引き出しの鍵:子供可哀想注意3000字
文字数 2,826文字
何かが胸の奥に支えていた。
それが何か。記憶を探っていくと、子供の頃にたどり着く。僕には幼馴染がいた。確か小学校1年まで住んでいた県の幼馴染だ。僕は親の転勤で転校したんだった。
そうだ、その幼馴染の家は幅2メートルくらいの灰色のアスファルトの道路に面している。住宅街だったと思う。茶色の木製のドアのノブを回して扉を開けると、最初に玄関があって……。
それで僕は小さい頃はその家でよく遊んでいた。
名前は……確かケンちゃんだ。標識は確か……石田? 石田だった気がする。
そうだ、ケンちゃんの家は建売住宅というやつでよくある作りだった。でもなんとなくケンちゃんの家のイメージは灰色だった。今から思うと壁紙が灰色だったとか、そういうものかもしれないけど、全体的に妙に薄暗かったように思う。そうだ、そういえば確かケンちゃんの家は窓のカーテンが全部閉まっていたんだ、いつも。だから暗かったのかもしれない。それから……あとは、なんだったっけ。そうだそのケンちゃんのことが何か引っかかるんだ。
ケンちゃん、どんな子だっただろう。ちょっと猫背気味だった。髪はぼさぼさ気味だった。ああ、そういえば一度洗面所で自分で髪を切っているのを見たことがある。なんで自分で切っているんだろうと思った記憶がある。
後は……どんな顔だったかな。あまり覚えていない。
何をして遊んだんだっけ。そうだ、すごろくとか……ゲームは持っていなかった気がする。それから外でも遊ぶことはなかったな。だいたいは家の中で何かをして遊んでいた。
なんだかよくわからないけれどもそのケンちゃんのことが最近気になっていた。
何故急に気になり始めたのか。その理由はわかっている。
僕が教員免許をとって小学校に就職したからだ。数年前に他界した父さんと同じ仕事。だからきっと、そのせいで僕が小学校のころに心の奥底に押し込んで鍵をかけたそんな記憶がカタリ・カタリと音をたてて外に出ようとしているんだと思う。
丁度今は5月。小学3年生の担任になった僕はなんとか初月を乗り切ったところでゴールデンウィークに突入した。すっかり新しい生活に疲れ果てていて、休日の初日は休んだけれども結局色々作業があって、完全に休みというわけにはいかなかった。
春めいた4月の末から急に気温は上がり、坂の多いこの町を右往左往すれば薄っすらとシャツに汗をかく、そんな季節。僕は今、4月一杯不登校だった男の子の家に家庭訪問に行くところ。何度も電話をかけたが一度もつながらなかった。それで本当はもっと早く訪問をすべきだったのかも知れないけれども日々の慣れない業務に圧迫されて億劫で、先延ばしにしていた。
汗をかきつつ坂の上を見上げると、地平線のように道路がまっすぐに途切れていて、その上には薄く青い空に白い雲がたなびきのどかな空気が漂っていた。それと断絶してする自分の気持ち。その格差が大きすぎる。そうだ、なんだか妙に心の中が虚無的で、こんなに明るいのに胃の中はぽっかり真っ暗なものが堆積しているような、そんなギスギスした気持ちが溢れていた。
多分心の端っこに刺さった棘のようなケンちゃんの記憶のせいだろう。
件の家は坂の丁度真上にあり、インターフォンを押すとピンポンという音が響いた。
しばらく待っても何も音がしない。留守か。
念の為門扉を開けて玄関前にたってトントンと扉を叩いても応答はない。なんとなくそんな予感はしていた。それにしてもこの家には誰も住んでいないのだろうか。門扉を振り返るとパンパンに詰まった郵便受けの蓋が開いてていて、溢れた郵便物がその下に積み上がっていた。雨が降れば湿ってしまう。そう思って郵便受けの蓋を閉めてこぼれた中身を拾って玄関の軒下に置く。
出入りがないのだろうか。ちらりと見えた消印は4月頭のものだった。試しにドアノブを引っ張ってみたけれど、やはり鍵がかかっていてカタリとも動かなかった。
僕の心の底に深く沈んだ鍵のかかった引き出しのように。だから半ば無意識に一歩足を踏み入れる。
玄関ドアのわきのすりガラスの内側は暗く、敷地内に入った一階の窓も分厚いカーテンが降りてやはりその中は暗かった。
去年の資料を見ると春休みに入る前は時折学校を休むことがあったようだけど電話も通じたようで、特に問題はなさそうだった。やはり今はここに住んではいないのかな。引っ越しの手続きをしていないのだろうか。そういえば給食費も支払われていないと聞く。だが転出したのであればその手続をとらないと転出先で小学校に編入できないんじゃなかったかな。
