美しき諍い女:自分を見つめる7000字

文字数 6,912文字

「ねぇあなた本当に気が利かないわね。もう付き合ってらんない」
「お前ほどじゃない。こっちもこりごりさ」

 大声にカフェの注目が集まった。
 けれどもそれがどうしたというの。そんな誰だかわからないような有象無象より、今この瞬間のほうが重大だ。この感情の高ぶりとどこにも押しやることの出来ない怒りと、それから、それから諦め。
 あたしとこの人は付き合ってもうすぐ1年。

 情熱的な告白から始まる最初の1ヶ月はそれはもう幸せだった。けれども次の1ヶ月、違和感を抱き始めてすれ違いが始まった。それからよく10ヶ月も経ったものだ。一度生じた亀裂はメリメリとあたしとこの人の間に広がり続け、いつしか割れた鏡のように真っ直ぐに目を合わせることすら難しくなっていた。
 けれどもその大切で貴重なこの世の全ての幸せのような輝かしいたった1ヶ月が呪いのように心の底にとどまり、手を切ることをためらわれたこの最後の1ヶ月。

 あたしたちはこの後、ある作曲家を訪ねる。気が進まない、とても。なんであたしが一緒にいかないといけないの。目の前のこの人は作曲家だ。だからあたしを連れ歩く。歌手のあたしをカナリアとして。
 距離は確かに広がり続けていた。お互いに。私にとってと同様にこの人にとっても同じこと。距離というのは2地点があるからこそ広がってしまうのよ。それでもまだ、この人は私の恋人。長く伸ばして限界を迎えたゴムのように。

「初めてお目にかかります。司真治(つかさしんじ)と申します。お招きいただきましてありがとうございます」
「これはようこそおいでくださいました。けれども主人はまだ部屋から出てきません。申し訳ありませんが少々お待ちいただけますでしょうか」

 ここに来たのはこの人の友人の音楽プロデューサーの紹介だ。
 この作曲家は往年の大作曲家でこの人がずっと尊敬している作曲家だ。あたしでも名前を知っている。
 この人は1年前に一発当てたけれどもその後は鳴かず飛ばずでここのところずっと沈んでいる。そして大作曲家は10年ほど前までテレビや映画にも引っ張りだこだった。けれども今は書けなくなってずっと苦しんでいると聞く。友人はその2人が合えばお互い影響しあえるのではないかと引き合わせた。
 けれども、どうだろう。大作曲家は部屋から出てきさえもしない。

 だからあたしはその奥様と話す。とりとめのない昔のことを。
 大作曲家は昔はその奥様をインスピレーションの源にしていたそう。けれどもそれは昔に過ぎ去り今では顔を合わせても何も通じるものはない。
 奥様を改めて見る。昔は美しかったのかもしれない。けれども今は干からびていた。そう思うと、本当に無意識に、あたしはこの人を見下してしまっていたのかもしれない。

 あたしとこの人はまだ、それでもまだひび割れきった鏡面を通して何かを通じ合わせることができる。その隙間はどんどん小さくなっていくけれども、まだ、視線や吐息を交換できる。
 けれどもこのひび割れがどんどんどんどん降り積もれば、きっと鏡は真っ白なヒビで覆われきって何も交換するどころかもはや相手を見ることすら不可能になるのだろう。
 嗚呼。そんな未来が透けて見える。この奥様と大作曲家の未来がそのままそっくりあたしに降りかかるのよ。きっと。だからあたしはこの人を見続けてはだめ。他に目を移さないと白く煙って何も見えなくなってしまう。

 そう思っているとキィと古びた扉を開けて枯れ木のように皺くちゃになった大作曲家が現れた。古びている。けれどもその目だけは葉を落として固く冬を耐える針葉樹のように力を帯びていて、何だか不安が増した。

「君が司君か」
「はい。先生のファンです! 是非お話を伺えれば!」
「ふぅむ、わかった。ではあちらででも飲もうか」
「喜んで」

 大作曲家はあたしと奥様のほうをじろりと一瞥して以降は何の興味ももたずにあの人と一緒に部屋を出た。奥様はふぅ、と大きくため息をついた。奥様のカップを握る手も古木の枝のように皺が寄っていた。

「あなた、あの司さんとお付き合いされているの」
「ええ。まぁ。でも最近なんだかうまくは」
「そうなの。私は失敗しちゃったの。10年ほど前ね。主人が曲をかけなくなった原因は私にあるの」
「はぁ」

