕の周りに生じていた歪みも圧力も何もなく霧散した。ふわりと宙を漂うように全てが軽くなる。
『助けになれてよかった』
僕の手の甲で紙はそう言った。
僕は深く紙に感謝した。
それから僕と紙の奇妙な共同生活が始まった。
結局紙が何なのか、僕にはわからない。ひょっとしたら妖怪とか悪魔とか、そんなものかもしれない。紙は僕の一部をバラバラに壊したのかもしれない。でも結局紙は僕はそのままじゃうまくいかなかった部分をうまくいくよう再利用したのだろう、と思う。
その結果、僕の心は不思議に軽く、切り取られた部分に喪失感はあるものの、なんだかスムーズに生活ができるようになっていた。僕の中には僕が直接シームレスに他のピースに触れている部分と、紙を通じて触れている部分がある。
紙に通じる部分は僕は直接感じ取れない。けれども特に困りはしなかった。紙は僕の手の甲にちゃんとその情報を伝えてくれたから。
けれども他のピースからみるとどうやら僕がおかしくなったように見えるらしい。まあ、そうかもしれない。紙は人じゃない。接するものが僕ではなく得体の知れないものになったのだから。
それでも紙は丁寧に僕に情報を伝えてくれる。隣のピースが僕の頭がおかしいと言っているとか、死ねと言っているとか。でもそのことに僕は何の痛痒も感じなかった。その部分は紙が受け持ってくれていたから。
そのまま中学を出て、高校を出て、なんとなく平穏に暮らしていた。
その頃にはなんとなく、昔の僕が勘違いをしていたことを理解していた。僕は僕の周りのピースに僕を合わせようとしていたけど、そもそもそんなにピッタリあうものでもなかったのかもしれない。以前は窮屈すぎてそんな余裕はなかったけれど、よく見ると他のピースも他のピースと押しつぶしあっていた。
全体で見ると綺麗な一枚の絵なのかなと思っていた世界は、ただごちゃごちゃとさまざまなピースがせめぎ合っているだけなのかもしれない。そう思った。そんな世界の中で、僕は少しだけ他のピースより柔らかかったから、なんとか合わせようとすることができてしまっただけなのかも。
そんなことを思いながら、僕は僕の周りのピースが僅かにながら形を変えつつ押し合いへし合いを続けているのを見ていた。僕が新しく押されるとその重なって圧力を感じた部分を紙が切り取り、出来た隙間を紙が埋めることで生存する。他のピースと押し除けようとするよりも、その方がもう楽だった。
僕の半分以上が紙になっても、紙は僕を乗っ取ったりはしなかった。
紙はただこれまでと同じように僕に様々な情報を伝えて、僕はそれについてどう対処するのかの方針を紙と打ち合わせた。
それで随分たって、僕であると言い切れる部分が僕の2割くらいしかなくなった時に、好きな人ができた。
幸いにもその人も僕が好きだった。
僕が外と接している面はもうほとんどなくて、だから僕は紙を通じてその人と交際を続けた。その人のピースはとても柔らかで、僕のピースの形に丁度重ならないのでは、と思えた。
紙が埋めている部分だけ、その人とは直接に接することができなくて少しもどかしい。
手を触れても、どこか遠い。
それで、僕は何故紙が瓶に詰まっていたかを理解した。
『不要になったのだ』と、紙は昔そう言っていた。ようは紙は前の持ち主の皮膚から切り取られたのだ。切り取って、封印されて、海に流された。そう気づいた時、紙は僕に問いかけた。
『私は不要になったのだろうか』
不要? 今、紙がいなくなったら、僕は僕の殆どを失ってしまう。僕と外側の接点がなくなってしまう。そうすればどのみち僕は生きてはいけないだろう。
『生きることにしたのだろうか』
生きる? 瓶を拾ったときの記憶が蘇る。
あのときの僕は結構どうしようもない状態だった。結局のところ、僕には他のピースを押しのけるほどの力がなかった。それでほかからの圧力で潰れるところだった。だから僕がここで居座るより代わりに他の適合するピースが来たほうがいいんじゃないかと思っていた。けれどもそれはとても癪だったから決めかねていた。僕は生まれた時からこの形で、この形を決めたのは僕じゃないんだから。だから僕のせいじゃない。
僕の前には二つの道がある。
一つは紙を手の甲から切り取って瓶に入れて流して、僕が可能な範囲で僕が直接好きな人と世界に触れる。でもきっと、紙がいなくなってしまっては外側のことがわからなくなるだろう。だいたい紙に任せっきりだったから、僕は長くは生きてはいない。
もう一つはこのまま紙に切り取られながら死ぬまで生きている。
この紙はとても優しい。
優しく僕をスポイルする。
けれども紙がいなければ、きっと僕はいまここにいない。
結局のところ、紙は緩やかに僕を延命させている。今だって僕は、代わりのピースが来るならそれはそれでいいとも思っている。
すでに僕は色々欠けてしまって、そうやって生きてきたのだから欠けることへの抵抗はもはやた大して存在しなかった。
好きな人の顔を思い浮かべる。
好き。一緒にいたい。
けれども好きな人はずっと僕といてくれるだろうか。そんなことを信用なんてちっともできなかった。きっとそのうち、形を変えて適合しなくなっていく。紙を通して見た世界では、だいたいがそのようなものだった。
ただたまたま目の前にいて、好きになっただけ。会わなければ、好きにもならない。
紙は人ではないけれど、紙はずっと僕の隙間を埋めてくれる。僕が全部なくなってしまうまで。
それは信用ができた。
紙は僕が全部なくなったらどうなるのかな。
『どうもしない』
いつも通りのそっけない返答。
紙はきっと僕の中から僕の全てがなくなってしまっても、そのまま僕の体に居座るのだろう。それで反応しない僕の返事をいつまでも待って、結果として僕はそのまま動くのをやめて、僕の体はそのうち死んでしまって火葬されて、紙も一緒に燃えてしまう。
なんとなく心中に似ている気がする。
『かまわない』
紙は僕と一緒に死んでくれる。それはなんだか得難いものを手に入れたような、特別な感じがした。
それならもう少し一緒にいよう。
そう思うと、これまで特になんとも思っていなかったけどかったけど、僕の隙間を埋める紙のことが少しだけ好きになった。
そうすると、外の好きな人が少しどうでも良くなった。こうやって少しずつ外とのつながりが切れていく。けれどもそれはそれでもう構わない。砂時計が落ちるみたいで落ちきったらそこでおしまい。
結局の所、この紙の正体はよくわからない。けれども、それは僕にとっても紙にとっても重要なことではないらしい。
僕は紙を通じて世界を覗いて、そのうち全部すり減って無くなって紙と一緒に死ぬんだろう。紙は僕をバラバラに壊してしまったけど、結局出会わなければピースを交換していた気がする。紙と最初に会った時の悩みはそのまま僕が死ぬまで棚上されて、でも死んだ時に多分、解消される。
それがいつ来るかは、まあ、神のみぞ知るってやつ。
Fin