どうしたものだかわからない。帰ったら教頭先生か誰かに相談しよう、そう思って玄関を離れて門扉に手をかけると急に生臭い風が吹いて思わず振り返る。そしてぼんやりと家全体を見上げると、どこかに既視感がある。どこかで見たことがあるような家。分厚いカーテンに覆われた灰色の家。ぼんやり考えて、ケンちゃんの家にとても良く似ていることが思い浮かんだ。
窓に重く垂れ込めたカーテンと薄暗い室内。そうするとケンちゃんの部屋は二階だったと思って見上げて足がすくんで尻もちをついた。2階のベランダの窓が開いていて、そこから子供の足が飛び出しているのが見えた。窓は大きく茂った庭木に遮られている。だから多分、門の内側のこの絶妙な位置だったからこそあのベランダを見つけることができたのだろう。
僕は急いで大声でよびかけ、反応がないことに気づいて警察を呼んだ。
結論からすればその子は辛うじて生きていた。
どうやら1ヶ月ほど前から親は失踪して、1ヶ月の間で家中の食べ物を食べ尽くして朦朧とした意識でベランダに出て倒れたようだ。助かって本当によかった。そして深く後悔した。もっと早く見に行けばよかった。病院の白いベッドに横たわり、何本かのチューブに接続された痩せこけたその男の子の体を見て心の底からそう思った。そうしていると心の奥底の引き出しに引っかかっていたものがカタリと砕けて中から色々な記憶が溢れ出ていた。
そうだ。その記憶によると僕は石田賢だった。今は違う名前になっていたから気が付かなかった。僕はこの子と同じで学校以外は家の中で閉じ込められて暮らしていて、それで毎日帰る度に当時の両親に家から出るなと言われていた。だから家の中で一人で遊んで、そうだ、鏡で見たのは髪を切っている自分自身の姿だったんだ。あの時鏡を通して見た自分の姿がとても嫌だった記憶がある。
目の前の子の髪を触ると脂ぎっていた。おそらく風呂にも入っていなかったのだろう。ひょっとしたら水道も止まっていたのかも知れない。
僕も当時の先生、父さんに発見されたんだ。何故忘れていたんだろう。父さんは本当の父さんじゃなかったのに僕をここまで育ててくれたんだ。それなら次は僕の番だ。この子の引き取り手がいないのなら僕がこの子を引き取ろう。
そう心に決めた。
了
それが何か。記憶を探っていくと、子供の頃にたどり着く。僕には幼馴染がいた。確か小学校1年まで住んでいた県の幼馴染だ。僕は親の転勤で転校したんだった。
そうだ、その幼馴染の家は幅2メートルくらいの灰色のアスファルトの道路に面している。住宅街だったと思う。茶色の木製のドアのノブを回して扉を開けると、最初に玄関があって……。
それで僕は小さい頃はその家でよく遊んでいた。
名前は……確かケンちゃんだ。標識は確か……石田? 石田だった気がする。
そうだ、ケンちゃんの家は建売住宅というやつでよくある作りだった。でもなんとなくケンちゃんの家のイメージは灰色だった。今から思うと壁紙が灰色だったとか、そういうものかもしれないけど、全体的に妙に薄暗かったように思う。そうだ、そういえば確かケンちゃんの家は窓のカーテンが全部閉まっていたんだ、いつも。だから暗かったのかもしれない。それから……あとは、なんだったっけ。そうだそのケンちゃんのことが何か引っかかるんだ。
ケンちゃん、どんな子だっただろう。ちょっと猫背気味だった。髪はぼさぼさ気味だった。ああ、そういえば一度洗面所で自分で髪を切っているのを見たことがある。なんで自分で切っているんだろうと思った記憶がある。
後は……どんな顔だったかな。あまり覚えていない。
何をして遊んだんだっけ。そうだ、すごろくとか……ゲームは持っていなかった気がする。それから外でも遊ぶことはなかったな。だいたいは家の中で何かをして遊んでいた。
なんだかよくわからないけれどもそのケンちゃんのことが最近気になっていた。
何故急に気になり始めたのか。その理由はわかっている。
僕が教員免許をとって小学校に就職したからだ。数年前に他界した父さんと同じ仕事。だからきっと、そのせいで僕が小学校のころに心の奥底に押し込んで鍵をかけたそんな記憶がカタリ・カタリと音をたてて外に出ようとしているんだと思う。
丁度今は5月。小学3年生の担任になった僕はなんとか初月を乗り切ったところでゴールデンウィークに突入した。すっかり新しい生活に疲れ果てていて、休日の初日は休んだけれども結局色々作業があって、完全に休みというわけにはいかなかった。