 本当に興味のない話。

「私も以前歌手をしていたのだけど、主人と諍いをしてしまった。私と主人はずっと一緒にいたけれど、少しずつ変わってしまった。最後にはお互い許せなく成ってしまって、私があの人の心と音楽を破壊してしまったの。最後に主人が書いていた曲『La Belle Noiseuse(美しき諍い女)』。それがあの人の最後」

 その、最後、という言葉には様々な気持ちの悪い感情が渦巻いていた。
 その後はつまらない話が続く。
 奥様の話はまるで呪いのようだ。あたしとあの人の間に奥様の口から漏れる呪いがぐずぐずと降り積もっていく。ただでさえあの人との関係はすでにもうバリバリに割れているというのに。まるでそのひび割れを固定するように、まるで透明なアスファルトをねばねばと塗り込めるように呪いがあたしとあの人の間に降り積もっていく。

 それは冬の朝の灰色に汚れた雪の固まりのよう。
 昔は白く美しかったのに、色々なものがまざって時間が経過してしまって、そして、そして……。
 酷く、つまらないまま奥様の話は既にあたしの耳に入っていなかった。
 けれども奥様の口はぱくぱくと開閉を続け、私はぼんやりとそれを見て時間は経過してゆく。つまらない。

 やがてバタリと奥のドアが開き、酔っ払った大作曲家とあの人が現れた。

「おいお前、帰るぞ!」
杏奈(あんな)さん、ではまた明日」
「明日?」

 大作曲家はあたしの名前を呼んだ後は返事もせずにあたしたちの横を通り過ぎ、振り返ることもなくその奥のドアをバタリと閉めた。
 何のことかよくわからず、あの人に肩を抱かれて無理やり玄関に向かわされる。その吐息は酷く酒臭かった。

 その帰り。
 あたしはこの人の車を運転していた。左ハンドルの古い車でメンテナンスをしなければすぐに壊れてしまうような車。そのサスペンションは気持ち悪いほど柔らかく、重力に任せて背もたれに倒れればずぶずぶとどこまでも落ちてしまいそうだ。

「ねぇ、さっきのは何なの?」
「あん? さっきのって?」
「また明日っていわれた」
「あぁ、お前がセンセイの歌手になればいいと思って」
「歌手? なんのこと?」
「あぁ、センセイは10年も続きがかけてない、だからお前が、歌手になってセンセイのために歌うんだ。そうすればきっと」
「ふざけないで! なんであなたがそんなことを勝手に決めるの⁉︎」
「いいじゃないか、歌を歌うだけだって」

 そこからは一切口を聞かなかった。口をきく気にもならなかった。
 ぐらぐらと燃えるような怒りが胃の腑を満たす。もう無理だ。この人との間は。この人にとってあたしは、あたしの意思は既に見えるものではなく成った。
 あたしの歌はただの音に成り下がった。この人にとってあたしの意思や歌はもはや省みるべき大切さを失ってしまったのだ。それが、わかった。
 けれどもまだその人の姿は見えるのだ。そしてそれは心の奥底に僅かにだけ残った大切な思い出に繋がり、思い出までもを今にも割り折ろうとしていた。
 そうしてあの人は勝手に寝室に行ってしまった。だから私はソファで寝た。広いソファ。気がつくと腕に涙が伝っていた。あたしが期待した鏡は、なんとか修復して持ちこたえさせようとしていた鏡は、既に割れていたのね。

 翌日、泣き疲れてまだ暗い間に目が冷めた。
 ひっそりと居間に忍び込んだ夜の闇がソファから投げ出していたあたしの足元をひんやりと凍らせていた。
 寒い。重い体をなんとか起こすとため息が出た。昨日の奥様のように。奥様の呪いはここまで届いて何かを結実させている。それがひどぬ癪に触るのよ。

 頭を軽く降ると頭痛。
 昨日は顔も洗わず寝てしまったから顔がバリバリ。鏡を見るとマスカラが流れ落ちたのだろう、目からコールタールのような黒く粘る筋が涙に沿って流れていた。まるで蜘蛛の糸みたいだ。雁字搦めになったような、もうバカバカしい感じ。あたしはカナリア。ふふ。

