コペンハーゲンの小さな旅:旅の冒険3000字

文字数 3,109文字

「スカンジナビア航空2870便ベルゲン行きご搭乗のお客様にご案内いたします。使用機の到着の遅れのため、出発時間が18:30に変更となります」

 アナウンスが耳に入る。まいったな。随分な遅れだ。
 コペンハーゲンからベルゲンまではおよそ1時間20分。そこから予約したホテルまではおよそ1時間だ。着く頃にはすっかり夜も暮れているだろう。
 仕方がなくスマホを開いて予約したホテルに到着の遅れを連絡する。電話先の妙に機械的な声は『forstått(わかりました)』と簡潔に述べて切れた。

 途方に暮れる。
 ふと目を上げると、高いガラス窓には白く晴れ渡った空と濃青の海水面で2色に分かれ、手前の灰色の滑走路にはつい先程降りた飛行機に新しい乗客が乗り込むところだった。
 行き交う雑踏。家族連れや休日と思わしき集団、それから俺と同じようなスーツの群れ。日本よりは少し色合いが鮮やかだろうか。そしてぼんやりと耳に流れる様々なアナウンス。

 ぐったりと体に堆積する疲れ。
 とりあえず腕時計を現地時間にあわせる。今は13時。日本を出たときから19時間過ぎているのに地球の上ではまだ13時間。このまま地球を西に進み続ければ年をとらないのかなと不思議に思う。

 ともあれ俺は疲れ切っていた。
 飛行機の遅れはよくあることで、トランジットの待ち時間もよくあること。いつもはトランジットの間はカフェや免税店で時間をつぶすが、旅の終盤になればなるほどこの待機時間というものが億劫になる。ここであと5時間半、待機。早くベッドで横になりたい。
 とりあえずカフェに入って眠気覚ましにエスプレッソを頼むと隣から話しかけられた。

「あなたもベルゲン行き?」
「そうだ」
「3時間も遅延なんてどうしようかしらん。あなたもドバイからよね?」

 目を上げて隣を見ると20台半ばの北欧系の女が興味深げにこちらを眺めていた。薄い金色の肩までの長さの髪がくるくるとカールしている。
 そういえば、斜め前の席に乗っていたような。そして手荷物を座席上の棚に上げるのを手伝ったような。

「なんか随分疲れてるのね。長旅?」
「昨日の夜からずっと飛行機に乗りっぱなしだ」
「へぇ。ずっと座っているとエコノミー症候群ってのになるらしいよ」

 そういう話はよく聞くが、さりとて空港で運動のしようもない。せいぜい軽く伸びをするくらいだな。そういえば空港にもジムがあったのかな。けれども調べるのも面倒くさい。

「それであなたはどうするの?」
「どうする? その辺の店をうろついて時間をつぶすよ」
「え? せっかくの遅延なのにもったいない」

 もったいない、もったいない、とつぶやきながら女はスマホで何事かを調べ始めた。遅延がもったいない?

「私、コペンハーゲンはよく使うけれど降りたことはないの。乗り換えですぐに他の飛行機に乗るだけだから」
「俺もだ」
「だから行ってみたい場所があって」

 そう言って女が見せた写真には小さな銅像が遷っていた。コペンハーゲンでいちばん有名な銅像、人魚姫。俺もコペンハーゲンで降りたことはないから見たことはない。

「俺も見たことはないな」
「でしょう? じゃあ行きましょう」
「行くってどこに」
「もちろん、人魚姫。ここから電車で30分みたい」
「おい」

 女は強引に俺の腕を掴み立ち上がらせた。残念なことに注文したエスプレットはすでに一息に飲み終えたあとでわずかに香りが残るだけだった。

 トランジット中に出かける? 万一乗り遅れたらどうするんだ。そんな言葉が頭をよぎる。けれどもいつもの滞在時間は1時間半で今回は5時間半。片道30分。
 そんな計算を疲れた頭でぼんやりしながらも女に袖口を引っ張られてカツカツとブーツを鳴らしながら飛行場のフローリングの床を引きずられ、気がつくとゴツめの国鉄に乗り、妙に広い道路を渡って公園を横切り暫く進むと灰青の海に浅い波が浮かんでいるのが見える。その手前に人だかりが見え、女は人だかりを割入って気がつくと目の前に人魚姫の像があった。
 妙にバランスの悪い大きな石の上に黒みがかったブロンズ像が乗っている。