春めいた4月の末から急に気温は上がり、坂の多いこの町を右往左往すれば薄っすらとシャツに汗をかく、そんな季節。僕は今、4月一杯不登校だった男の子の家に家庭訪問に行くところ。何度も電話をかけたが一度もつながらなかった。それで本当はもっと早く訪問をすべきだったのかも知れないけれども日々の慣れない業務に圧迫されて億劫で、先延ばしにしていた。
汗をかきつつ坂の上を見上げると、地平線のように道路がまっすぐに途切れていて、その上には薄く青い空に白い雲がたなびきのどかな空気が漂っていた。それと断絶してする自分の気持ち。その格差が大きすぎる。そうだ、なんだか妙に心の中が虚無的で、こんなに明るいのに胃の中はぽっかり真っ暗なものが堆積しているような、そんなギスギスした気持ちが溢れていた。
多分心の端っこに刺さった棘のようなケンちゃんの記憶のせいだろう。
件の家は坂の丁度真上にあり、インターフォンを押すとピンポンという音が響いた。
しばらく待っても何も音がしない。留守か。
念の為門扉を開けて玄関前にたってトントンと扉を叩いても応答はない。なんとなくそんな予感はしていた。それにしてもこの家には誰も住んでいないのだろうか。門扉を振り返るとパンパンに詰まった郵便受けの蓋が開いてていて、溢れた郵便物がその下に積み上がっていた。雨が降れば湿ってしまう。そう思って郵便受けの蓋を閉めてこぼれた中身を拾って玄関の軒下に置く。
出入りがないのだろうか。ちらりと見えた消印は4月頭のものだった。試しにドアノブを引っ張ってみたけれど、やはり鍵がかかっていてカタリとも動かなかった。
僕の心の底に深く沈んだ鍵のかかった引き出しのように。だから半ば無意識に一歩足を踏み入れる。
玄関ドアのわきのすりガラスの内側は暗く、敷地内に入った一階の窓も分厚いカーテンが降りてやはりその中は暗かった。
去年の資料を見ると春休みに入る前は時折学校を休むことがあったようだけど電話も通じたようで、特に問題はなさそうだった。やはり今はここに住んではいないのかな。引っ越しの手続きをしていないのだろうか。そういえば給食費も支払われていないと聞く。だが転出したのであればその手続をとらないと転出先で小学校に編入できないんじゃなかったかな。
どうしたものだかわからない。帰ったら教頭先生か誰かに相談しよう、そう思って玄関を離れて門扉に手をかけると急に生臭い風が吹いて思わず振り返る。そしてぼんやりと家全体を見上げると、どこかに既視感がある。どこかで見たことがあるような家。分厚いカーテンに覆われた灰色の家。ぼんやり考えて、ケンちゃんの家にとても良く似ていることが思い浮かんだ。
窓に重く垂れ込めたカーテンと薄暗い室内。そうするとケンちゃんの部屋は二階だったと思って見上げて足がすくんで尻もちをついた。2階のベランダの窓が開いていて、そこから子供の足が飛び出しているのが見えた。窓は大きく茂った庭木に遮られている。だから多分、門の内側のこの絶妙な位置だったからこそあのベランダを見つけることができたのだろう。
僕は急いで大声でよびかけ、反応がないことに気づいて警察を呼んだ。
結論からすればその子は辛うじて生きていた。
どうやら1ヶ月ほど前から親は失踪して、1ヶ月の間で家中の食べ物を食べ尽くして朦朧とした意識でベランダに出て倒れたようだ。助かって本当によかった。そして深く後悔した。もっと早く見に行けばよかった。病院の白いベッドに横たわり、何本かのチューブに接続された痩せこけたその男の子の体を見て心の底からそう思った。そうしていると心の奥底の引き出しに引っかかっていたものがカタリと砕けて中から色々な記憶が溢れ出ていた。
そうだ。その記憶によると僕は石田賢だった。今は違う名前になっていたから気が付かなかった。僕はこの子と同じで学校以外は家の中で閉じ込められて暮らしていて、それで毎日帰る度に当時の両親に家から出るなと言われていた。だから家の中で一人で遊んで、そうだ、鏡で見たのは髪を切っている自分自身の姿だったんだ。あの時鏡を通して見た自分の姿がとても嫌だった記憶がある。
目の前の子の髪を触ると脂ぎっていた。おそらく風呂にも入っていなかったのだろう。ひょっとしたら水道も止まっていたのかも知れない。
僕も当時の先生、父さんに発見されたんだ。何故忘れていたんだろう。父さんは本当の父さんじゃなかったのに僕をここまで育ててくれたんだ。それなら次は僕の番だ。この子の引き取り手がいないのなら僕がこの子を引き取ろう。
そう心に決めた。
了