 何だかもはややけっぱちになって、もうどうでもよくなって、あたしはお風呂にお湯をいっぱい溜めてそのままドボンと飛び込んだ。とっておきの泡が出るバスボムを入れて、ふかふかあわあわとしながらぼんやりと頭を空っぽにした。
 ああ、もう。どうせあの人にとってあたしなんてどうでもいいんだろう。きっとそう。あたしの声なんてただの綺麗な音に過ぎない。あの人の言うとおりに奏でるだけのレコーダ。
 それならもういっそ、あのセンセイのところに行ってしまおう。
 そう思ってフラフラとよそ行きの服を来て、まだ暗いうちに車を走らせた。
 センセイの家につく頃にはゆっくりと空は白み、流石に早すぎると思ったから早起きのカフェに立ち寄ってフレンチトーストとビターな珈琲を注文した。スマホを眺める。時刻の表示、以外のアラートはない。あの人からの連絡は何も。

 きっと私がいなくなったことにも気づかずにまだ寝ているんだろう。昨日は随分酔っ払っていたようだったから。だからスマホの電源を切った。あたしとあの人との繋がりがふいにぷつりと切れたような気がして思わず目を上げる。

 白い朝。細い陽の光。
 珈琲の白い湯気が私の顔を暖かく湿らせる。フレンチトーストの甘さが胃に染み渡って香りが鼻腔を満たす。それは一体、あたしにどのような作用をもたらしたのだろう。なんとなく、随分久しぶりに世界に1人きりで、あたしを久しぶりにふわりと自分の足で立たせた。自分でこの甘ったるい朝食を選んで食べている、そんな気分。

 あたしははどこにでも行けるのだ。ひび割れた関係を抜け出して。
 そうは思ったけれども、その新しい足が向かうべき先は思い浮かばなかった。だから再び作曲家の家に車を走らせた。
 キリをつけなくちゃ。

「朝早くから失礼致します。司がセンセイとお約束したそうなので」
「あら、そうなの。私も主人から聞いているけれど、本気にされなくてもよろしかったのに」

 少し困惑した奥様に家に通される。
 お茶を頂いていると大作曲家が現れ、少し驚いた目であたしを見た。本気にするとは思わなかったのだろう。けれども大作曲家はあたしを私室に招き、歌えと言った。

「あの、何を歌えば」
「なんでもいい。お前の歌を歌うのだ」

 あたしの、歌を。
 あたしの。
 ふいにあの人との思い出が浮かぶ。あたしだけのものだったあたしの声を、あたしの歌を、ただ綺麗だと言って喜んで聞いてくれた最初の1ヶ月。その思い出が鮮やかに。

 あたしは歌った。まだあたしだけのものだった歌。
 それを聞いて大作曲家は楽譜に音を書き付けた。けれども大作曲家から出る言葉は『もう一度』。
 何度も何度も歌った。そのたびに少しずつ違えて。けれども何度も何度も続くうちにだんだんと何が何だかよくわからなくなる。

「センセイ、何が駄目なんですか」
「わからない。わからないんだ。だから歌え。歌い続けろ」
「そうはいわれてもどうしていいのかわからない」
「違う。何が違うかわからないがその歌は真実の君の歌ではない」

 真実? 真実とは何だろう。
 あたしはあたしの思う通りに歌っている、はずだ。楽しかった思い出。その歌を。
 けれども。何かが行き詰まっていた。あたしの中で。

「違う。違うんだ。『La Belle Noiseuse』は人の内面を描くのだ。俺は君の内面を引きずり出して楽譜に塗り込めたい」
「内面を?」
「そうだ。何にも影響されない君だけの裸の内面を」

 あたしの、内面?
 困惑する。あたしの内面って何?
 あたしは何なのかしら。

「君は何で喜ぶのか、君は何で怒るのか、君は何で悲しむのか、君は何で楽しむのか。そして君はどのようにして世界を捉えて世界に存在するのか」
「……わかんない」
「ではそれぞれの歌を歌え。嬉しいときの歌、怒ったときの歌、悲しんだときの歌、楽しいときの歌」

 あたしはよくわからないまま歌を歌った。
 色々な感情に任せて。
 もっと! もっと! もっと! もっと!
 大作曲家の声にあたしのあたまのなかは混乱を続けた。けれどもあたしは歌った。たくさん。よくわからないままにたくさんの歌を。大作曲家は次々と、そして歌うごとにそれを書き留めた。
 そうするとあたしの中でも何かがほんのちょっとずつ、形作られていく気がした。何かがぎゅうぎゅうと絞り出されて、それが形になっていくような。
 大作曲家の枯れ木のような姿は段々と活力を取り戻し、そしてペンを握る手に力がこもった。10年ぶりに完成するかも知れない『La Belle Noiseuse』。