「へぇ、本当に人なんだ」
「人?」
「そう、人魚感がかけらもない」

 改めてよく見ると、その足元はきちんと2本の足にわかれている。踵がわずかに飛び出てヒレに見れなくもないけれど、どちらかというと尖ったブーツだなと思う。この女が履いている青いピンヒールとひらひらしたマーメイド型の裾の絞ったドレスのほうが魚に見えるくらいだ。

「満足した?」
「満足もなにも無理やりつれてこられたようなものだぞ」
「そう、じゃあ次はどこにいこうか」
「どこって乗り継ぎが」

 そう思って見た腕時計はまだ14時だった。18時半まであと3時間半。本当に観光なんてできるんだな。

「うーん、アマリエンボー宮殿の交代式はもう時間が過ぎちゃってるし、ニューハウンまで行きましょう」
「ニューハウン」

 人魚姫から川沿いを歩き、向かいに不思議な形のオペラハウスが見え、四角く巨大な石造りのホテルや宮殿を横目で眺めながらアンデルセンの好んだカラフルな街並みに至る。川に沿って強い風が吹き、女の髪をぱたぱたと吹き飛ばす。狭い運河を挟んで赤黄青のカラフルな4、5階建ての三角屋根。浮かぶボートも色とりどり。
 女は道沿いのカフェに入り、アボガドとトマトののったスモーブロー(オープンサンド)を注文した。俺はコッグ・トースクを注文する。ボイルされたタラに粒マスタードがたっぷりはいったホワイトソースがけ。マスタードの刺激が胃を動かして、ホワイトソースのまろやかさが疲れを癒やす。

「なんだか変な感じだ」
「そう?」
「こんなところでこんなものを食べるとは思わなかった」
「まぁ、そんなこともあるよ、飛行機が遅れたんだもん」
「そうだな、遅れたんだもんな」

 食べ終えたら4時半で、緯度の高いここではすでに日は暮れかけている。灰色に染まる雲の隙間に淡い紫色とオレンジ色が漂いそれを運河が反射している。赤い家も黄色い色も緑の家も全て同じような色に変わっていく。
 なんだか夢のようにぼんやりしている。

「なんで俺に声をかけたんだ?」
「近くに座ってたし、いい人そうだったから」
「いい人そう?」
「そう、荷物上げてくれたし」
「そのくらいはするだろう?」
「最近はあんまりないんだよねぇ。それに一人じゃつまらないから」

 旅行先ではトラブルも多いと聞く。
 俺のどこが無害そうに見えたかよくわからないが、やけに疲れてそうにも見えたらしい。エコノミー症候群の解消にもよい。そう言わるとなんとなく体が軽くなっているように感じた。疲れているには疲れているが、それまでのような伸し掛かるような思い疲れではなく心地よい疲れのようにも感じる。とっとと眠りたいのには変わらないけれども。

「こういう出会も旅の醍醐味よね」
「そうかもな。面白かった」

 それで最寄りの駅から地下鉄に乗って空港に戻ると5時すぎ。まだ時間はあるけれども早めにチェックインをしようと言うと女はチケットカウンターでチケットを受け取る必要があるそうだ。

「それじゃあ先に行ってて」
「わかった」

 それで俺はずっと女と手を繋いでいたことに気がついた。
 繋ぐというか掴まれていたに等しくはあるものの、誰かと手を繋ぐなんていつぶりだろう。妙にあたたまった手のひらをぱたぱたと眺めていると女はいつのまにかいなくなり、チェックインをしたけれども搭乗まで女の姿は見つけられず、ベルゲンに降り立って最後の搭乗者が降りるまで待っていたけれど、名前も知らないあの女が降りてくることはなかった。
 結局の所一人で入管に向かった。なんとなく手のひらはまだ暖かいような気がした。

Fin.
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