「センセイ、どうして奥様ではなくあたしが歌うの?」
「それは……妻は一緒に戦ってはくれなかったのだ。その内面を一緒に探求してはもらえなかった。だから『La Belle Noiseuse』は未完となっている」

 もう何日たったのだろう。あたしと大作曲家は部屋に籠もっていた。
 戦うっていうのが何かはよくわからなかったけれど。
 次第に歌は形となり、1つの大きな流れとなっていく。それが感じられるようになってきた。
 この歌はあたし。あたし自身。あたしはあたしを見つめる。あたしって何? あたしって何なの? それを見つめるのは、なんだか怖かった。あたしの中は綺麗なものだけじゃなかったから。
 綺麗でなくて、汚くて、どろどろした、色々なもの。それも全部あたし。

 奥様はきっと直視するのが怖かったのだろう。
 次第に大作曲家の紡ぎ出す曲に何だかズレを感じるようになってきた。
 純粋なあたし。純粋なあたしの曲。
 それはあたしじゃないとわからない。

「違うの、ここはもっと、そのアレグロで」
「何」
「違うの、このリズムはあたしじゃない。あたしは、ええと、ごめんなさい」
「かまわない。何でも言ってくれ。これは『La Belle Noiseuse』。内面を映し出す曲だ。一緒に戦おう」

 あたしは歌った。歌い続けた。
 喜び、怒り、悲しみ、楽しみだけではなく苛立ち、憎しみ、愛情、恨み、恐れ、欲望、憂い、憤り、つまらない、怖い、惨め、誇らしい、好き、嫌い。そんなたくさんの歌を。
 そしてあたしはそのたびに、あたしが何か説明し、感情をぶつけ、大作曲家を脅し、すかし、なだめ、支配した。
 そしてとうとう、曲が完成した。あたしの曲。様々なあたしの要素を混ぜ合わせ、組み合わせて形作られた純粋なあたし。

 そして、あたしはそれを聞いた。
 そしてあたしはあたしがどんな人間だかに直面した。
 直面したあたし自身はあまりにも生々しく、そして。
 その歌という鏡に映ったあたしはまさに否定することなど到底出来ないほどの圧倒的なあたし自身。なんだかどうしていいのかわからなかった。あたしはそこにいて、じゃあ、このあたしは。ここにいるあたしはつまり。
 そして、あたしはそのまま大作曲家の部屋を出た。けれどもあたしの曲はあたしの頭の中にいついてしまった。

 部屋を出るとそこにはあの人と奥様がいた。
 あたしの頭の中であたしの曲が流れ続けて、何か言われたみたいだけれど、他の人の感情や感覚なんかはすっかりわからなくなっていた。そしてあたしの頭の中はすっかりあたしで埋まり尽くして、その他の全ての感情や思い出は全て駆逐されていた。事実として覚えていても、すべての物事はあたしに何の感慨も覚えさせなくなっていた。
 あの人との輝かしい思い出も、大切な1ヶ月間も、そして大作曲家の家に来る前の様々な諍いも何もかも。それはすっかりあたしの中から意味を失ってしまって、それはすでにあたしに何の影響ももたらさないほど、あたしはあたしで埋め尽くされた。

「一緒に帰ろう」
「何かあったの?」
「ずっと閉じこもっていて心配していた」
「ごめん」
「愛している」
「どうしたの?」

 その人から溢れる言葉はあたしにとって、その全ての言葉は無意味で。
 だからあたしはあたしの赴くまま、その人を忘却の彼方に追いやった。
 航空券のチケットを買う。そしてタラップを乗り込む。
 全てのあたし以外のものを振り切って。

 それから随分たった後、どうやってあたしの居所を調べたのか大作曲家から手紙が来た。
 そういえばあの大作曲家はあたしの曲を発表しなかったんだな、と思った。きっと発表していたのならどこかで曲を聞いただろうから。
 その手紙には、友人に聞かせたらとても素晴らしい曲だと言われたと書かれてあった。是非とも発表しようと息巻いたと。
 けれども大作曲家はこの曲は発表しないつもりだと書かれていた。
 あたしが2人いるとあたしが困るだろうから。
 そして最後に、一緒に戦ってくれてありがとう、と書かれてあった。

Fin

ー付言
美しい諍い女というのは1991年に創られた238分の長い映画です。インスパイアしています。そっちは音楽じゃなくて絵の話で、奥さんと彼氏の四つ巴の話になってて面白いです、見る人によっては。
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